複眼時評

小島泰雄 人間・環境学研究科教授「からすぐちと地図」

2023.08.01

からすぐちという道具がある。カラスの嘴のようなペン先にインクを含ませ、筆圧をかけないように、同じ速度で紙の上を走らせることで、均質な線を引くことができる。40年近く前の地図演習で、地図作製の専門家である森三紀先生に教わったのだが、短い直線でさえ思ったように描くのは難しく、線を引く練習を繰り返したことが思い出される。

地表の事物を記号化し、平面上に縮小して表したものが地図である。地形図を見ると、村の小さな鎮守も、伏見稲荷も、同じ神社の記号で表され、山や川、集落や行政などの地名が配されている。農地や森林といった土地利用も地図記号の集合として読むことができる。ただ、地図を描くという観点から地形図を見直すと、それがさまざまな線から構成されていることがわかる。

地図に描かれる線は、道路、鉄道、河川、行政界などの線状にのびる事物に限られない。地図が多色刷になる前には、海面や湖水も水際線から波紋のように重なる線で表された。それらの線は、間隔や走向について大局観をもって描かれ、地図作製者の職人的な技能を感じさせるものだった。

電子地図がスマホやパソコンで簡単に使えるようになった今、二次元の平面という軛から地図は解き放たれている。ネットでアクセスできる「地理院地図」は、測量から製図まで国家が担うようになった近代的な地図作製システムの、日本では150年ほどの歴史の到達点を示すものである。吉田南キャンパスを授業の間に移動する新入生は、すぐにその微妙な高低差を体得して、歩く道筋、自転車のルートを決めているが、これも地理院地図ではいくつかのクリックで、吉田南キャンパスを標高0・5㍍の間隔で色分けされた地図として表すことができる。吉田グランドから吉田南総合図書館にかけて、小さな崖が斜めに続き、学生が思い思いにビラを貼る長い掲示板の前の坂道を作り出していることがわかる。

高低差は、電子地図が登場する前から立体模型として表すことはできたが、作製に手間がかかることと、携帯に適さない大きさから、実用には向いていなかった。紙の地図では高低差は等高線で示される。山登りを楽しむ人や、地形図を眺めることの好きな人は、線として表された情報を頭の中で高低差に再構成し、この谷道は先が急登になるので、こちらの尾根道からまわりこんで行こう、吉田山は西側が急な崖なのに、東側はすこし緩やかだな、と理解できるのだが、これはそれなりの読図力を必要とする。

地理学の授業として地図を描く演習を全学部の学生に開いてきた。すでに10年あまり続けた授業なので、200人以上の受講生に地図を描いてもらってきたことになる。授業の目的は、地図を使って自らの考えを他者に伝えることができるよう、主題図に習熟することにあるのだが、教室での作業の半分ほどが、ロットリングと呼ばれる製図ペンで地図を描くことに費やされる。ロットリングはインクを内蔵しており、0・3㍉や0・5㍉といった一定幅の線を描くことができる。からすぐちほどではないが、ペンの角度や速度が線の出来・不出来に表れる。ただ、教室でそれを問うことはない。

世紀が変わる頃から私も、論文や学会発表で用いる地図はパソコンのドローイングソフトで描いている。線の幅も種類も製図ペンに比べると選択肢が多くなっている。書き損じをしても、undoをクリックするだけでやり直せるのは、なによりありがたい。製図ペンではそうはいかない。数時間かけて描いてきた地図が、定規がずれてインクがにじみ、途方に暮れる経験を何度繰り返したことか。

電子地図の時代に、学生に製図ペンを使って地図を描いてもらうのは、線を引く作業を通して、線の多様性を知り、その先にある地域の多様性を考える機会になると信じるからである。「タイパ」と称される倍速の世界は、私たちから考える機会を奪っているように、私には思える。自らの考えを伝えるために一本の線を丁寧に引く、その作業はさまざまな発見をもたらすものでもある。パソコンを使って地図を描いていても、その感覚が失われないのは、からすぐちで線を引いた経験があるからではないだろうか。

小島泰雄(こじま・やすお)
人間・環境学研究科教授。専門は人文地理学・中国研究