複眼時評

諸富徹 経済学研究科教授「環境と経済の対立を超えて―脱炭素化が迫る経済変革」

2023.07.01

1 環境保全と経済成長は対立?


環境と経済は産業革命以来ずっと対立関係にあると考えられてきた。環境保全はつねに経済に費用増加をもたらし、経済成長の足を引っ張るとみなされてきた。

だがIPCC(気候変動に関する政府間パネル)が警告するように、地球温暖化を防ぐには全球的な気温上昇を1.5℃に抑える必要がある。そのために、少なくとも先進国は2050年までに脱炭素化しなければならない。

温暖化防止と経済成長という2つの相反する要請を前に、どう折り合いを付ければよいのか。2018年にノーベル経済学賞を受賞したイェール大学教授のウィリアム・ノードハウスは、この問いに対して経済学の立場から1つの回答を与えた。

2 ノードハウスの気候・経済統合モデルの功罪


ノードハウスが開発した気候・経済統合モデルは、気候変動を抑止しつつ経済成長を可能にする経路を分析するための有力な理論枠組みだ。彼の先駆的な仕事は、気候変動に関する「統合評価モデル(Integrated Assessment Model: IAM)」研究への道を切り開き、環境と経済の関係を分析する思考枠組みを形成した点で高く評価されている。一体それは、どのような枠組みなのか。

経済成長は所得を増やし、我々の消費生活水準を向上させる。だがそれは、温室効果ガスの排出増による気温上昇を招き、環境損害を増大させる。それを貨幣評価したものが「社会的費用」だ。他方、温室効果ガスの排出を削減するには、排出削減費用がかかる。これは、経済成長の足かせとなる。

つまりノードハウスのモデルは、環境保全と経済成長をトレードオフの関係だと捉えている。成長すれば社会的費用が増えるが、他方で環境を保全すれば排出削減費用が増える。

では、このジレンマをどう解くのか。彼のモデルは経済と気候を記述する13本の方程式からなる。その目的関数は、消費×人口で構成される厚生関数である。この最大化問題を解くことで、経済と環境の間で折り合いをつける「最適経路」が導かれるのだ。

注意が必要なのは、「最適経路」が必ずしも温暖化を防ぐ経路と合致しているとは限らない点だ。実際、ノードハウスは2018年論文で最適経路を自ら試算した結果、「3.5℃上昇もやむなし」との結論を導いた。だがこれは、IPCCが求める1.5℃目標とは大きく隔たっている。

3 急速に脱炭素化に向かう現実の経済


「環境と経済はトレードオフ」というパラダイムはしかし、急速に時代遅れになりつつある。なぜか。経済の現実が、すでにこのトレードオフ関係を乗り越えつつあるからだ。たしかに20世紀は、「経済成長=温室効果ガス排出増」の時代だった。だが21世紀に入ると両者の関係は切り離され(デカップリング)、経済成長と温室効果ガス排出削減が両立する経済に突入した。このことは、統計上ではっきり示されている。

なぜ、このような変化が起きたのか。第一は、再生可能エネルギー(再エネ)の大量導入でエネルギーの「非化石化」が起きたためだ。これにより、経済成長でエネルギー使用量が増えても、CO2排出は増えなくなった。第二は交通部門、とりわけ自動車交通の「非化石化」だ。世界の自動車主要市場では近年、ガソリン車から電気自動車(EV)への急速なシフトが起きている。第三は、産業自体の「非物質化」(デジタル化、サービス化)だ。付加価値1単位当たりのCO2排出量が、これにより大きく減少した。

なかでも、再エネの飛躍的拡大と劇的なコスト削減は画期的だ。もはや世界の多くの地域で、再エネは最安の電源となっている。2030年に向けても、脱炭素技術の確立に向けた巨大な投資が世界各地で準備されている。

LSE教授のニコラス・スターンは、21世紀が脱炭素化によって主導される経済になること、AIをはじめとするデジタル技術が新たな産業融合を生み出しつつ、脱炭素転換を我々が想像する以上に加速するだろうと述べている。

こうした大変革をノードハウスのモデルは反映できる構造になっていないため、21世紀の経済に起きる経済変革のダイナミズムを捉えきれないのだ。

4 求められるのは脱炭素化へ向けた経済変革


我々が目にしているのは、脱炭素化への傾斜こそが新たな成長を生み出すという現実だ。ならば、環境と経済のバランスではなく、環境への注力こそが成長を招き寄せるはずだ。

カーボンプライシングの導入、ESG投資の興隆、「カーボンフットプリント」の把握に基づく情報開示、脱炭素化に向けた新しい貿易・投資ルールの形成……。脱炭素化を「新しい公正競争ルール」として市場経済に組み込む動きが顕著になってきている。

脱炭素化時代に我々が依拠すべきなのは、ノードハウスのトレードオフ論ではなく、宇沢弘文の社会的共通資本概念ではないだろうか。これは、我々の社会経済システムの根本に社会資本、制度資本に加えて自然資本からなる社会的共通資本を置く考え方である。

そこでは、自然資本は経済成長と両天秤にかけられる対象ではなく、その保全こそが経済成長の必要条件となる。むしろ、自然資本の保全を制約とした経済運営こそが、より高い成長を生む可能性がある。

実際、筆者が代表を務める「再生可能エネルギー経済学講座」と英国の研究機関「ケンブリッジエコノメトリクス」の共同研究は、2050年脱炭素化シナリオの方が、現状維持シナリオよりも高い成長率を実現することを明らかにした。

筆者は気候変動の現状に危機感をもつ1人だが、他方で将来の変革可能性については期待を持っている。読者の皆様はいかがであろうか。

諸富徹(もろとみ・とおる 経済学研究科教授。専門は財政学、環境経済学)