企画

辺境探訪 北海道一周旅行記

2022.10.16

辺境探訪 北海道一周旅行記

「どこか遠くへ行きたい」そんな想いに駆られたことはないだろうか。日常に不満があるわけではない。人並み程度の生活は送っているつもり。そうであるのに常に漠然とした不全感が付き纏う。そんなとき、人はどこか遠く、日常から離れた場所へと足が向いてしまうものではないか。かく言う私は、何年も前からこの想いに囚われてきた。そして今回、この感情に決着をつけるべく、選んだのが「北海道一周旅行」である。

私にとって日常の対極とは「辺境」である。北海道を辺境と呼ぶことに対して異論はあろうが、道央を除くと地理的、人口的観点から少なくとも「日本における辺境」とは言えるだろう。この企画では、そんな北海道を南は函館、北は稚内まで2千㌔以上かけて鉄道で一周した模様をお届けする。

この旅ではJR北海道の「北海道フリーパス」(2万7430円)を利用した。当パスではJR北海道内の在来線特急列車の普通車自由席が7日間乗り放題になるほか、普通車指定席も6回まで利用できる。正規の切符を使えば総額6万円にもなる区間を半額以下で移動できた。詳しくはJR北海道のHPを確認されたい。(順)

目次

1日目 新千歳空港から函館へ
2日目 函館から釧路へ
3日目 釧路から網走へ
4日目 網走から札幌へ
5日目 札幌から旭川へ
6日目 旭川から稚内へ
7日目 稚内から札幌へ
あとがき

1日目 新千歳空港から函館へ

新千歳空港に到着

蒸し暑い機内から出ると爽やかな秋風が迎えてくれる。気温は25度。快速エアポートに乗り、1駅で下車し、函館行きの特急北斗に乗り換える。

9月中旬の北海道はすっかり秋の色である。収穫を待つ稲穂の群れが目に眩しい。列車に揺られること30分ほどで、前方が開けてくる。太平洋だ。苫小牧駅を出発後、列車は西へと舵を切り、海岸線と並行して走る。向かって左側にはため息が出るほど雄大な海が広がる。焼きつける日光が反射して結晶のように光る水面。その先には、堂々と横たわる渡島半島の姿。この景色を「眺める」ことしか出来ない自分がもどかしい。室蘭駅から函館に近い森駅までは直線距離30㌔程度なのに対し、内浦湾を大回りする必要があるから150㌔程度を移動しなければならない。湾は水たまりのように穏やかである。幸先の良いスタートだ。

北海道新幹線

乗車から2時間半ほどで、列車は太平洋から離れ函館を目指し内陸へ入る。周囲は山々に囲まれ、その麓に田園風景が広がる。ここで列車は新函館北斗駅に停車。2016年に開業した北海道新幹線の暫定的な終着駅である。新幹線が停車するとは思えないほど、こじんまりとした町だ。この新函館北斗駅は函館駅と16㌔も離れており、新幹線の駅と既存のメイン駅の距離では日本で最長とのこと。新函館北斗への設置はいわば札幌延長への準備段階であり、計画が終了して初めてその本領が発揮されるのだろう。北海道新幹線が日本の小さな希望となってくれることに期待したい。(*1)

*1 北海道鉄道の斜陽

一方、地元住民にとって新幹線の開通は手放しで喜べることではない。新幹線が開通したことで住民の足となっていた様々なローカル線が廃止される事例は全国各地でみられる。一部の鉄道マニアにとっても、特色ある路線が新幹線に標準化されるというのは味気ないだろう。実際、北海道新幹線が札幌へ延長することで、周辺の在来線のバス化や第三セクター化が検討されている。しかし今回の場合、起こりうる事態はより深刻である。札幌から函館への路線が途切れてしまえば、在来線と線路を共有していた貨物列車が運行できなくなってしまう。本州と北海道を結ぶ貨物列車は、道外に輸送する北海道産農産物の3割を担うとともに、全国から北海道に向けて生活必需品を運んでいる。環境への配慮、トラック運転手不足の解消といった点から見ても貨物列車の廃止は惜しい。

五稜郭

函館駅につき、チェックインを済ませたら早速五稜郭へ。隣接のタワーから、全貌が望める。まあ、想像通り。星形の五角形は決して権力の誇示や外観の奇抜さを求めたわけでなく、死角が出来ないように生み出された稜堡式要塞という築城方式らしい。塀で囲んだ星型の先端に設置された砲台から一斉射撃をすると十字砲火ができるとのことだ。北方防衛と蝦夷地開拓のため江戸幕府によって築造された五稜郭だが、完成から4年で幕府は滅んでしまう。その翌年に榎本武揚率いる旧幕府軍の本営となったものの、1年足らずで旧幕府軍は崩壊。五稜郭は明治新政府に引き渡されてしまう。結局期待通りに使われなかった五稜郭を見ていると、その奇抜な外見も相まってひどくみじめに思えてくる。生まれてくる時代を間違えたのだろう。

ひとりで夜景

本音を言うとここでホテルに戻ってネトフリを観たかったが、せっかく函館に来たので夜景を見に函館山へ。函館の夜景は、イタリアのナポリ、中国の香港とならび世界三大夜景の一角を占めるといわれる。若干割高なロープウェイに乗り山頂に到着。納得の景色である。これは三大夜景に選ばれるはずだ。何よりもその「形」がいい。陸が砂洲でつながってできたトンボロ地形が手伝って、ちょうど砂時計のような形状をしている。こちらへ迫ってくるような勢いと向こうへ広がる開放感がある。力強い景観だ。もう少し眺めていたかったが、次から次へとロープウェイで人が運ばれてくる。閑散とした函館の市内と比べるとここだけ別の世界のようだ。修学旅行生やカップル、家族連れで展望台はたちまち満席状態に。当然1人客は稀で、なんだかやりきれない気持ちになったため早々に引き上げることにした。「一人旅あるある」である。



函館山からの夜景

函館山からの夜景




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2日目 函館から釧路へ

函館朝市

早起きして朝市へ。やはり北海道といったら海鮮だ。この日の為に1ヶ月間生魚を断っていた。昨夜の展望台とはうってかわって観光客は少なめ。彼らは今頃ホテルでぐっすりだろう。浮かれた気分で辺りを物色していると夕張メロン専門店の店主らしきおじさんに声をかけられ店内に入る。結局この日の食事はメロンでスタートになった。真っ黄色の果肉には洗練された細やかな甘さがぎっしりと詰まっている。数分で平らげ、彼の勧めに応じて、向かいの海鮮丼屋で朝食を取ることにした。マグロ丼1杯550円という破格の値段に「北海道に来たな」と実感する。丼はもちろんだが、なによりサービスの蟹の味噌汁が最高だった。彼らの親切心と味噌汁の温もりが、昨晩の夜景で冷えた心に沁みる。

500㌔越えの長旅

本日の目的地は釧路である。9時発の特急北斗にのり、南千歳で特急おおぞらに乗り換え。7時間超えの長旅だ。持参した本を1日目で読み終えてしまい、退屈を覚悟していたがそれは杞憂であった。時速120㌔の車窓から展開される海、山、湖に終始圧倒されてばかり。バスや車だとどうしても景色と自分との間に距離ができる。間近で景色を楽しめる狭い道路になるとスピードを抑えざるをえない。無機質な防音壁で視界が閉ざされることもしばしばだ。しかし鉄道はその心配がいらない。手を伸ばせば届きそうなほどの至近距離を保ちつつ、手つかずの自然の中をハイスピードで駆け巡る。加えて費用削減のためなのか、驚くほどトンネルが少ない。線路と周囲を区切る柵は「形だけ」といった印象で視界を遮ることはない。実際、エゾシカなどの野生動物がたびたび線路内に侵入してくるらしいが、観光客にとってはありがたい。

寂れた釧路

背後の夕日が、真っ赤な光を投げかけている。列車の影が槍のように尖り始める。釧路に到着だ。商業施設が併設された民衆駅のうち、道内で現存する最古の釧路駅が出迎えてくれる。駅舎を出ると日本の端にやってきたと実感するような、なんともいえない世紀末感が広がる。(*2)駅前のシャッター街はゾンビがふらっと現れても不思議ではないくらい退廃的だ。まるで日本の未来を先取りしているかのようである。かろうじて営業している年季の入ったイタリアンに入り、「釧路人のソウルフード」と銘打たれた「スパカツ」をいただく。その名の通り、スパゲッティの上にトンカツがこんもりと盛られ、ミートソースがかかっている。悪くないが飽きる味。終盤は半ば強引に口に押し込み店を後にした。近所のホテルで日帰り入浴を済ませ、ゲストハウスに向かう。

*2 釧路いまむかし

「さいはての駅に下り立ち雪あかりさびしき町にあゆみ入りにき」これは1907年1月に釧路駅を訪れた石川啄木が詠んだ詩である。当時の釧路の人口は1万8千人。マイナス20度になることも珍しくなかった1月の釧路は、啄木にとって文字通り「さびしき町」であったろう。しかし当時、釧路は繁栄の黎明期真っ只中だった。啄木が訪れる前年に開通した鉄道によって十勝方面から木材などが届けられ、釧路は物資の集散地として地位を高める。鉄道と結びつくことで釧路港が開港。1920年には釧路川、阿寒川流域の原木と阿寒川の水を利用することで大規模な製紙工場も建設され、周囲に市街地ができた。時を同じくして東部の炭鉱では本格的な石炭の採掘が始まる。さらに豊かな水産資源に助けられ、釧路港は世界有数の漁港に成長した。道東の拠点都市として繁栄していた釧路に翳りが見え始めたのは20世紀後半で、エネルギー革命を経て炭鉱が閉山され、イワシの水揚げ量激減などにより漁業も停滞。バブル崩壊に伴って、製紙業も従来の勢いを失った。啄木が釧路を訪れて100余年。皮肉にも、今の釧路は「さびしき町」に戻りつつある。

初めてのゲストハウス

相部屋が苦手なため、当然ゲストハウスも未経験だ。だが今回、釧路駅周辺のホテルが軒並み満室だったため止むを得ず利用することとなった。当初はかなりビビっていたものの、オーナーらしきおじさんがやさしく出迎えてくださり、胸を撫で下ろす。当然「どこ大?」と聞かれるわけだが、こういうときに「京大」は強い。会話のネタとしてかなり保つ。彼は立命館大学の出身らしく、結局30分ほど話し込むことになった。部屋に案内され荷物を下ろしていると、突然後ろのカーテンから髪の薄い初老の男性がにゅっと顔を出した。「テレビ見てもいいよ」と優しく声をかけてくれる。軽く自己紹介を済ませると、話題は時事的な事柄へ。彼はどうやら反ワクチン派らしく、Twitterで政府に対し「言論で攻撃」しているとのこと。迂闊にも法学部で政治を学ぶつもりだと伝えると、「じゃあ俺と政治談義しようか? 明日まで付き合うぞ」と返されたため丁重にお断りして寝床についた。

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3日目 釧路から網走へ

駆け抜けるワンマンカー

今回の旅では最初で最後となる普通列車に乗り、釧路駅を出発。ひたすら北上し、網走駅を目指す約4時間の旅である。車内はカメラを手にし、来るべき雄大な景色を心待ちにする人々の静かな興奮に包まれている。天井に吊るされた扇風機が忙しく首を動かす。ディーゼルエンジンが唸り声をあげ、車体がカタカタと音を立てている。列車は、定刻通り釧路駅を出発。市街地を抜けると、あっという間に見渡す限りの大自然に囲まれる。釧路湿原だ。その総面積は大阪市がすっぽり入る約287㌔平米で、日本全体の湿原面積の約6割も占めるという。原則として開発が認められない特別保護地区の外縁をなぞるように走る列車からは、手つかずの自然に特有の神聖さが感じられる。思わずここが日本であることを忘れてしまう風景だ。湿原を抜けると列車は深い森の中に突入する。蔓延る木々の隙間に1本だけ敷かれた頼りなさげな線路を、時代遅れのおんぼろワンマンカーが必死に駆け巡る。隙間風に乗って様々な匂いが車内を満たす。卵が腐ったような温泉の匂い、ディーゼルエンジンの酸っぱい匂い、堆肥の鼻をつく匂い、そして、オホーツク海から吹き込む潮風の匂い。出発から約3時間ほどで列車は西へと大きく舵を切り、ひたすら海岸線に沿って走行する。車窓から眺める海面は時間が止まったように穏やかである。空と海を隔てる水平線は定規で引かれたように真っ直ぐだ。見渡す限りの青に思わず吸い込まれそうになる。網走市内へ入ると、地元学生の集団がぞろぞろと乗車してくる。目を皿にしてシャッターを連打する観光客の横で、同じく目を皿にしてスクリーンを連打しリズムゲームに勤しむ学生たちのコントラストはなかなかシュールだった。




車窓から眺める釧路湿原

車窓から眺める釧路湿原





網走刑務所博物館

列車が速度を落とし始める。網走駅に到着。年季のある駅舎を出るとがらんとした街並みが広がる。終始かもめが「かぁかぁ」と哀愁漂う声で叫んでいる分、こちらの方が場末感は強いかも知れない。シャッター街にポツンと佇む町の本屋も、最後の力を振り絞っているという感じでひどく儚げだ。

網走といったら刑務所だろう。流氷館や民族博物館もあるらしいが今回はパス。実は網走刑務所博物館(*3)に来るのは初めてではない。中学の頃、家族旅行で立ち寄ったことがある。当時は反抗期の真っ最中で家族旅行が嫌で嫌で仕方なく、親に半ば連行される形での訪問だった。故にその頃にみた刑務所の記憶は曖昧かつひどくネガティブなものであったため、この度再訪することにした。

網走刑務所博物館では、囚人達の想像を絶する過酷な労働や、刑務所での自給自足の暮らしがわかりやすく紹介されている。また、その他全国各地の刑務所の実態も併せて学べるため、見どころ満載であった。

*3 網走の光と影

そもそも網走に監獄ができたのは何故か。明治10年代の日本では各地で士族の反乱が相次ぎ、「国賊」と呼ばれる犯罪者で国中の監獄がパンク状態だった。一方、欧米と肩を並べるべく富国強兵政策をとる政府は豊かな資源を求めて北海道の開拓を急いでいた。また、ロシアの南下政策に対する北方の守備強化も急務だった。そこで政府は大量の囚人を安価な労働力として網走に送り込む。冬には零下20度にも冷え込む原生林と湿地帯で、囚人たちは2人ずつ鉄の鎖で繋がれて働かされる。人力のみで道央まで約160㌔余りの道路を通す突貫工事だ。栄養失調や負傷で死者が続出し、看守を含め200人以上が犠牲となった。網走に送られたのは多くが無期懲役や長期刑の重大犯罪者だったため、工事中に死亡してもかまわないという判断だったのだろう。しかし、道北と道東の結節点として重要な役割を果たす現在の網走は、彼らの存在なしには成立し得なかったことは確かである。

旅情誘う北浜駅

時間が余ったため、もう一度オホーツク海へ。あれほど風光明媚な景観は車窓からだけではもったいない。網走駅から列車に揺られること15分、北浜駅に到着。ホームを出て数秒歩けばもう砂浜だ。ざわざわと鳴る潮騒が耳に心地いい。掘っ立て小屋のような駅舎の待合室の壁には無数の名刺がびっしりと貼られている。ここにきた人々が「存在した証」として残したものだ。さらに隅に置かれた棚の上には「旅ノート」なるものを発見。そこには訪問者の思いの丈が自由気ままに綴られている。北海道ツーリングで立ち寄った人。流氷を見にはるばる沖縄からやってきた人。遠い昔に訪れた北浜駅の風景が忘れられず、長い時間を経て再訪した人。時折、手書きのデッサンも挿入されており、最果ての地ではあるが人々の温かさを感じる。駅舎の横に設置してある木造の展望台に登ると、竜の尾のように延びる知床連峰がくっきりと。もちろん鮮やかなブルーに染まるオホーツク海は、言葉で表すのが不適切なほど美しい。砂浜に等間隔で立つ釣竿から延びる無数の糸がきらきら光っている。写真だとこぼれ落ちてしまう生きた風景だ。待合所で列車を待っている間には、神奈川県から来たという2人組と軽く言葉を交わすこともでき、人生に残るであろうかけがえのない思い出となった。いつかまた再訪したい。




北浜駅から望むオホーツク海と知床連峰

北浜駅から望むオホーツク海と知床連峰





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4日目 網走から札幌へ

退屈な車内と冷淡な街

網走から旭川を経て札幌(*4)まで行く。5時間越えの旅だ。4日目ともなるとだんだん景色に飽きてくる。特に今回は北海道のど真ん中を走ることもあってなかなか視界が開けない。海はもちろん湖もあまり見かけず、加えて終始道路と並行して走るためパッとしない眺めだ。昨日のオホーツクの眺めが美し過ぎたせいで余計退屈に思える。当然のようにスマホは圏外。網走の本屋でなにか買っておけばよかった。前のサラリーマンが背もたれを限界まで倒していびきをかいている。向かいの席の親子連れは倦怠期の夫婦のようだ。延々と繁る針葉樹。周期的に揺れる車内。気まぐれに現れる没個性的な村々。終わりのないループに微かな吐き気を覚える。朝に飲んだコーヒーのせいで、体は眠りを欲するも脳がそれを拒否している。

催眠と覚醒の綱引きが終わらぬまま、車内放送が鳴り札幌駅に到着。隙間なくびっしりと建つビル群に圧倒される。札幌の歴史は意外と浅く150年ほどしかない。全面ガラス張りの建物で構成された碁盤の目状に広がる街並みは、近代的であるとともにどこかよそよそしさを感じさせる。そもそも故郷から遠く離れた都会にいると、糸の切れた凧のようにひどく心細くなってしまう。絶え間なく押し寄せる雑多な集団に否応なく飲み込まれて、無名な構成員になったのも束の間、再び大海に投げ出される。そんな運動に巻き込まれていると、自分の存在が道端に落ちている石ころと同等に思えてくる。その町が遠ければ遠いほど、大きければ大きいほどその思いは募る。

*4 北海道の地名とアイヌ語

ここで地名について紹介しておこう。北海道の地名は多くをアイヌ語に由来している。「札幌」もそのうちの1つで、「札」は「乾く」を、「幌」は「大きい」をそれぞれ表しており、諸説あるが札幌の中心部を流れる豊平川が乾季になると乾いた河原になることから、「サッポロぺッ(乾く大きい川)」と呼ぶようになったと言われている。もとよりアイヌの人々にとって、食糧の供給地や交通路として川は重要な存在だった。そのため、アイヌ語で「川」を表す「別」や「内」が付く地名があらゆるところで見受けられる(温泉で有名な「登別」や最北端の市「稚内」など)。その土地の由来を探り、そこにいたアイヌの人々の暮らしを想像することも北海道旅行の楽しみの1つであろう。

スーパー銭湯とシティホテル

時間が余ったので、銭湯へ行く。かなり大きな施設だったが、地元の学生や高齢者でごった返しており芋洗状態である。不覚にも網走刑務所博物館で見た囚人用の入浴施設を連想してしまう。牛丼屋なみの回転率で、息つく暇もない。納得のいかない思いで銭湯を後にする。しかし、駅前のコンビニで買った牛乳が今まで経験したことないほど濃厚で美味しかった。生クリームの様な甘さが後を引く。やはり北海道だからなのだろうか。

普段は2日前にはするのだが、「札幌だから」と高を括ったせいで当日までホテルの予約を怠っていた。当然駅前は満室。徒歩で20分ほど離れた1泊1万のシティホテルに泊まることになった。どんなサービスを享受している時も、予想外の出費への後悔が募る。ただでさえ旅には金がかかる。交通費や宿泊費を節約したところで1日1万円の出費は確実だ。特産品を食べたり、有料の施設に入館するとなったらあっという間に許容範囲を超える。「身銭を削る」という言葉の通り、お札を出すたびに自分の肉体の一部を切り落としているような感覚だ。生来の吝嗇気質がこれに拍車をかける。寝ることから洗濯、風呂、そして水を飲むことにさえ金が要る。存在しているだけで金が消えていくこの現象には時々気が狂いそうになる。稼ぐときにも、使うときにも影が付きまとう「金」という対象への正しい接し方をまだ知らない。

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5日目 札幌から旭川へ

札幌駅から旭川駅へは特急で1時間半ほど。旭川は快晴にも関わらず、時折吹く北風が肌を刺す。半袖にするか長袖にするか迷うような気候だ。旭川駅は広々と開放感があり、有り余る土地をたっぷりと使っているといった感じで贅沢である。

長旅の弊害

思うに旅は4日あたりまでが最適だと思う。5日目あたりから、日常に上手く戻れるかへの心配が募り始める。こうやって日々の義務を怠り、遠い地で時間と金を浪費していることのツケが溜まっている様な気がする。自分の知らないところで周りにジリジリと遅れをとっているようでなんだか落ち着かない。その土地の市民を見かけると、彼らのおくる規則的で身分相応な生活への欲求を感じる。また、景色を眺めたり、列車に揺られたり、食事を提供されたりと、あらゆるものに受動的に接するばかりでこちらからの働きかけが希薄である。まるで自分が出口のない澱んだ池になったかのようだ。加えて、非日常的であるはずの旅が日常化しつつあるせいで風景もどこか新鮮味を失いつつある。

旭川動物園

なんだかんだいいつつも、旭川動物園はかなり見応えがあった。十分なスペースに動物の習性などを織り込んだ設計を施すことで、動物たちの自然な動きを間近で観察できる「行動展示」が有名なこの動物園。水中をダイナミックに動き回るアザラシやペンギンの引き締まったボディラインを堪能する。岩の上でぐったりしているライオン、トラ、ヒョウからは王者ゆえの孤独と苦悩がひしひしと伝わってくる。真っ白な巨体を揺らしながらのっしのっしと歩くホッキョクグマの姿には暴力と美の共存がみえた。最も印象的だった動物は、意外にも「カバ」である。鈍器を思わせる口元の上にコブのように飛び出た目をもち、糞まみれの水槽を泳ぐ彼らは正直かなりグロテスクである。しかし細部に目を瞑り1歩引いて観察してみると、ブルドックが水浴びをしているようで愛らしい。グロさと可愛さは紙一重なのかもしれない。1人なので誰かと感動を共有することもなく事務的に回っていると気付けば出口に。余程の動物マニアでない限り、動物園は複数人で行くべき場所だろう。

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6日目 旭川から稚内へ

塩狩峠(しおかりとうげ)を通る

旭川駅から特急宗谷で稚内駅へ。本来は日本最北端の地、宗谷岬に行く予定だったがあいにくの曇り空のため、明日にお預けだ。特急宗谷の車内は大きなリュックを担いだ観光客がほとんど。日本の果てを目指すものとして無意識下である種の「つながり」を感じてしまう。列車は旭川駅を出発後、三浦綾子の小説で有名な塩狩峠を通過する。中学生の頃、ブックオフで100円で買ったものの数年積んだまま、高2の頃に読了した本書。あらすじを読む限りスリルある娯楽小説だと思っていたのだが、半分を過ぎてもその要素は一切なくどこで切りあげようかと思案しながら惰性に惰性を重ね、読み終えた思い出がある。20世紀初頭に実在したクリスチャンを題材としていて、当時のキリスト教への社会の態度が丁寧に描き出されている。正直内容はあまり覚えていないが、読了と共に感じたカタルシスはなんとなく記憶にある。それが内容からくるものだったか、読み終えた解放感からくるものだったのかは定かではないが。

旭川を出て名寄辺りまではハイスピードだが、それ以降が特急とは名ばかりのだらだら運転。乱立する山や丘の合間を縫うように走るため、なかなかスピードが出せない。時折天塩川と並行して走る。石狩川に次いで道内第2位の長さを誇るこの川は、手付かずの豊かな自然が多く、釣り人から人気の高い幻の魚「イトウ」の聖地ともいわれているらしい。

エゾシカに会う

川を見失ってからしばらく経つと、突然目の前に日本海が現れる。グーグルマップを開けば、稚内は目の前だ。急に自分が「日本の最果て」に立っている実感に襲われる。最果ての地を踏むにはそれ相応の心構えが必要なのだと思うが、ダウンロードしたネトフリに夢中になっている間に着いてしまった。稚内駅は思いの外新しく清潔感がある。2階には小さな映画館があるらしい。しかし駅を出ると周囲は殺伐としていて、「テナント募集中」の掲示が至る所に見受けられた。駅の周辺を散策していると野生のエゾシカに遭遇。体長は1・5㍍ほど。遠くを見ているような無表情な視線でこちらを凝視してくる。頭の中をすべて透視されているようで落ち着かない。動物園では決して人気者とは言えない彼らだが、まじまじと見つめると意外と垢抜けた体をしている。黄金色の毛で覆われたスタイリッシュな胴体は、生命力ではちきれんばかりだ。ゆっくりと花壇を跨いだり、駐車場を闊歩する姿はなんだかシュールで浮世離れしている。車窓からずっと野生のエゾシカを探していたが、まさか町中で出会うとは思わなかった。




野生のエゾシカに遭遇

野生のエゾシカに遭遇





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7日目 稚内から札幌へ

稚内駅から宗谷岬までは路線バスが運行されている。とはいっても乗客は観光客がほとんど。市街地を抜けるとバスはひたすら海岸線に沿って走る。多少雲はあるが幸いにも視界は良好。左手には海の青、右手には山々の緑が楽しめ、飽きることがない。元気よく回る風車の群れがこちらに手を振っている。ほとんど停留所に止まることなく、約50分で宗谷岬に到着。バスを出ると、四方八方から吹き荒れる強風で意識が飛んでしまいそうになる。それもそのはず、周囲は風よけとなる建物がほとんどなく、海風がまともに直撃してくるのだ。とりあえず、駐車場脇に設置された売店ですり身汁をすする。車で訪れた家族連れのほかに、ソロツーリングでやってきた人も多い。思い思いにカメラを構え、最北端の地を踏んだ感動を噛み締めている。しかし厳密にいうと、弁天島という島が宗谷岬の西岸の沖に存在しているらしく、北方領土を除けばこれが日本最北端になるとのこと。僅か43㌔先の樺太は、もやがかかっており視界に収めることができなかったのが唯一の心残りだ。

「日本最北端の地」と刻まれた記念碑は、天高く突き出した形をしており、その様は一角獣のツノのように凛々しい。周囲は写真撮影を楽しむ人々で賑やかである。この空間が各々の長い旅路の終点なのだと思うと、ささやかな「歴史的瞬間」を共有しているようで胸が躍る。

険しい顔の間宮林蔵

記念碑のそばには、髪を結い、険しい目つきで水平線を見つめる像がある。間宮林蔵立像だ。まだ北海道が謎に包まれていた江戸時代後期、間宮は単身で樺太や海峡を挟んだ沿海州のサンタンコエやデレンまで乗り込み、当時半島だと思われていた樺太が島であることを確認した。功績を称えられ樺太とユーラシア大陸の海峡は間宮海峡と名付けられるようになる。江戸に戻った間宮は、測量の師である伊能忠敬から最新の測量技術を学習し、「大日本沿海輿地全図」の北海道部分を完成させることになった。色褪せながらも胸を張ってどっしりと構えるその姿には、荒れ狂う幕末の時代を生きぬいた者に特有の気概が感じられる。

再び札幌へ

宗谷岬から稚内駅経由で札幌駅に戻る。やはり札幌は大きい。人口第2位の旭川市が30万人だが、札幌市は200万人に迫る。道民10人のうち4人が札幌に住んでいるという計算だ。居住に適した気候なのか、と思うかもしれないが、札幌は世界屈指の豪雪地帯。実は、人口100万以上の街で年間積雪量が5㍍近い都市は世界中で札幌のみであるという。札幌に続くと言われるウクライナのキエフ(キーウ)でも積雪は4㍍にも及ばない。(*5)

今日は札幌に泊まり、明日はいよいよ帰京だ。やっと帰れることに少し安心する。「私は帰るために旅に出る」とだれかがどこかで言っていたが、言い得て妙である。これほどまで長時間列車に乗り続けるという体験はしたことがなかった。列車への認識が、移動のための「手段」からそれ自体で楽しめる「目的」へと移り変わった。余談だが、乗り物に揺られながらの読書は捗る。駅間も長いため(30分を超えるところもある)有難迷惑な車内放送で気が散ることもない。コーヒーを持ち込めば移動するカフェだ。受験生時代、山手線にひたすら乗りながら英単語帳を覚えている友達がいたが、彼の気持ちが少しわかった気がする。

*5 都市・札幌の発展

なぜ豪雪地帯の札幌が巨大都市に発展したのか。本来、海洋業が主であった北海道では、函館や小樽といった湾岸都市に自然と人が集まっていた。加えて札幌の周辺は湿地と低地ばかりで、居住には向かなかった。しかし、1869年に札幌に開拓使が設置されると、政府が雇った外国人教師が持つ排水技術を用い、低湿地を農地へと変えてゆく。さらに、遊郭が作られたことで故郷へ帰る役人や職人が減り、周辺に町が出来上がった。北海道各地の炭鉱が閉山したことで、人々が仕事を求めて流入したことも札幌の発展に寄与した。こうしてあっという間に約200万人を抱えるほどの巨大都市に成長したのだ。

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あとがき

北海道から遅れること約1ヶ月、ようやく京都にも秋が来た。げんなりする暑さから逃れられる一方、あの季節と分かち難く結びついた記憶がどんどん遠のいていく寂しさを感じる。旅の記憶も、ありきたりな日常の記憶によって着実に埋もれつつある。そしてまたあの気分がむくむくと頭をもたげつつある。「どこか遠くへ行きたい」という感情が。

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