インタビュー

伊藤順二 人文科学研究所准教授 「〈敵性住民〉への不安 人口操作の欲望」

2008.07.16

今回は、戦争がもたらす大規模な民族移動や人口操作という視点から、大国ロシアの国境沿いに存在し、絶えず影響を受け続けた小国グルジアについて、伊藤順二・人文研准教授に聞いた。

―ロシアと第一次世界大戦といえば、もちろんロシア革命を中心に語られることが多いと思います。「戦争→革命」という図式の中に、ご専門のグルジア史という視点を入れると、どのような視点が導入できるでしょうか。

第一次世界大戦は、戦乱の記憶という意味でも、社会的な変化という意味でも、ロシアをガラリと変えた出来事です。「戦争に抱かれた革命」というように、第一次世界大戦はロシア革命へと至る戦争でした。戦争が革命という内乱状態へと繋がっていく、こうした戦争と内乱の近さは、アガンベンの『例外状態』によれば、キケロ以来意識されていたことです。

しかしロシア史においては、史的記憶としても、歴史学上も、第一次世界大戦はロシア革命という主題の影に隠れることが多いようです。私が捉えてみたいのは、革命へと直結しない変化です。それは、自国に住む敵国の住民を大規模に移動させたり排除したりする、「人口を操作する」という発想の現れです。帝政ロシアはドイツ系の住民やイスラム系住民など、開戦後は「敵国のスパイ」と疑われる可能性のある住民を多数抱えていました。いっぽう、敵対国であるオスマン帝国にもアルメニア人が多数住んでいました。国境の向こう側、つまり帝政ロシア側に在住していたアルメニア人はロシアの軍事行動を積極的に支援していました。これらの〈敵性住民〉は、単に辺境民として住んでいたのではなく、両国ともに国の重要な位置を占めていました。例えば、帝政ロシアでは開戦時の首相がドイツ系でしたし、皇后もドイツ系ですし、アルメニア人もオスマン帝国のなかで高い地位を享受していたものはたくさんいました。

ところが19世紀半ばごろから、国境沿いには異民族をいさせたくないという動きが強くなってくる。諜報活動や反乱扇動の可能性を恐れたのです。そのため、周辺に住む〈敵性住民〉を強制的に移動させる政策がとられます。大戦期の帝政ロシアは国境周辺のドイツ系住民やユダヤ系住民を帝国の内奥部に移動させています。その他にも、1880年を区切りとして、それ以前/以降にロシア国民になった人を分断した政策をとる。こうして住民を移動させた国境沿いの土地に、コサックを入れて土地を耕作させながら、防衛もさせる。 こうした政策はソ連も継承していて、1937年には極東の国境地帯で暮らしていたソ連領の朝鮮人が「日本のスパイの浸透を阻止する」ために中央アジアに強制移住させられています。
こうした移動の発想が最も成功してしまった例の一つが、オスマン帝国のアルメニア人大虐殺ですね。

このような人口レベルでの操作を大規模に、かつ組織的にやらなくてはならなかった。その一つの完成形が第一次世界大戦に見られたといえるでしょう。

―その「周辺」の一つがグルジアであったと思うのですが、グルジアではどのような変化が起きたのでしょう。

第一次世界大戦では、ヨーロッパ全体の中でどちらに味方をするかが問われるようになります。もともとグルジアという土地はスターリンをはじめとして、ロシア革命の指導者がたくさん出てきた土地柄です。ただしスターリンのようにボルシェヴィキとなったものは、グルジア人としては少数派です。マルクス主義的な社会主義者は歴史の主役を工場労働者と見ていたのですが、グルジアでは農民反乱への支援をきっかけにメンシェヴェキがグルジア農民に広く支持されていました。

のちのメンシェヴィキ・グルジア政権で首相となるジョルダニアは、第一次世界大戦開戦当時、中立国スイスにいました。彼は地中海を抜けてロシアへと移動する途中、社会党系のネットワークを通じ、ミラノでムッソリーニに会います。ムッソリーニのフランス寄りの考えに影響されて、彼は「ヨーロッパ全体でいえば、フランスが勝つのがふさわしい」と考えるようになります。第一次世界大戦ではフランスとロシアが連携していました。彼らのスローガンは「革命を内乱へ」という革命的敗北主義でいたから、ロシアには負けてほしい、でもフランスには勝ってほしい、ここで彼らの方針も揺れ動くわけです。

一方、「ドイツは工業国としても進んでおり、社会主義運動も発達しているからフランス以上の先進国である。どちらかといえばドイツが勝つべきだ」と考えるグルジア人もいて、彼らの一部は義勇兵としてドイツにつくことになります。

また、「グルジア人」の多くはギリシア正教ですが、1878年の露土戦争で新ロシア領となった地域には「ムスリムのグルジア人」が多数住んでいました。開戦後、ムスリムの多くは進軍するオスマン帝国を支援しました。その後のロシア軍の失地奪回後、国境地帯には懲罰軍が送られ、ムスリム住民は対敵協力者として虐殺されたり強制移住させられています。ただしこの措置は、グルジア人議員の抗議があって一部撤回されていますが。

―様々な利害があるなか、彼らを「グルジア人」として支えている根拠は何なのでしょうか。

ギリシア正教とグルジア語、でしょうか。愛国的グルジア人の中には「グルジアよりずっとあとでキリスト教を受け入れ、グルジア文字ができて数百年後にキリル文字を作ってもらったロシア人は、我々より野蛮人である」というようなことを言う人もいます。19世紀のオーソドックスなグルジア知識人は正教信仰をも一つの柱としていますが、「ムスリムのグルジア人」の統合を考え出すとことばが重要になってくる。

―これからの研究の展望を聞かせて下さい。

ことばと民族の問題とも重なりますが、1877年、つまり露土戦争勃発の年に、それまで週3回出ていた『ドロエバ』紙が日刊化しています。これはグルジア語では初めての日刊紙です。報道するネタと読者ができたということです。従軍記者の中にはこの新聞の創刊者もいて、その息子はメンシェヴィキ指導者の一人になっています。そういえば、大戦勃発直前に、トロツキーも黒海の向こう側で戦争特派員となり、『バルカン戦争』というルポルタージュの名作を書いていますね。前線としてのグルジアにおける戦争報道、特に新聞を調べていきたいと思っています。

―ありがとうございました。

《本紙に写真掲載》