企画

寝ても覚めても暑い夏に サメ映画通への第一歩

2022.07.01

異例に短かった梅雨が終わり、早くも夏本番の暑さがやってきた。夏といえば海、海といえばサメ。この動物が、映画の世界に一ジャンルを築き上げたことをご存じだろうか。この企画では、書籍『サメ映画大全』を道しるべとして、サメを主題とする映画を紹介する。忍び寄るサメの恐怖に背筋が寒くなる名作から、気怠い暑さを吹き飛ばすようなパワー勝負のB級作品まで。涼しい部屋にいながら、サメ映画で夏を感じよう。(編集部)

目次

    玉石混交の94作レビュー 『サメ映画大全』
    サメとの死闘 スリル演出がお上手 『ジョーズ』(1975)
    意思するサメが密室に潜む 『ディープ・ブルー』(1999)
    方向性不明の合体獣合戦 『シャークトパス vs 狼鯨』(2015)
    サメが降り注ぐ街 『シャークネード』(2013)
    シリーズ最終作の意地 『ジョーズ‘87 復讐篇』(1987)


玉石混交の94作レビュー 『サメ映画大全』

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『サメ映画大全』知的風(ちてきふう)ハット・著 / 2021 / 左右社 / 2,000円+税


サメ映画を専門に評論活動を行なうライター・知的風ハットが、1960年代から2020年までに発表された作品を紹介する。

本書によれば、「サメ映画」とは、『ジョーズ』(1975)のヒットを契機として自然発生し、定義が曖昧なままに定着した俗称である。ゆえに、この枠組みに含まれる作品を特定することは難しいが、著者は「サメの存在をメインテーマもしくはサブテーマに含む長編実写創作物」などの暫定的な定義を与え、94作品を選定。各作品の論評を通して、「サメ映画」発展の歴史と、「サメ映画」内に存在する多様なサブカテゴリ―の整理を試みる。

『ジョーズ』が引き起こした一大サメブームは、『ディープ・ブルー』『ロスト・バケーション』『海底47m』などの名作を生み出した。これらは本流映画として、十分な予算とリソース、撮影期間を投じて作られたものだ。一方で、『ジョーズ』の成功はもうひとつの系統を誕生させた。いわゆる「B級サメ映画」と呼ばれる、低予算早撮りの作品たちである。本家『ジョーズ』の翌年には『地獄のジョーズ‘87最後の復讐』という全く無関係の映画が公開。以来、現在に至るまで、様々な著名作品に酷似したタイトル・内容の低予算サメ映画が相次いで製作され、一部は裁判沙汰となった。

このような事情から紛らわしいタイトルが非常に多く、インターネット上にも別作品を混同する情報が溢れる。また、オマージュやパロディだらけの「サメ映画」という海原を独力で正確に漕ぎ進むのは困難だ。そんな読者のために、本書は作品の成立上の事情を簡明に解説し、進むべき航路を示してくれる。

さらに、「くだらない」と断じられかねないB級映画の世界に、いたって真面目な批評の視線を提供するという点でも、読者の力強い助けとなる。B級映画に親しみのない観客は、荒唐無稽な設定や不合理なあらすじ、低俗な演出と質の低い映像に注意を奪われがちだ。しかしながら、低予算映画を熟知した筆者は、様々な難点にうろたえることなく、冷静に分析をおこなう。筆者の視線を手がかりにB級作品を観ると、各作品のなかに個性的なアピールポイントや、製作陣の野心的な試みを確かに発見できる。

もちろん、「A級サメ映画」も十分に紹介されている。作品数では「数撃ちゃ当たる」のB級映画に圧倒されてはいるけれども。装丁や挿絵からもサメ映画への尽きない愛が伝わってくる、ポップだが読み応えのある一冊だ。(田)

「B級映画」とはなにか 
もとは、アメリカで1930年代に長編映画の二本立て上映のため、メイン作品の添え物として低予算で製作された作品を指す。したがって「B級」とは必ずしも作品の質の悪さを意味するわけではなく、既成セットや、別作品で撮影済みのフィルムを再利用することに特徴づけられた。50年代に入ると二本立て上映が下火になり、添え物映画の製作も衰退。本来の意味の「B級映画」の歴史は幕を閉じた。

しかし50年代中盤以降、特定の観客の受けを狙った低予算映画に「B級映画」との呼称があてられるように。既成のセット・映像の使い回しは、この第二の「B級映画」にもよく見られる。映画界の若き才能に実務的訓練の場を与えてきたという点で、本流映画史への貢献も無視できない。

(参考:『映画史を学ぶクリティカル・ワーズ』村山匡一郎・編、2013、フィルムアート社)


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サメとの死闘 スリル演出がお上手 『ジョーズ』(1975)

巨匠スピルバーグが28才で創りあげた、サメ映画の原点。
「ホホジロザメに人食いサメのイメージを与えた」とも(18頁)
ピーター・ベンチリーによる同名の原作小説を基に、のちに「E.T.」、「ジュラシックパーク」等を手掛ける、若きスティーブン・スピルバーグが監督を務めた。音楽は、のちに『スター・ウォーズ』や『ハリー・ポッター』の楽曲も生み出すジョン・ウィリアムズが担当した。

主人公は警察署長のブロディで、妻と2人の子供とともに、物語の舞台、アミティ島に住む。島は、海水浴場をウリにした観光業を強みとする。物語の始まりは、突如、砂浜に打ち上げられた女性の死体が発見されることだ。ブロディはサメの襲来によるものだとし、ビーチ閉鎖を訴えるが、観光客の減少を恐れる島の役人にもみ消されてしまう。サメ対策が行われないまま犠牲者は増え続け、役人はサメの襲来を認める。ついにブロディは2人の仲間とともに、島の命運をかけた、決死のサメ討伐を決意する。世界的にも大ヒットし、アカデミー賞3部門のほか国際的な賞を複数受賞している。サメ映画の原点、金字塔と言われ、高い人気や評価を誇る。

こうした高評価の理由は、スリルの演出が極めて巧妙であることだと考える。そもそも、人類を捕食対象とするサメそのものが本能的な恐怖を招来することは言うまでもない。食い殺されるという動物的恐怖こそが最大の恐怖であり、久しく被食の憂き目を見ない人類という動物もその例外ではないことを実感する。

さらに捕食シーンはもとより、人体の食べ残しの無残な描写が恐怖に拍車をかける。そのおぞましさは戦争映画やサスペンス作品に馴染みのある筆者も顔をしかめる程であった。物語序盤の、欠損した女性の死体の周りに、無数のカニがうごめく様は、何度みても凄惨だ。強烈な視覚的効果の一方で、作品前半、サメはほとんど姿を見せない。観客は文字通り水面下のサメの姿を、サメ視点の水中カメラとあの有名なBGMから想像するしかない。見えない恐怖ほど脳内で増幅されるという、スリラー映画で王道の演出である。

最後に、緊張と弛緩の配分が絶妙であることも重要だ。スリリングな描写のみでなく、ブロディ一家の団欒や、仲間とのジョークの飛ばしあいといった和やかな描写も適宜ある。恐怖と対照的なシーンは、興奮した観客をクールダウンさせ、次なるスリルをより切実なものにする効果を持つ。

本作は、幾度もサメが襲来し、その度に人間が対処するという構成で、単調ともいえるものだ。しかし、卓越した演出効果によって見るものを翻弄し、大いに満足感を感じさせ、名作と言われるのも納得だと思わされた。(玄)

米/スティーブン・スピルバーグ監督/124分


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意思するサメが密室に潜む 『ディープ・ブルー』(1999)

パニック映画のセオリーを随所で破り、
唯一無二の立ち位置を得た、A級サメ映画のビッグネーム。
『ジョーズ』へのオマージュがちりばめられている(65頁)
製薬会社に務めるスーザンは、難病治療薬の開発を目指してサメの脳内物質を研究している。実験の打ち切りを告げられた彼女は、会社の重役を伴って、大洋上の実験施設「アクアティカ」へと赴く。一方、アクアティカでサメの管理にあたるターナーは、ホルモン操作を受けて高度な知能を得た実験サメの危険性を警告するが、スーザンは聞き入れない。彼女の実験が成功した次の瞬間、サメたちはその知能を露わにし、残忍な手口で人間を追い詰めていく。

本作中のサメたちは、監視カメラを攻撃したり電気系統を破壊したりと、戦略的に人間に迫る。また、研究者たちには仲間の惨たらしい死を見せつけ、恐怖を与えようと「意思」するのである。サメがその賢さと敵意を急襲の瞬間まで隠すことができたのは、その知能の高さの証左とも、研究者達が傲慢にも人間の能力を絶対視した結果とも受け取れよう。

ついにサメはアクアティカの外壁を破壊し、海水と共に建物内へと侵入。要塞を思わせる堅牢な実験施設は一転、サメの潜む密閉空間へと変わってしまう。残忍なサメが、狭い建物内のどこかで研究者たちを狙っている。薄暗い室内で怪しく光る水面、静かに迫るサメの気配が醸し出すのは、ホラー映画のような不気味さと恐怖である。

人間がつくり出した「怪物」が人間を破滅に追いやる展開も、不都合な事実から目を背ける研究者のキャラクターもありきたりかもしれない。しかし、彼らに混じって働く、サメの「番人」ターナーのキャラクターが異質で目を引く。彼は過去に密輸に手を染め、服役ののち仮釈放中であり、この施設で働くほかない。そんなターナーを製薬会社の経営陣と研究者達は言外に見下し、「意思を持たない」存在とみなしている。発言権を与えられない彼が、その内心で何を考えているのか容易には伺い知れず、不吉な予感を招く。ターナーは、意思を持ちながらその能力を軽視されるという点でサメと重ねられ、同時に、最も屈強な人物としてサメと死闘を繰り広げるといった構造が興味深い。

アクアティカが破壊される際の大規模な爆破シーンや、サメによる襲撃シーンの迫力は申し分ない。追い詰められた登場人物達がサメを迎え撃つ方法も多彩で楽しめる。また、台詞劇を最低限に抑えながらも、危機に陥った各人が本性を露呈させていく様も見事に描いている。サメ映画の傑作のひとつに数えられるのも頷ける。(田)

米/レニー・ハーリン監督/105分


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方向性不明の合体獣合戦 『シャークトパス vs 狼鯨』(2015)

 シリーズ前作から大きく方向転換し、コメディ色を前面に押し出した。
製作陣には「B級映画の帝王」ロジャー・コーマンも名を連ねる(158頁)
サメとタコの合体生命体が暴れる『シャークトパス』シリーズ3作目。ドミニカ共和国ののどかな沿岸にシャークトパスが出現し人々を襲う。一方、元野球選手が若返りを求めて怪しげな医師を訪れ、「DNAを注入」された末、治療は失敗。狼とシャチの合体怪獣となってしまう。主人公はシャークトパスの心臓を手に入れようと奮闘するも、二体の怪獣が人を捕食しながら島中を荒らし回り、警察の出番となる。

上半身がサメ、下半身がタコのシャークトパスは、サメの顎とタコの触手を併せ持つ。この触手で人を捕らえたり、陸上を走ったりと、便利そうだ。しかし、上半身を海上に突き出して触手で人間の攻撃に応じる姿はかなり間が抜けている。脅威と脅威との単純な足し算が、倍の脅威をうみだすわけではないのだ。

CGの質の低さはある種の趣とも言えるが、中途半端なコメディ要素はいただけない。グロテスクな食人劇に似つかぬ暢気な言動で笑いを誘おうとする単純な手法が繰り返されるうえに、独特な間のとり方はただただ違和感を生み、笑うに笑えない。

また、主人公と元恋人が怪獣との戦いを経て復縁する、という結末をあからさまなフラグで示唆するのはコント的で楽しいのだが、ラブコメとして成立するにはあまりにも多くのノイズがそれを妨げる。特に、主人公、シャークトパス、狼鯨による三つ巴の闘いの裏で、邪悪なシャーマンが暗躍する展開は明らかに過剰であった。恐怖にも、笑いにも、恋の進展にも感情移入できず、鑑賞者として居心地の悪さを感じずにいられない。

奇怪な怪獣同士が戦うという設定だけに頼り切り、物語全体の一体感や舵取りを失っている本作は、別作品のプロットを無理に切り貼りしたようで、皮肉にも作品内に登場する合体怪獣たちを思わせる。どのシーンも記憶には残らず、ため息ばかりの出る、長い87分。(田)

米/ケヴィン・オニール監督/87分


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サメが降り注ぐ街 『シャークネード』(2013)

ケーブルテレビでの放映からヒットした低予算映画。
製作したアサイラム社は莫大な利益を得て、B級サメ映画製作の一翼をになう存在に(142頁)
米国カリフォルニア。真夏の賑やかなビーチを突如、巨大ハリケーンが襲う。また、波によって沿岸まで運ばれたサメの大群がサーファーや観光客を次々と襲撃。ハリケーンに巻き上げられた無数のサメが空から降り注ぎ、フィンのバーは壊滅してしまう。フィンは元妻と娘を救うため、水とサメのあふれかえる道路を、決死の覚悟でロサンゼルスへと向かう。

特徴的なのは、サメが大災害の一要素として位置づけられることである。主人公たちはサメだけでなく、幹線道路に打ちつける高波や、都市を襲う竜巻など、多くの危険に立ち向かわねばならない。サメが空から降るという設定を導入することで、地上からも逃げ場をなくし、全住民がサメの恐怖に打ち震える、パニック度の高い展開に持ち込んだ。主人公らは、海で、地上で、そして最後に空で「天災」と格闘するという意欲的なプロットである。

サメが人間を襲うシーンは、技術・費用面の事情からか、間接的な描写に終始する。すなわち、映されるのは(模型であろう)サメの体のほんの一部と、恐怖する人々の顔、血に染まる海水ばかりだ。しかしそのおかげで低質なCGの多用を免れており、背伸びをしない等身大の演出には好感が持てる。

一方で、キャラクター造形はいまひとつ深みを欠く。フィンはかつての名サーファーで、他人を助けずにはいられない正義感の持ち主だが、元妻や子ども達との関係は悪く、夫や父親としての欠落が示唆されている。要するに、強くたくましく、家庭での失敗がかえって親しみを感じさせる中年男性なのだが、これはアクション映画で最も使い古されたヒーロー像のひとつであろう。また、元妻や娘が彼を拒絶するシーンは、フィンと家族との険悪な関係を記号的に示すだけで、家族内の確執が具体的に示されないのも残念だ。彼らの内面がもっと立体的に見えてくれば、激闘を乗り越えた後の大団円的結末に感情移入できたのだろうが。

大口を開けたサメが、落下しながら凶暴さに満ちた様子で人間に食いかかる描写は奇妙にちがいない。しかし、現実との整合性を度外視してアクション的な楽しさを追究する姿勢は最後まで一貫しているのが良い。チェーンソーでサメと一騎打ちを演じるシーンは、本作に始まる『シャークネード』シリーズの象徴として繰り返し描かれることとなった。作品を通して独自の「くだらなさ」をブレずに掲げ続け、最後には観客にその世界観を受け入れさせてしまう説得力を持っている。(田)

米/アンソニー・C・フェランテ監督/88分


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シリーズ最終作の意地 『ジョーズ‘87 復讐篇』(1987)

 本家『ジョーズ』の正統な続編第4作ながら、
「最低」な映画を選ぶゴールデン・ラズベリー賞を受賞。
エンディングは2通り存在する(41頁)
本作は『ジョーズ』(1975)以来、「ジョーズ2」、「ジョーズ3」と続くシリーズの4作目にして最終作である。監督はジョセフ・サージェント、音楽はマイケル・スモールが担当する。1作目を手掛けたスピルバーグ、ジョン・ウィリアムスは既にジョーズシリーズから離れている。続編の評価がいまひとつ冴えない作品は少なくない。『ジョーズ』もそのうちの1つといっていいだろう。『サメ映画大全』は、本作を酷評しており、動画配信サイトや映画論評サイトでも評価は低調だ。不覚にも、サメ映画ならぬダメ映画などという洒落まで思いついてしまったが、いったいどのような話なのか。

前作まで人食いザメを撃退してきたブロディ一家に対し、復讐のためにホホジロザメが現れ、血族の者だけを次々と襲撃するという展開だ。サメはまず、ブロディの次男をアメリカ東海岸で殺害した後、残りの家族の場所を特定、本来は生息域でないバハマに襲来、長男やその娘にまで襲いかかる。一方で、次男を殺され、他の家族も襲われたブロディの妻、エレンも復讐のために立ち上がるというあらすじだ。なお、1作目の主人公、ブロディは心臓麻痺で死亡し、その妻エレンは、第六感によりサメの襲来に気づくことができるという設定だ。

こうした釈然としない設定や展開も酷評の理由だ。また、スリルに依拠したシンプルな面白さは、1作目では真価を発揮したが、4作にも渡って持続するものではないと感じる。アッと言わせるような、シリーズを通した伏線がなかったことも残念だ。一方で、予想していたよりも楽しめたというのが率直な感想だ。主要な登場人物が増え、コメディやロマンス、家族の団欒など、人間模様の描写の厚みは明らかに増していた。また、随所に1作目を思い出させるような演出がみられる一方で、サメとの対決に飛行機も登場することなどに、従来作との差別化の工夫が感じられる。さらに、ダイビング用の酸素ボンベを使って間一髪でサメから逃れるシーンは、感嘆するほど見事だった。1作目の満足感を基準にすると、本作の魅力は埋もれてしまうかもしれないが、ひとつの作品として向き合うのであれば、必ずしも駄作の誹りに付されるものではなく、ジョーズシリーズ最終作としての意地も感じた。本作の評価は是非鑑賞してから決めて欲しい。(玄)

米/ジョセフ・サージェント監督/91分


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