複眼時評

後藤龍太郎 フィールド科学教育研究センター助教 「瀬戸臨海創立100周年と池田博士とサナダユムシ」

2022.06.16

所属する瀬戸臨海実験所が今年の7月で創立100周年を迎える。瀬戸臨海は、和歌山県西牟婁郡白浜町にある京都大学の臨海実験所である。京都のキャンパスからは遠いが、そのかわりに、目の前には広大な太平洋が広がっている。紀伊半島の沖合を流れる暖かな黒潮の恩恵もあり、白浜近海には豊かな海洋生物相が育まれている。瀬戸臨海では、伝統的に、海産無脊椎動物の分類学・生態学・行動学などの自然史研究が盛んである。海産動物の基礎研究に存分に情熱を注げるこの環境が100年に渡って維持されてきたことは素晴らしいことだと思う。

瀬戸臨海実験所は、1922年に設立された。その創設に尽力したのが、京大理学部生物学科の設置にあたり、動物学講座開設とともにその教授となった池田岩治博士である。彼は広く海産動物の研究に従事したが、特にユムシ類の分類を専門の一つとしていた。ユムシ類とは干潟などの砂や泥に潜って暮らすソーセージ状の生き物で、世界から160種ほどが知られている。浅海だけでなく深海にも生息し、矮雄をともなう極端な性的二型を示すものなど、生態的に特徴的なグループも含まれている。池田博士は国内のユムシ研究の第一人者で、1900年代初頭に日本沿岸から多くのユムシ類を報告・記載し、その多様性を明らかにした。

私は、京大の人間・環境学研究科の生態学の研究室の院生だった頃にユムシ類の進化やその巣穴に住む共生生物の多様性に興味を持ち、それからもう10年以上ユムシ類を研究している。池田博士のことは、論文を通じて、同じ分類群を研究した偉大な先人として昔からよく知っていた。私が院生の頃から特に好きだったのが1904年と1907年に出版された彼の論文の中の図版である。博士が見つけた様々な色や形のユムシ類が一覧できるようになっており、当時の論文としては珍しく生時の体色が色付きで鮮やかに描かれていた。その美しい図版を眺めながら、いつか実物を見てみたいものだと珍種のユムシ類に思いを馳せたものである。一方、瀬戸臨海の創設に池田博士が尽力していたことを知ったのは、北米のミシガン大学での約2年間のポスドクを終えて2017年に瀬戸臨海に助教として着任する少し前くらいだったと思う。これから自分が所属する臨海のルーツにユムシ研究の偉大な先人がいたことを知って嬉しかった記憶がある。

池田博士の顕著な功績の一つにサナダユムシの正体の解明がある。本種は世界最大種のユムシ類で、2メートル以上にもなるテープ状の長い口吻と65センチにもなるソーセージ状の長い体幹(本体)を持つ。日本各地の浅海の砂泥底(干潟など)に生息することが知られ、海底に非常に深い縦穴を掘ってその中で暮らしている。テープ状の口吻だけを巣穴外に伸ばして海底を這わせて餌となる砂泥を集め、口吻の上をベルトコンベアのように移動させ、巣穴内の本体前端部にある口まで運んで食べるのである。1900年ごろ、海底を這う本種の長い口吻は「ウミサナダ」と呼ばれ、正体不明の怪物として多くの動物学者を悩ませていた。ヒモムシの仲間ではないかと推測されることもあったが、池田博士は、これがユムシ類の体の一部、即ち口吻であることを見破った。そして、ユムシ類なら本体部分があるはずだと、東京大学の三崎臨海実験所近くの干潟で調査を行い、1901年11月14日、夜の干潮時に、途方もない苦労の末、泥の奥深くに潜む本体を見事掘り上げたのであった。これによって、怪物の正体が明らかとなり、調査で得られた標本を基にサナダユムシは新種として記載されたのである。

しかしながら、池田博士の三崎臨海周辺での採集の後、サナダユムシの本体が採集されたという記録はほとんどない。池田博士以外の本体の採集例として知られているのは1931年に尾道で採られた1個体のみである。サナダユムシの口吻は干潟で割と見つけることができるが、一生懸命に巣穴を掘ってもやはりどうしても本体まで到達できないのである。自分を含め少なくない海洋生物学者が採集を試みたが挫折してきた。しかし状況は一変する。2019年になってとうとうサナダユムシの本体が再び採集されたのである。尾道の採集記録からは実に88年ぶりとなる。採集したのは瀬戸臨海OBで高知大学教授の伊谷行博士と京大舞鶴水産実験所助教の邉見由美博士らで、ヤビーポンプという道具を使って瀬戸内海の干潟で見事に採集を成功させた。この貴重な標本を提供していただき詳しく吟味した結果、本種の体色や繁殖様式、解剖学的構造について新たな知見が得られ、伊谷博士らと共同でその成果を昨年論文として出版することができた。また、サナダユムシ本体の生時の姿の写真や動画の掲載は世界初となる。

サナダユムシにはまだまだ謎がある。どういう訳かこれまで本体が採集されたのは雌ばかりなのだ。雄はどこにいるのか、あるいは、そもそも雌だけの生き物なのか。また、ユムシ類の巣穴には様々な生物が共生することが知られているが、果たしてサナダユムシの深淵なる巣穴の奥には何か生物が隠れているのか。本体を採集する方法が見出せたことで、この干潟の巨大生物の次なる謎の解明に手が届くかもしれない。また、サナダユムシをはじめ海底に住まう生物にはまだまだ多くの謎がある。一つ一つその解明に取り組んでいきたいと考えている。

後藤龍太郎(ごとうりゅうたろう)フィールド科学教育研究センター瀬戸臨海実験所助教。専門は海洋生物の進化生物学、系統分類学、生態学。