インタビュー

「決めるのは、今の自分の方向性だけで良い」 京大生小説家 青羽悠 氏

2021.07.01

aob.png 京都大学は多くの小説家を輩出してきた。京大に在籍していた小説家と言えば誰を思い浮かべるだろうか?ミステリ小説の大家である綾辻行人や「檸檬」の梶井基次郎は京大出身だ。他には「或る男」の平野啓一郎や、京大を舞台にした世界観が有名な森見登美彦・万城目学など、京大出身の小説家は枚挙に暇がない。現在進行形で京都大学に在学している小説家もいる。青羽悠氏はその一人だ。高校在学中の2016年に歴代最年少で第29回小説すばる新人賞を受賞し、文壇デビュー。次回作の執筆作業に並行して受験勉強をこなし、2018年に京都大学総合人間学部に入学し、今年で4回生となる。今回本紙はそんな青羽氏から話を聞いた。(航)

――これまでにどれくらいの数のインタビューを経験されましたか?
年に5、6回ぐらいか。通算20件くらいかと思います。注目していただいて、ありがたいことです。

――多くの経験値をお持ちなんですね。小さなころはどのような子どもでしたか?
京大生には多い気もしますが、そつなくこなすタイプではあったと思います。特段珍しいエピソードはありませんが、両親が、特に父親が放任主義で、あれをやれ、これをやれ、というタイプではなかったことはありがたかったな、と思います。習い事はしていましたが、それも無理にさせられていたというわけではありませんでした。

――なるほど、ご家族の存在は大きかったのですね。ご家族の方からクリエイティブな面を受け継いだなんてところはあったのでしょうか?
父親が広告業をしています。カレンダーなんかは自分たちで家族の写真を使ったものを自作しますし、年賀状なんかは家族で凝ったものを作る(笑)。

――大学構内・京都府内で好きなスポットはありますか?
文学部東館の中庭ですね。雰囲気が独特で、だいぶ昔のポスターが貼ったままだったりして人も少なくて、時間が止まっている感じがします。大学構内はおおらかでのんびりした感じがあって好きです。市内・府内では鴨川や哲学の道を気に入っています。夜中とかにふらふらしたり、人と歩いたりはよくするかなあ。京都はやっぱりいい街ですよ、フィールドが小さくて自転車で行ける場所が多い。ゲームで例えるとエリアを移動する際にロード画面がありませんよね(笑)。どこかに出かけるときに電車での移動はロード画面のようで煩わしくも思います。

――今読み進めている小説はありますか?
いろいろと読むようにはしています。この前は東野圭吾を読んで、エンタメ作家はすごいなあと思いました。年が明けてからは村上春樹の全集を読んでいます。あとは新書とか漫画、軽いものから重いものまで雑多に読みます。本は面白いなあと思うし、そう思っていたいので。

――初めて読んだ小説は何だったか覚えていますか?
一番最初ですか。なんでそれを読んでいたの、という感じですが真保祐一先生の「アマルフィ」だったと記憶しています。確か「外交官シリーズ」三部作の内の一つで、全然子供向けではありません。家においてあったものを、小学生、おそらく高学年のときになぜか読みました。難しそうな本を読むのが格好いいと思ったからかもしれません。

――難しい内容の小説をそんなときから読んでいたのですね。学校での国語の成績はどうだったんですか?
学校の成績はよかったですよ。国語に限らず、苦手なものもありませんでした。ただし得意なものもありませんでした。僕には全体的にそういうところがあって、偏りというものがあまりないように思います。

何者でもない自分

――高校在学中のインタビューでは、「(今の自分には)現役高校生というアドバンテージがあるのかな」と言っています。大学生になって、そのアドバンテージはどうなりましたか?
やっぱり小説を書くことの意味合いが変わりました。高校生の時の自分には無限の可能性があったし、何でもできるというバイタリティにあふれていました。大学生になるとその可能性が狭くなっていきます。この「高校生というアドバンテージ」とは、何者でもない自分という意味でのアドバンテージです。大学生になると、自分が何者なのか決めなくちゃならなくなります、就活とかね。そうすると「何者にもなれない自分」にはマイナスなイメージを持つようになる人もいると思いますが、僕は自分が不確かな状態はプラスだと思っています。

――第一作「星に願いをそして手を」には技術的な未熟さがあったと過去には言っていますが、今読んでどう思いますか?
間違いなく未熟で、小説の形になっているのが奇跡です(笑)。新人賞の選考で、「小説になり切れていない」という評価もありました。多少の構成力もあったとは思いますが、作品から出るほとばしる何かと気合で新人賞をつかみ取った感じはあります。

星に願いを、そして手を。青羽悠(著)
2017年2月発売 
1600円(税別) 集英社
――青羽さんの作品には視点が複数あるものが多い印象を受けますが、そういった形式が得意なのでしょうか?
一人の主人公で一本を書くというビジョンが見えないんです。短編ならできますけどね。自分は映画やアニメのようにカメラを回している感じで全体を書きたいんだと思います。いろんな側面から書きたいんですよね。ただ、視点が一つで、主観的にのめりこむような作品にも挑戦したいです。そこには自分というものがだいぶ固まったという感覚があるんだと思います。

――小説を書くという行為の理由を問われたとき、青羽さんは「何かになりたいから」と答えることが多いですが、今も同じように考えていますか?
当時は自分に無限の可能性を感じると同時に自分が定まらないという怖さがありました。そこで何かになりたいという思いが強まり、その気持ちから小説を一本まとめようと思いました。しかし小説家になることで、おごった言い方ではありますが、ある種満たされて、これからどう動けばいいんだろうと悩んだ時期もありました。

――その満たされた感覚には京都大学への合格といったものも入ってくるのでしょうか?
それは入りません。大学は手段でしかなくて、それだけで満足はするべきではないと思うので。

心を高鳴らせるもの

――高校生の時には、次は自分の周囲のことをテーマに話を書いてみたいと言っていますね、自分の周辺の話は書けましたか?
通過儀礼としてはやるべきだと思います。テーマは周りにしかありませんから。僕の場合、自分自身が定まっていなかったので、以前書き上げた自分の周囲のことをテーマにした作品は粗いものになってしまって没にしました。身の回りをテーマにして書くのは難しいと思います。ただ、今でも大学生の話を書きたい、書かなきゃという感じはしますし、ぼちぼち書いています。
――「凪に溺れる」を執筆するにあたって前作との比較など周囲の評価を気にしたそうですが、実際にどうでしたか?
二作目は鬼門です。作家と編集者が一番ピリピリするところだと思います。一作目との関係はすごく気にしましたが、気にしすぎても進みません。第一作からかなり間は空きましたが、「凪に溺れる」はだいぶ反応は良く、次の仕事につながる期待以上のものが出来たと編集部でも高く評価されました。ただ、LINEで個人的に僕に感想を言ってきたりはやめてほしいですね(笑)。

――第一作「星に願いをそして手を」では〔夢〕が、第二作「凪に溺れる」では〔予感〕がキーフレーズのように思いますが、それらの違いは何でしょう。
夢はきらきらした、かつ具体的なところだと思います。例えば宇宙飛行士になりたいとか。でも、心が高鳴るときって、夢に関して以外にも絶対あるんですよね。そんな心の盛り上がりを予感という言葉に託しました。例えば学園祭が始まる前の夜とか、予感がしました。それに予感はもっと幅広くて、ネガティブな方向もありえます。そういうものが人間を生かすんだと思います。

凪に溺れる 青羽悠(著)
2020年7月発売 
1600円(税別) PHP研究所
――同様に二作を比較すると、「星に願いをそして手を」では宇宙を、「凪に溺れる」では音楽をテーマにしていますが、当時のご自身の興味に密接したものだったのでしょうか?
そうですね。宇宙も音楽も好きです。自分の中で輝いているものを書いたつもりです。

――それでは例えば、「凪に溺れる」を執筆していた時期には実際に音楽を作っていたなんてことはあるのでしょうか?
実際に作っていました。一作目を書いて賞を取り、自分のストッパーが取れたように感じて音楽も作り始めました。ただその後時間と精神的余裕が小説に割かれていって、今はなかなかできていません。

――青羽さんは理系の研究室に入り研究を行っていると聞いているのですが、研究対象と小説は今後関わってくるのでしょうか?
地球科学系の研究室に入っています。自分の学問への興味は大学に入ってから広がりました。研究で見えてきた学術的な面白さは、小説や漫画と相性がいいように思いますし、自分の小説の中に取り込めたら、と思っています。

――単行本にもなっている二作について、先生としては作品が自分の手を離れていくことに恐ろしさなどはありますか?
自分の手を離れた感覚はすでにあります。一度書いたものに対しては一読者としての感情しかない。書いてしまえば、数日たてばもう自分とは切り離されて、次のものを書かなきゃな、とため息をつくことになります(笑)。

――次回作について今考えていることがあれば教えてください。
いまふたつの作品の制作を進めています。ひとつは大きなスケールで描くフィクション性の強いものです。あとひとつは大学生とか、自分にとって距離が近いものも同時並行で書いています。次回作については近いうちに具体的ないい知らせができたらな、と。いろいろなものを巻き込みながらやるつもりなので楽しみです。

一人の京大生として

――大学生として、これまでどんなことをされてきましたか?
ある時期から研究室に居候していて、そのまま入りました。いろんなことをやりましたね。電子工作をしたり、ドローンをとばしたり。自由研究みたいでそれはすごく楽しかった。あとは宇宙ってものがもとから好きだったけど、1回生の時に受講したILASセミナーでの縁があって、無重力実験の手伝いなんてものもさせてもらいました。これからの人生でまた宇宙には関わると思う。それこそ「予感」がしますね、すごく楽しみ。

――コロナ禍の大学生活となってしまいましたが。
コロナ禍以前の2年間でふらふらしていたので、コロナ禍は自分を定めていく、広がった世界の中で決めていくというときになりました。なのでタイミングが悪すぎるということはありませんでした。ただ人と会いづらいのは自分もしんどいし、みんなしんどいと思う。京大内でもコロナ禍のなかで動ける人と動けない人に二分されていると感じます。その中でも出会える人はいて、コロナ禍でタフですごい人が育ったんだろうなとは思います。でも動けていない人たちもいて、とても可哀想です。

――コロナ禍の出会いと言えば先日法学部の学生が対面で五月祭を行っていました。
是非には興味がないけど、お疲れさま、という感じです。批判とかは分かっていてやっただろうから。ああやって答えを出していかないと、コロナ禍はしんどいと思う。大学側は黙認とかできなかったかな、とは思いますが、組織ですからなかなかできないんでしょう。

――小説すばる2019年9月号に掲載された短編「サイテーな日」には先生の作品の中では珍しく京都左京区・京大付近の描写があります。同じく京大出身の作家である森見登美彦先生や万城目学先生のように、京大を舞台にした作品を執筆されるご予定はありますか?
京大を舞台にした作品もいずれ書きたいですね。けれど今は自分が学生をやっている最中なので、距離が近すぎて書けないのかもな、と。いつかきれいな形で書けたら良いなと思っていますね。

――先生が描く京大生の姿も読んでみたいですね。例えば森見先生が書く、くされ京大生のようなものでしょうか?
いやぁ、京大といってもいろんな人がいるので(笑)、いろんな人を書きたいです。ただ共通項というものはあると思うので、それは出せたら良いですね。あと寮の話。吉田寮かな。現代にとって吉田寮がどういった価値を持つのか、どういうよくないところがあるのかとかを書きたい。

――というと、どういうことでしょうか
吉田寮訴訟は世間を示す旗だと思っています。あの問題からは時代が見える。「凪に溺れる」では学生寮の話も出てきますが、自分を探しながらつくるものと学生寮は相性が良い。

互いにリスペクトを

――大学自治の問題に関して興味があると伺っているのですが、どういった点ですか?
大学に入って初めて知った概念です。これまで管理される中で生きてきたんだなと思いました。自治を全面肯定するわけではありませんが、当局による管理と学生による自治の間の「均衡」が必要だと感じますね。両者が常に緊張状態にあるからこそ、うまくいくことがあると思います。そもそも当局が学生に対して自由にやっていいというスタンスだった時代はありません。当局は管理する側だから、規制するのは当たり前です。ただそこにお互いへのリスペクトがあったからこそ「自由の学風」があったんです。

――現状についてはどのようにお考えなのでしょう?
学生から当局に対する矢印が弱まったということはあると思いますよ。そしてそれは当局の管理が強まったのと不可分です。そういう意味で五月祭は必要だったのかな、批判があるのはもっともですが。当局の方も意固地になっていて、敵味方の意識が強まっているように感じます。お互いのことを必要だという意識が足りていません。当局は自治の必要さを理解していないし、学生に自由を捨てさせる流れになっている。学生の側も、自由をどこまで活用しているのか疑問です。使っていないならいらないでしょう、となるのは当然です。使い古された表現ですが、自由は与えられるものではなく、勝ち取るものでしょう。

最後に

――最後になりますが、四回生となると、周りには就職が決まって来年には社会人という人も多いと思います。青春にひとつの区切りがやってきたとは思いますか?
すごく思います。自分は大学院に行くつもりですが、どこかでけりをつけて大学を出ていく時期が来ると思います。でも実を言うと自分の将来はけっこう読めていません。僕に関していえば、僕にしかできない、僕に向いているけれど他の人にはたどり着かない場所があるはずだから、今は周りを見渡している状態です。どこかに縁があると思っていますが、あまり決めすぎないほうがいいです。今の自分の方向性だけ決めていて、いつかどこか面白いところにたどり着いていればいいと思っています。(了)