複眼時評

佐野 宏 人間・環境学研究科准教授 「春宵のひととき」

2019.03.16

何か書くようにとのことである。春だから何かしらめでたげなことを書いた方がよいのだろうけれど、日々あれこれと何かに追われてとんとめでたくもない。この原稿もそうだ。さりとて世情には疎いから気の利いたことも書けそうにない。この前の満月は朧ろな感じで、今日は日射しが柔らかだった。そろそろ花の季節である。先日、院生らと研究会もあって城南宮に出かける機会があり、しだれ梅を見て来た。今年は少し遅いとのことだが、梅は種類によって咲き頃が違うからすでに散りゆくものや三分咲きのもの、まだつぼみだけのものがあった。つぼみでも紅白の色はわかるものでしだれ梅で花が間近にあるからか梅の香がするのに桜のように見えた。桜は構内にもある。桜の歌で私が好きなのは、紀友則のよく知られた次の歌である。

ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ(古今和歌集 巻二・春歌下八四)

現在一般には、こんなにのどかな春の日なのに、どうして桜の花はせわしなく散ってゆくのだろうという、桜に対する恨みで解釈される。けれども、この一首の心としてはずれているように思う。この歌の「ひさかたの」という枕詞は語源はよく分からないが、万葉集などでの用いられ方は「悠久の」とか「不変の」という文脈で使われることが多い。

ひさかたの天の香具山この夕へ霞棚引く春立つらしも(万葉集 巻十・一八一二)

というのが万葉集にあるが、友則の歌は趣としてはこれに近い。万葉歌は香具山に今夕、霞がたなびいた。ああ春がやって来たにちがいないなというのだが、香具山はもともと高天の原にあったものが地上に落ちてきたものだという神話的信仰からか「天の香具山」とも通称される。ここに「ひさかたの」という枕詞に付帯する文脈を加味すると、「太古の昔と変わらない天の香具山に、今夕、霞がたなびいた。今年も春がやってきたのだなあ」というのである。繰り返される春が目の前でその証拠を示しながら訪れる。「ひさかたの」という悠久の時間は、「この夕べ」という現在の時間の出現に相対化されながら、その現在は悠久の時間の中に消えてゆく。作者の感動は、はるか「古」(いにしへ)と変わらぬ「今」(いま)が現出するところにあって、自分がその悠久の時間の目撃者としてもあるという自覚のもとに、春の到来を確信している。友則の歌もこれと同じ構造で、「ひさかたの光」は悠久の光であって、太古の昔からずっと変わらぬ光である。その光がことのほかのどかな「春の日に」というのは、今日だけではなく何千回何百回と繰り返し訪れた春の一日である。そういう日に花が散るのだが、もう少し詳しくいえば「そういう春の日に限ってせわしなく花が散るのだなあ」というのである。それはずっと変わらず繰り返されてきたし、これからも変わらない。春の訪れに感動した万葉人に対しては春の暮れゆく様に感動しているのが友則である。変わらぬ「春」を対象化しているというとかえってわかりにくいかもしれないが、ここには花への恨みなど微塵もない。文末に「らし」ではなくて「らむ」を使っているから目の前で桜をみているわけでは必ずしもない。春とはこういうものだという納得がこれを歌にしている。どうして桜は急いで散ろうとするのかという気持ちがあったかどうかは友則に聴いてみないとわからないが、「春の野に」と場所が指定されて「花は」散るなら、そういう解釈もあり得るかもしれないが、ここは「ひさかたの」にあわせて「春の日に」と時間が指定されているから、万葉歌を踏まえてこれが春というものだという納得のもとに、暮れゆく春への感慨を詠んだのだろうと思う。

今年は花見に出かけてみたい。以前上野の桜を見たいと東京の友人を誘ったことがある。しかし、彼も忙しそうだし、私も気軽に出歩けない。歳歳年年しづ心なく何かに追われる。やれやれこれが今の世の春というものか。趣ある「あはれ」も「憐れ」になるはずである。