複眼時評

堀川宏 国際高等教育院非常勤講師 「古典ギリシャ語の教室」

2018.08.01

私はふだん幾つかの大学で、古典ギリシャ語とラテン語、またギリシャ・ローマの文学についての講義をしながら、古代ギリシャの叙事詩と悲劇を中心とした文学について研究している。京大では、以前は文学部のラテン語を担当していたが、昨年から全学共通科目のギリシャ語(以下「古典」を省く)の担当に変わった。多様な学部の学生と接するようになり、ギリシャ語学習の意義について考える機会が増えた。以下、それについて書いてみようと思う。

私のように古代ギリシャの文学を学ぶ者にとって、ギリシャ語の知識はもちろん必須。また、より広く西洋文学を学ぶ者にとっても、ギリシャ語やラテン語(いわゆる西洋古典語)を学ぶことの必要性は明らかだ。それぞれの文学作品や表現にはそれが生まれるに至った過程があり、その過程は作者の読書体験などを通して、人類が連綿と続けてきた文学的活動に繋がっているからである。近代ヨーロッパの始まりとも言われるルネサンスの重要な一部分は、古代ギリシャ・ローマの文学が再発見されたことだった。

その一方で、西洋文学を専門とはしない学生、とりわけ工学部や理学部などの学生がギリシャ語を学ぶ意義とは何だろうか? ギリシャ語を学んで身につく能力は何よりもまずギリシャ語の運用能力であり、それが古典語である以上、身につけてもあまり「役に立つ」能力とは思われないからだ。このことは講義中にも、冗談まじりに繰り返し確認することである。

それにもかかわらず、全学共通科目のギリシャ語(ギリシア語A)には87人もの履修者がいる。当初の登録者数99人からあまり減っておらず、いわゆる「理系」の受講者も多い。もちろん全員が積極的に受講して授業を楽しんでいるわけではないが、それでも講義中にアンケートをとってみると、思いのほか多くの学生が有意義な時間を過ごしているようだ。さて、ここで私は困惑する。ギリシャ語の何が楽しいのか? ギリシャ語といえば厄介で面倒な言語の代名詞ではないのか? その厄介さは授業を通して身をもって経験しているはずではないのか?

このような疑問について、私は折に触れて学生に尋ねるようにしている。回答として多いのは、まず、ギリシャ文字で書かれた単語や文が読めることが楽しいという素朴なものだ。高校までの数学や物理の時間などに、私たちはギリシャ文字(α、β,γ やπ、Σなど)を知っている。それらは記号に過ぎないが、ギリシャ語の授業では当然、それらで書かれた単語や文が登場する。たとえば ἔρωςという語を「エロース」と読むこと知り、それが「愛欲」や「恋」を意味すると知ることは楽しいだろう。

あるいは、どこかで聞いたことのある言葉がギリシャ語だったという気づきや、その言葉をギリシャ語で読めるようになることも楽しいようだ。たとえば「エジプトはナイルの賜物」(歴史家ヘロドトス)や「万物は流転する」(哲学者ヘラクレイトス)、「技術は長く人生は短い」(医学の祖ヒポクラテス)などは、初級文法を学べば容易に読むことができる。特にそれらをギリシャ語で、実際に発音しながら読むことは、その言葉の発生当時の音の響きを身体で感じることでもあり、たしかに何とも言えない快感がある。

その他、英語などの単語の語源(ギリシャ語由来の単語は意外なほど多い)を知ることや、あるいは言語の仕組みに関心のある学生にとっては、英語などとはかなり異質に見える文法を解きほぐしつつ理解してゆくことも面白いようだ(そして異質さだけでなく類似点にも気づいてゆく)。なかには「(名詞や動詞の)変化表を暗記するのが楽しくて仕方ない」という学生もいて興味深い。活用表の暗記というのは多くの学生が忌み嫌うものだから。

ギリシャ語学習の楽しさは、たとえばこのようなものらしい。なるほど「実用」からは遠いものが並ぶのだが、いずれも私たちの知的好奇心に応えるものとは言えるだろう。私はこのような、自身の好奇心に導かれた学習行為をとても尊いことだと思う。限られた人生、複雑化した社会のなかで、「有用性」を身につける要請はたしかに大きい。しかし世界は私たちが有用性を認める外側にも、はるかに大きく広がっている。そのような世界のなかで生きる以上、自身の関心のフィールドをみずから狭くしてしまうのはつまらない。そこに面白そうなものがあるのなら、少し出かけていってその姿を見ようとする ―― それが人間らしいあり方ではないか。