企画

入学したら 読んでほしい この一冊。

2018.03.16

だんだん春めいて来た今日このごろ、合格者の皆様は春休みをどうお過ごしだろうか。合格した後、気が抜けてしまってはいないだろうか。だが、もうすぐ大学生活のスタートだ。どんな講義があるのだろう。自分はこれから何を学んでいくのだろう。そんな不安を抱いている方もいるかもしれない。今回、京大の教員たちに「入学したら読んでほしい一冊」を紹介してもらった。これを読んで、入学後の大学生活に活かしてほしい。(編集部)

『倫理学という構え 応用倫理学原論』(推薦人:伊勢田 哲治)

大学に入られたみなさんにぜひ入門していただきたい学問の一つが倫理学である。われわれは何をなすべきか、どう生きるべきかということについて、非常に抽象的な理論と、現代社会で生じる具体的な問題との間を行き来しながら、できるだけ筋道を通して考える学問である。細かく分けると、そもそも倫理とは何かを考えるメタ倫理学、何をなすべきかを基本原理にさかのぼって考察する規範倫理学、医療や環境などの具体的問題領域で何をすべきか考える応用倫理学の三つの下位領域が区別される。本書はその中でも応用倫理学の入門書、というようなタイトルだが、内容はもっと野心的である。

世間に倫理学の入門書は多くある。いろいろな学説が羅列してあるだけの無味乾燥な本も多い(もちろんそういう本はそういう本で勉強するのに便利だが)。本書はその中で異彩を放つ。本書の著者は比較的若手の倫理学の研究者である。その著者が、倫理学(とりわけ応用倫理学)とはどういうことをする学問なのだろうか、倫理学者は現実の倫理問題とどのように関わって行くべきなのだろうか、と、自分の研究領域を一歩下がって問い直す。その最終的な答えは、倫理学者のあるべき姿は「思慮ある傍観者」であることだ、というものだが、これがどういう意味かは自分で読んで確認してほしい。

著者自身はあくまで倫理学の中の問題としてこれを論じているが、その問い自体は「理論的な研究と社会貢献との関わりはどうあるべきか」という学問一般に関する問いにつながっている。これからさまざまな学問を学んで行く新入生のみなさんが「この分野の人たちは何がおもしろくてこういう研究をしているのだろう」「自分はなぜこんなことを学んでいるのだろう」と思ったとき、本書の著者の思索は必ず一つの参照点として役立つだろう。

(いせだ・てつじ/文学研究科准教授)

倫理学という構え 応用倫理学原論

著者:奥田太郎
発行:ナカニシヤ出版
発売:2012年9月
定価:2,500円+税

『オリエンタリズム』(推薦人:岡 真理)

エドワード・サイードの『オリエンタリズム』の英語原著が刊行されたのは、私がアラビア語を専攻すべく大学に入学する前年のことだ。これから自分が学ぼうとする中東世界について、まだ右も左も分からなかったときからすでに、『オリエンタリズム』は中東研究を志す者の、いわば「知のバイブル」として存在していた。日本語訳が出版されるのはまだ先のことだったが、サイードが喝破した知の様式としての「オリエンタリズム」を踏まえることなく、もはや中東について何事も語ることはできないという認識は、中東研究に携わる者たちのあいだで当時、すでに共有されていた。そうした知的空気の中で大学における学問をスタートさせることができたことは、自分自身にとって大きな僥倖であったのだと、今、振り返って思う。

オリエンタリズムとは何か、サイードの定義を引用するなら、それは、世界をわれわれ西洋(オクシデント)と彼ら東洋(オリエント)に分割する思考様式のことだ。オリエントの社会や人間たちを十把一絡げにして、「野蛮、狂信的、前近代的」等々の否定的な属性を、あたかもそれが、東洋の社会と人間たちの本質であるかのように語ることであり、さらに、その反転象としての、すなわち「理性的で文明的で近代的な」西洋という主体を構築するメカニズムでもある。

たとえば、「イスラーム国」を名乗る集団が半月剣で人間を斬首するのを私たちは唾棄すべき野蛮と見なす一方で、「ユダヤ国」を自称するイスラエルが最新式の兵器で、封鎖されたガザに閉じ込められた人々数千人を一方的に攻撃し殺害する行為を同じように「野蛮」であるとは考えない。オリエンタリズムは依然、私たちの認識を深く規定しているのである。

今、大学で学問を始めるにあたって、私たちの知の枠組みそれ自体が度し難く西洋中心主義によって編み上げられていることを認識することは重要だ。『オリエンタリズム』はそれを教えてくれる一冊である。

(おか・まり/人間・環境学研究科教授)

オリエンタリズム

著者:エドワード・W・サイード
発行:平凡社
発売:1993年6月
定価:各1,553円+税

『椿の海の記』(推薦人:加藤 眞)

森や海の自然や生物が好きだという入学生は、少なくなったとはいえ、この大学にはとりわけ多いにちがいない。自然の保護や環境問題の解決にかかわりたいという意欲を持っている学生も少なくないだろう。約40年前に、私もそのような学生の一人であったから。やがて私は生態学の道に進み、生物の共生の進化や生態系のしくみなどを研究するようになったが、私が学生時代に読んで震撼させられ、強く影響され続けた本が、石牟礼道子さんの『椿の海の記』である。石牟礼さんには、極貧生活の中でみかん箱の机で書いたという、水俣病の患者さんの世界を綴った『苦海浄土』という名著があるが、前者は不知火海沿岸の海辺で過ごした石牟礼さんの幼少期の世界を綴ったものである。

シイやツバキ、ヤマモモやタチバナは、日本列島の照葉樹林を代表する樹木である。それらの木々に覆われた不知火海の入り江の一つ一つに村があり、磯や干潟があり、人々の生活があった。石牟礼さんが描くそれらの自然の細部や、その自然の中でくりひろげられる人々の暮らし、そして天草弁で発せられる人々のやさしき心の吐露は、美しくまた懐かしい。高度成長期の日本列島では、それらが埋立や汚染によってことごとく失われてゆくのであるが、そのような絶望的な状況のもとで、石牟礼さんはかつてあった、自然を慈しむ世界を私たちに描き残してくれたのであった。

「環境を守る」とか「生物多様性を守る」という標語は今では世界標準となっているが、少しよそゆきの響きがある。生態学や保全生物学では教えてくれない、自然の慈しみの本源的な意味をこの本は教えてくれるだろう。巻頭には、次のような詩が掲げられている。「ときじくの かぐの木の実の花の香り立つ わがふるさとの 春と夏とのあいだに もうひとつの季節がある」と。かぐの木の実はタチバナであろう。この本の紹介を書き始めた時、石牟礼さんが亡くなられた。椿の花の季節であった。

(かとう・まこと/ 人間・環境学研究科教授)

椿の海の記

著者:石牟礼道子
発行:河出文庫
発売:2013年4月
定価:850円+税

『雲の墓標』(推薦人:西山 伸)

今から七五年前の一九四三年一二月、学徒の徴集猶予が停止されて、それまで原則として軍隊に徴集されることがなかった大学をはじめとした高等教育機関の男子学徒が、二〇歳を過ぎて徴兵検査に合格すれば在学の身分のまま陸海軍に入隊することになった。これがいわゆる学徒出陣である。

本書は、自らも東大文学部卒業後海軍生活を送った経験をもつ阿川弘之による、学徒出陣で海軍に入隊した若者を描いた小説である。主人公の吉野次郎は、京大文学部で国文学を専攻していたと設定されている。この吉野が同窓の友人と共に海軍に入隊し、さまざまな訓練を受けながら飛行機の操縦士となり、やがて特攻隊に編成されていく、その姿を主に彼の日記によって追っていく構成となっている。

当時、若者たちは長びく戦争をどのように捉え、軍隊に行くことになった自らの運命をどのように受けとめていたのか。彼らは首に縄をつけられるようにして無理矢理戦場に送り込まれたのではなく、逆に教育によって洗脳され国を守るため進んで死を選んだのでもなかった。どこにでもいる若者として、軍隊生活の中に自らの成長を見出し、時には強く反発し、「死の覚悟」を定めつつも逡巡し苦悩していたのだ。彼らのそうしたありようが、本書では吉野の日記を使ってリアルに描かれている。また、戦争に疑問を抱きながらやはり操縦士となる友人藤倉の手紙がところどころ挿入され、本書に深みを与えている。

学徒出陣については『きけ わだつみのこえ』をはじめとした遺稿集がいくつか刊行されているほか、回想録の類も数多く見ることができる。その中でも一九五六年に出された本書は、小説の体裁こそとっているが、あの頃の若者の実像を最もよく示しているのではなかろうか。ちなみに本書の英文版 Burial in the Cloudsも刊行されている。

(にしやま・しん/大学文書館教授)

雲の墓標

著者:阿川弘之
発行:新潮文庫
発売:1958年7月
定価:520円+税

『証言 水俣病』(推薦人:藤原 辰史)

桁違いの資本を有するチッソが止めなかった有機水銀の蓄積に、体をよじらせ、痛みで眠れない夜を歩き、差別を受け、仕事も奪われ、漁民にとって大切な網を切り刻まれて、自殺未遂を繰り返してきた人々の証言集。大企業も官僚も、その人々たちの叫びから耳を塞ぎ、金を置いて逃げようとした。そんな苦しみと屈辱を忘却の彼方に沈めてきた日本という国の肖像を、水俣病の被害者たちの声から描く。

世界で初めての大規模な有機水銀汚染を招いたのは、チッソと、大きなものを守ろうとする国であった。いうまでもなく、東京電力を守るために真実を隠した国と同じ国である。どれほど多くの水俣病の人々が死を迎えても、チッソはいまも存在するだけでなく、その会社が生み出す多様な化学製品も、あの会社を守ろうとした政治家も、大きなもののためにしか動かない学者も、経済成長のもとに人間の生命を値切る社会的風潮も、全く死に絶えてない。それどころか、わたしたちは主権者としてこの恥ずべき社会を作り出してきた。

「入院するお金もなく、それにも増して主人は私につきっきりになって店は休みばかり。店もつづかなくなって、残ったのは借金だけでした。借金取りは、主人のいないときでも身体のきかない私に返済を迫る。私はただただ頭を下げて泣くだけです。あまりのつらさにガス自殺も考えましたが、身体が動かせなくてガス台まで行くことさえできないんです」(大村トミエ)。

「海は怖いです。厳しいです。欲を出せば一匹もくれません。本当に魚どんだちの、海どんたちの頭が良くって、私を受けとめてくれていますもんで、やっぱり無になって、「今日は漁に出ますばってん、弱か身体ですので、よろしくお願いします」ちゅう合掌のもとに船に乗らんばならんとですよ」(杉本英子)。

この抑えがたき苦しみと怒りと、そして達観は、いまを生きるあなたに向けられている。

(ふじはら・たつし/人文科学研究所准教授)

証言 水俣病

著者:栗原彬
発行:岩波新書
発売:2000年2月
定価:780円+税