複眼時評

馬場正昭 理学研究科教授「一流を生む研究と教育」

2017.12.16

憧れの京大理学部に入学して45年、博士課程に進んで外へ出た後、京大教養部に助教授として赴任してから教員生活が30年になる。京大と関わりながら長い時を過ごし、今は自分なりにある程度の達成感を覚えている。しかしながら、その道のりは決して平坦なものではなく、実際にはつらく苦しかったことのほうが多かった。それはやはり、一流を目指していたからこその必然的な結果である。

30代、40代と、専門である物理化学の最先端研究に没頭した。短い睡眠時間以外は実験に明け暮れ、教科書を読んで勉強し、学術論文を書く。当時は基礎研究であってもその価値が認められ、ある程度の財政的な支援を得ることができた。一流というのは、最新技術を駆使することや複雑な高機能システムを構築することではなく、自然現象の基本法則を検証し、高いレベルで理解することであると考えていた。齢を重ねた今は、もう少し現実的にはなっているが、真実を追求するという基本姿勢は変わっていない。しかしながら、近年の化学全体をみると応用偏重、各論追及の研究が主流となっていて、これを一流と考えるかはどうあれ、とにかく京大理学部出身者として快くはない。

さて、基礎研究における昨今の環境悪化について考えてみると、やはりここ10年の教育環境の悪化が原因ではないのかと言わざるをえない。大学入試における過度の競争が若い世代の「ゆとり」と「多様性」を潰してしまい、画一的な人間を育てる結果となっている。おそらく、最先端研究の担い手である個性的な研究者を育てるには、現在の高等教育のシステムは適切なものとは言えない。知識偏重の授業や試験をする、社会での有用性を強く要求する、卒業後も研究を続けられる職を得るのが難しいなど、一流の学術研究をすることに価値が見出せない現在の状況では、優秀な人材は育たない。そこで、京都大学の新入生にそのことを伝えたいと思って、ここ5年ほど全学共通科目の改善や少人数教育の普及に努力した。残念ながらそれが形になることはなかったが、それでもいくつか私なりの成果を得ることができた。

「答えのない問題」についての授業をしようと考え、積極的に自分の授業に取り入れた。最近流行のアクティブラーニングのようにグループワークやディベートなどを盛り込み、議論の行方は学生たちに委ねる。一流の人材を育てようとすれば、まずはこの形の授業科目を増やしていけばいいと思っている。現実にすごい能力を持った若者が京大には必ずいて、彼らを存分に伸ばしてやるのが肝要である。私は彼らに学者になることを勧める。実際には、そのまま学者を志望する学生もいれば、反発して企業へ行きたい、あるいは自ら起業したいと考える学生もいるが、それも答えのない問題であり、自分なりの答えを見つけるきっかけとしての意義は大きい。

「文理融合」の教育科目をデザインし、文系の学生に化学を、理系の学生に哲学と歴史を教えてきた。学生と話をしていると、数学の成績が悪かったので先生に文系に行けと言われた、就職に有利だから理系にしろと親に言われた、模擬試験の結果を踏まえて塾の担当者から「あなたにはこのコースが最適です」と言われたといった話がよく出てくる。本当に余計なお世話である。私は以前、総合人間学部に属していたが、そこでは文転、理転がある程度可能で、私の授業を聴いて、高校では文系だったけど量子化学を学びたいと研究室に来た学生が何人かいた。彼らは卒業後、また文系的な職業に就いているのだが、楽しく活躍しているようで、これも悪くないなと思っている。何より私が新鮮に思ったのは、文系理系の区別というものが、彼らには何の意味も持っていないということだった。

「グローバリゼーション」と詠った教育改革が推奨されている。私自身も若い頃にヨーロッパのあちこちの大学を訪れ、かけがえのない経験をたくさん積んで、学者としてのベースとしている。しかし、私が本当に伝えたいのは「伝統的な日本の良さ」を大切にすることである。欧米の文化についてとやかく言う前に、日本の文化を深く理解していてほしいということである。文系の学生は日本史や東洋哲学をきちんと学ぶべきだし、理系の学生はこれまでに日本人が創り上げた自然科学を深く理解すべきである。真の国際化というのは、自らの国を理解したその先にある。

このように教育現場で直面した課題は多いが、その多くは学術研究においても共通している。研究と教育はお互いに補い合っていることが多く、一流になるためにはその両方をこなすことが必要であると私は考えている。学生はまずは授業という形で教育を受けて実力をつけ、将来携わるであろう研究活動の礎を築く。教員は自らが学んで研究の質を高めるためにも、授業や研究指導などの学生の教育に力を注ぐ。そして、研究と教育を真に両立させるには、大学のシステムの改善はもちろん、教員と学生一人一人が常にその意識を持ち続けることが大事である。