複眼時評

中村唯史 文学研究科教授「たとえば伯父の短い生涯という具体的なこと」

2016.12.01

私の父方の伯父はロシアで死んだ。昭和20(1945)年8月に日本が降伏した際、満州にいた陸軍空挺部隊の整備兵だったために捕虜となり、ソ連の収容所に送られた、いわゆる抑留者の1人だった。
 
ソ連政府からも日本政府からも通知や情報がなかったにもかかわらず、親兄弟が「登(伯父の名)は死んだ」と判断した理由は2つある。1つは、戦争中に同じ部隊に所属していた人が捕虜収容所でたまたま目にした死亡者リストに、ロシア文字で伯父の名前が書かれていたことである。この人は、その事実を伝えるために、復員後にわざわざ訪ねて来てくれたという。亡くなったのが東シベリアのタイシェトの収容所であることも、そのときわかった。
 
もう1つの理由は、私の祖母(伯父の母)が見た夢だ。当時中学生だった私の父(伯父の弟)は、昭和21(1946)年3月8日の朝、母親が「今朝、登が出征時と同じ絣の着物姿で、すっと仏壇の中に入っていく夢を見た」という旨のことを話し、「死んだかねえ…」とつぶやいたのを鮮明に覚えているという。後に先祖代々之墓に伯父の名前を加えた際には、お寺とも話し合った末、祖母のこの夢の日付が命日として墓石に刻まれた。
 
このような伯父の経緯は、子供の頃から父親に何度か聞かされていたが、私がロシア文学研究の道に進んだこととは何の関係もない。ロシア文学を志した理由は、高校生の時に『罪と罰』や『アンナ・カレーニナ』や『三人姉妹』にはまっていたというに尽きる。私にとって、一度も会うことのなかった伯父は、額縁に入った白黒写真という以上ではなかった。
 
数年前、日本人捕虜抑留者関連の全資料がロシア政府から日本側に最終的に委譲された際、その中にあった伯父の資料が厚労省から回ってきた。親族の中でロシア語ができる者が他にいないので、資料を読むのは私の仕事になった。
 
読んでみると、大半が収容所の医師の手書きのカルテで、それによると、伯父はタイシェトでチフスに罹り、おそらく栄養失調のためだろう、急激に悪化して収容所内の医務所に運ばれ、生理食塩水の点滴という最低限の治療を受けたが、心臓が持ちこたえられずに1946年3月8日の早暁に死んだのだった。タイシェトと日本の時差は1時間なので、祖母が絣を着た伯父の夢を見たのと、ほぼ同時刻ということになる。
 
以上のことを電話で伝えると、父は少し黙った後で「最低限でも、ともあれベッドの上で治療を受けられたのなら、まず良かった」と言い、伯父の死亡時刻と祖母の夢の時刻との一致については驚かず、「墓の命日を彫り直さなくてもすむな」とだけ付け加えた。父にしてみれば、自明のことだったのだろう。
 
私もまた、若くして亡くなった伯父が、何らかのかたちで故郷の母親のもとに戻って来たのだと思う。旧知のロシア人研究者によれば、日本人抑留者や強制収容所のソ連人犠牲者をめぐっては、他にも似たような事例が少なからず報告されているそうだが、私がそう思うのは頻度や確度の問題ではない。かねてから聞いていた祖母の夢と伯父の死亡日時との一致が、この目でロシア語カルテの記載に見た具体的で疑いようのないことだったからである。
 
フランスの哲学者アンリ・ベルクソンは1913年の講演で、一般的な常識や普遍的な法則、あるいは規範などに合致しない現象や事実を「非科学的」として斥けるような立場を批判している。「出来事」は、普遍法則や一般常識に合致していようとしていまいと、それを体験した人にとっては紛れもない「事実」であり、物事を考える際にはそこから出発しなければならない。科学や普遍法則に合致しない出来事を斥ける思考は、「具体的なもの」が何かということを見失っていると言うのである。
 
文学とは、ベルクソン的な意味での「具体的なもの」と取り組むことだと思っている。人間や出来事や現象を、大局的で俯瞰的な観点から何らかの体系の中に位置づけてしまうのではなく、対象に近づき、密接した視点から、具体的な個別性において細やかに捉えていくこと。
 
それはたとえば文章を一語一句の含意から考えていくことであり、テキストに内包されている多様な価値観の相関や葛藤を読み解いていくことである。あるいは対象の矛盾や混乱をただ自分の立場から批判するのではなく、対象に寄り沿い、その思考をたどるなかから、矛盾や混乱が生じたゆえんを考えてみることである。
 
このような思考は、あるいは「わかりやすさ」が期待される昨今の風潮のなかでは影が薄いかもしれない。だが人間というものが揺れ動き、移ろい続ける複雑な存在であり、固定的な定義やデータに還元して済むような代物ではない以上、明確な図式や法則や理論とは別に、対象に即してただ執拗に考えていくことも必要だろうと思うのである。