複眼時評

内田賢徳 人間・環境学研究科教授 「原郷喪失」

2006.06.16

―ああ、僕はこの臭いが苦手なんだよ。

暑い夏のある日、寺院の傍らを歩いていた。樹木は暗がりをなすほどに茂り、草は深い緑に湿っていた。一緒に歩いていた、私より一回りほど上の友人がつぶやくように語り出した。

―疎開先の新潟でね、いやだったな、この草の臭いが、意地悪されたことなんかが、一遍に思い出されるんだよ。田舎の連中って勉強はまるで出来ないくせ
に、意地悪する智恵だけははたらくんだよ、いやな連中だったよ。ああ、内田さん田舎の生まれだったな、悪い悪い。

東京生まれであるその人の生い立った町は、疎開中に焼け野原になって、何の面影もなかったという。深い緑の有機物が放つ、草の、まさしく息は、喪失の夏と重なって嫌な思い出を増幅する。

―しかし、内田さんは勉強できたんだよな、田舎に居ってよく勉強できたな。

悪い悪いと言いながら、気のいい都会生まれは、訝し気に尋ねる。

―他にすることもなかったから。

とぼけたのでも奇を衒ったのでもない、率直な理由である。正月、盆、祭と、毎年くり返される晴れの日を目途として、村落の褻の日は営まれてゆく。これこれの日までにあれとあれとをしなければと、生活を必要性が拘束する。その都度に庭や門道の掃除をするのが私の務めであった。単にごみを掃き寄せるだけではない、抜いても抜いても草は生い及き、あがらぬ能率は少年の苦であった。うんざりするほどの繰り返しの中で、それらを疎み、即ち私も草の臭いがきらいであった。

身近な一人の若者がそうであるような、自分は何をしてでも生きてゆけるという、言わば荒魂[ルビ:あらたま]の時期と、もう一人の身近な若者がそうであるような、和魂[ルビ:にぎたま]すら消え入るほどに疲れ果て、外出すらろくにしない時期とが交替し、或いは重なり合って年月は過ぎて行った。和魂も消え入るような年の夏と冬の休暇を長く生家で過ごした。よく働いた。荒魂でなくとも、畑を耕す力はそれなりにあり、生い及く草に追いつけるほどの若い力に、土は改まり、働く、ただそれだけになれる時間に、魂はいつしか和魂と呼べるほどには甦ってくる。

生い及く草とただ黙々と向かい合うように営まれてきた生も知った。T老人は、昔から私の家の面倒をよく見てくれる人であった。しかし、善意の人とは少し呼びにくい性格で、人はよくその狡猾さを話題にした。招集の日、身体検査でTさんは、患っていた痔疾を掻きむしって出血させ、即日帰宅(注.痔もちは行軍できない)、即ち兵隊にとられなかった。家の、親族の恥という世評に居直るだけの辛酸はとうに経てきていて、もちろん反戦などというインテリくさいお題目はもたなかった。ただ戦争で死ねば損という計算だけがあった。だからといって怠惰ではなかった。働くことに何の疑いもなく、老人でも達者であった。冬の日、枯木も濡れそぼつ山陰の山地で、濡れた木ばかりを集めてきたように見えて、老人のたき火は、少し煙ってやがてあかあかと燃えさかった。表面は濡れていても燃える木という物がある、何事も経験でと、老人は、その火でうまそうに煙草を呑んだ。C老女は来る日も来る日も、牛を飼うための草を刈っていた。若い頃自分が炭焼きをして稼いだ小金を、亡くなった亭主が、当時列車で二時間ほどかかる県都での女郎買いに遣ってしまったものだと、しかし懐かしいことのように述懐していた。男は何なりと慰むものの要るもんだからというあきらめに、訴えは感じられなかった。

草莽の中から生まれ、その中に生き、その中へと死んでゆく、限りなく繰り返されてきたそうした生のある間、山も里も荒れなかった。しかし、そうした生はもうない。皆こざっぱりした形[ルビ:なり]で、大抵のところへは車で出向き、山も里も荒れて、猪や狸が庭先にまで来るようになった。濡れた木でたき火をする技術は伝わらず、薄倖の中に生を強いられる女の現実も遠くなった。子供はすっかり減り、居てももう都会の子をいじめる勢いはない。

― 私の思い出の樹やさかい、ずっと切らんといてね。

教養部に赴任してしばらくした頃、旧い女友達が、大学を目指す娘を連れて訪ねてくれた帰り、樟や桜や樗やといった雑樹に、昔のまんまやわとひとしきり感嘆した後、私にそう託した。それから十数年、彼女は私の思い出とは言ったが、私たちのとは言わなかったなと、今更のように思い起こした頃には、その思い出のあった頃の制度は否定され、改まるにつれて樹々はあらあらに切られ、引き抜かれ、あとに建った、真新しく整った設備の、そこでは空間を遮るほどに大きな建物の前には、新たに若い樹々が整然と植えられ、ベンチ風にそれらの一本一本を囲む仕切には、秘められることのない新しい思い出たちが坐って、屈託のない明るい声をあげている。新しい制度と設備は、それらの声といかにも似合っている。

その傍らを、もう旧い匂いのないことにいつまでも戸惑いながら通[ルビ:かよ]っている。どこか縁のない、つまり思い出やなじみなどない所を、ただ講義をするためだけに訪れているような気分になり、建物と共に新しくなった制度は、私に、つまりはそのように対応することを求めているように感じられる。足は重くなり、そこに着くまでのバスで、同じ大学に通勤すると思しい人が、乗り合わせた同僚に、声高に、自分の発言がその組織でいかに重きをなしたかと語っているのを聞くことが苦痛になってくる。それはそれで、それぞれが気の進まぬ勤めへと自らを駆り立てるための儀式めいたことであろうとは思うけれども、とりあえず、少しは遠くともそうした人の乗らない便を捜すようになる。重く暗い足取りは教室に入るまで続く。しかし、教壇に立って学生を見渡すとともにその気分からは立ち直ってゆく。制度がどうあれ、設備がどうあれ、この形式で語り伝えてきたことは、変わることのない質をもっていて、これが私の言わば聖務と、ことばは待っていたように口から発される。思い出もなじみも要らない、それだけになる私の時間が始まる。

原郷ということばがいつの頃からか使われるようになった。故郷と言うだけでは届かない、或いは故郷というもののない生にもそれらしくある懐かしい場所、遥かな記憶の奥底に存する本来性の場所として使われるこの語は、今最も新しい辞書にやっと登録された。

  【原郷】そこに帰れば心の安らぎが得られ、本来の自分が取り戻せる精神的なよりどころだと信じている、現実に存在する(思い描いた)故郷[ルビ:ふるさと]。
(新明解国語辞典第六版)

もうどこにもそれはない。ここでことばは文字通り或る不在の記号である。


うちだ まさのり 京都大学大学院人間・環境学研究科教授