複眼時評

細見和之 人間・環境学研究科教授「幸福と競争原理」

2016.04.16

この四月に、大阪府立大学からこちらの人間・環境学研究科に赴任した。学部では総合人間学部の教員である。全学共通科目でドイツ語を四コマ担当するので、他学部の学生と接する機会も多いに違いない。

久しぶりの京都、そして京都大学である。私はこの大学ではなく大阪大学の卒業生だが、二十年近く前、非常勤講師としてこちらでやはりドイツ語と総合人間学部の講義を数年担当していたことがあるのだ。そのころ私は北白川に住んでいた。哲学の道をたどって銀閣寺あたりまで、しばしば散策の足を伸ばしたものだった。

三月の終わり、研究室の引っ越しをして、いささかショックだったのは、百万遍周辺のレストランがことごとく大手のチェーン店に衣替えしていることだった。古書店の数がつぎつぎと減少してゆくのは学会や研究会で京大を訪れるたびに感じていたが、どこの町にもある牛丼店、ハンバーガー屋、中華料理のチェーン店が百万遍の交差点周辺に軒を連ねている様子には、時代の流れを感じずにはいられなかった。

もうひとつ印象的だったのは、かつて京大人文研のあった一等地に「物質‐細胞統合システム拠点」という新しい施設がそびえていることだ。私は人文研の知人の研究室を久しぶりに訪れようとして、正門の守衛さんに「人文研はどこに移転しましたか」と尋ねた。返って来た答えは「移転なんかしてませんよ、元の北門のところのままですよ」だった。重ねて「以前は東一条の交差点のところだったでしょう?」と問いかけると、「そんな昔のこと、知りませんがな…」という返事だった。こうなると気分はほとんど浦島太郎だ。

百万遍と東一条、それぞれの交差点の風景の変遷――。そこにはなにか通底しているものがあるのではないだろうか。

分かりやすいのは競争原理の貫徹である。個人経営や小規模経営のレストランと比べて、大手のチェーン店の抱えている資本の額は桁違いに大きい。季節に応じて生じる客の増減などのリスクにも、大手なら持ちこたえることができる。たとえ一時的に経営が悪化しても、他の個人経営や小規模経営のレストランがあきらめて撤退するまで、資本をどんどんつぎ込むことができるのだ。残るのは、どこにでもある大手である。

一方、「物質‐細胞統合システム拠点」と人文研のあいだにも、きっと競争原理が働いていたに違いない。単純な話、いわゆる外部資金の獲得をふくめて、研究費の規模がやはり桁違いなのだ。「物質‐細胞統合システム拠点」は、細胞と物質の境界領域で探究を進め、最終的には物質で生命活動を再現しようとする研究の場。ある種、哲学的とも呼べる研究所だが、そんな一見地道な研究拠点に莫大な資金がどうしてつぎ込まれるのか。じつのところ、再生医療や医薬品をはじめとした産業部門で大きな成果が期待されているのだ。

これまで不治だった病気の患者が、新たな再生医療や薬品の開発によって長寿を得ること、それは素晴らしいことである。しかし、私の研究してきたフランクフルト学派の社会思想の文脈でいうと、この場合も私たちは「啓蒙の弁証法」を免れることはできないだろう。あたり前のことだが、長く生きることと幸福に生きることはまったく次元の違う話だ。そして、多くのひとの知るとおり、私たちが暮らすこの日本は、世界でも有数の幸福度の低い国である。長寿が善であるためには、幸福な長寿でなければならない。そのことを保証してくれるものは、物質と細胞のあいだをいくら行き来しても見つかりそうにない。

くわえて、新たな再生医療や医薬品は万人のものになるのか、という問題が生じる。最悪のシナリオは、かなりの資産を持つ富裕層だけがその恩恵にあずかるという帰結だ。収入の曲線と寿命の曲線がぴったりと重なっている社会――。そんな近代以前のあり方がディスユートピアとしてあらためて実現することを防ぐためには、研究と産業化、そしてその社会的還元にあたって、厳格な倫理を確立しておくことが不可欠である。

そもそも、競争に勝ち残る者は少数なのだから、競争原理にもとづく社会が総体として幸福であることはありえない。貴重な研究成果を真に活かすためには、私たちは、競争原理によって獲得した成果をけっして競争原理にもとづくのではない形で配分するという、困難な課題を果たしてゆかねばならない。競争原理と総体としての幸福を折り合わせることは可能だろうか。そのとき私たちを導いてくれるのは、あの水平社宣言の、懐かしくも荘厳な言葉であるに違いない、と私は思う。「人の世に熱あれ、人間に光あれ」――。