複眼時評

阿形清和 理学研究科教授「京大、孤高を恐れるな!!」

2016.03.16

理研CDBの設立を終え京大に移ってきたのが2005年の4月。それから11年も京大に居てしまった(京大の学部・大学院で9年過ごした後に、国立の研究所で7年、地方公立大学9年、地方国立大学2年、理研5年と今まで同じ所に10年以上居たことはなかったのに――)。定年まで4年を残して京大から学習院に移ると言うと、なぜ京大を辞めるのか?と必ず聞かれる。どうやら、私が京大に愛想を尽かしたと思われているようだ。しかし、私の京大への愛には変わりはない。動くのは同じ所に10年は居ないという自分のポリシーに従ったに過ぎない。どうやら、昨今の京大に一抹の不安を感じている人が多いために、必ずそんな質問を私にぶつけてくるようだ。辞める前に何か咆えてくれることを期待されているようで、そうなると何か咆えないと申し訳ないような気分になってくるから不思議だ。

私の京大への愛は、〈多様性を受け入れる懐の深さ〉とでも言うべきものかも知れない。しかし、そんな京大も、〈評価〉という印籠のもと、やれGPAの導入だ、やれ授業評価だと、否応なしに〈型へはめ込まれ(※1)〉ていっているのが現状だ。〈評価〉には運営交付金の分配という兵糧攻めがついているので、京大も干しあがらないようにするためには、魂を売るかどうかの瀬戸際まで追いつめられてしまっている。〈武士は喰わねど高楊枝〉といきたいところだが、教授陣は、法人化とともにすでに〈水呑み教授(※2)〉と化しており、これ以上の干しあがりは勘弁して欲しいというのが正直な気持ちだ。暴れたいのだが、暴れる栄養もない状態かもしれない。

このままいくと、京大も全国の序列化の中に組み込まれてしまいそうな不穏な雰囲気が漂いはじめている。〈多様性を受け入れる懐の深さ〉という良さは、序列化の中では単なる弱点としかならならないからだ。このまま序列化の波を受け続けると、どんどん京大は序列の下の方へ追いやられてしまう。序列の下の方になると運営交付金はジリ貧となり、〈多様性を受け入れる余裕〉はなくなり、悪循環へと陥る。これが、京大を愛する人達の不安を生んでいるのかもしれない。

どうしたら良いのか? 京大が京大として生き残るための唯一の方法は、序列化に組み込まれる前に、〈京大を序列に入れてはいけない〉と思わせる、あるいは〈京大を序列の中に入れたら碌なことにならない〉と思わせることだ。序列の中の京大に誰が魅力を感じるのだろうか。東大と違う序列にいるところに京大の面白味があり、存在価値がある。そして、序列化が済んだ時に、序列外の存在の重要性があらためて見直されることが大切だ。権力を持つ方は、全てを統一して序列化したいのは世の常だ。兵糧攻めで序列化を否応なしに実行しようとしてくる。京大は、京大ブランドを最大限に活かして寄付金をとることで、序列に組み込まれない大学としての孤塁を守ってもらいたい。多くの国民が京大に期待していることは、〈序列に組み込まれない存在〉ではないかだろうか。京大には山極総長という私が尊敬してやまないトップがいる。これ以上心強い存在はないのではないだろうか! 頑張れ!! 京大。

※1〈型へのはめ込み〉 例えば、昔は京大理学部の生物系の成績には、〈優・良・可・不可〉というのがなく〈合格・不合格〉しかなかった(ついこないだまで一部にはこのカルチャーが残っていた)。当然、学生の採用を考えている会社からは、京大の〈合格〉は〈優・良・可〉のどれに当たるのかという問い合わせがある。答えは、〈合格〉は〈合格〉となります。それが、今では、全部点数でつけることへと一本化された。

※2〈水呑み教授〉 運営交付金は減額、定員も減。外的資金を獲ってこい!! と東京へ参じて稼いで帰ってきても間接経費を吸い上げられる。