複眼時評

依田高典 経済学研究科教授「『こころ』を扱う経済学 -異端と正統のはざまで-」

2015.05.01

経済学の話をしよう。かたい話をしようというのではない。誰でも持っている「こころ」の話だ。

平たく言えば、経済学は限られた資源の効率的な配分を吟味する学問だ。その中心概念が、合理的で利己的なホモエコノミカス(経済人)だ。この想定が成り立てば、所得制約下で自身の効用を最大化する数学的手続に落とし込める。

今から20年以上前。私が経済学を学び始めたとき、ホモエコノミカスの想定に馴染めなかった。分かっていても止められない人間。自分を犠牲にしても他人に尽くす人間。そうした生身の人間らしさが感じられない。既存の経済学の人間理解に物足りなさを感じた。

この問題に体系立って取組んだのが、英国が生んだ知の巨人、ケンブリッジ大学のジョン・メイナード・ケインズだ。ケインズは大不況の原因となる有効需要の不足が、未来の不確実性に立ちすくむ人間の「こころ」に起因することを理論的に体系化した。ケインズによれば、真の不確実性は確率論的に最適化可能なリスクとは別物だという。不確実性に直面して、群れとして人間は過度な楽観に走り、また一転して過度な悲観に陥る。不確実性に対する処方箋として、ケインズは政府の有効需要管理というマクロ経済政策に根拠を与えた。

世に名高いケインズ革命は、またたく間に世界中の若く優秀な経済学者をとりこにし、正統派経済学の位置に君臨した。しかし、皮肉にも第二次世界大戦後、経済の中心が英国から米国に移る際、混合経済体制の有効需要政策は受容されたが、ホモエコノミカスの想定は放擲されなかった。ミクロ経済学で教えられる人間は、依然として合理的で利己的なままだった。

なぜだろう。米国の社会経済観に根ざすのかもしれない。方法論的個人主義という考え方だ。個人が与えられた情報をもとに自己の利益を最大化し、市場メカニズムを通じて、効率的な資源配分が実現される。そうした世界観の中では、不確実性に恐れおののき、最適化に失敗する人間を受容するのは許しがたかったのだろう。

私は経済学研究を始めたとき、このドクトリンの踏み絵に逡巡し、不確実性を生涯の研究テーマとすることに決めた。正統に背を向けて、異端の憂き目にあおうとも、悔いなき覚悟を決めた。実際には、真の不確実性や不可逆な時間を強く意識する場面で、人間に意思決定をさせると、経済学が想定しない非合理性が体系的に観察された。私たちは、こうしたアプローチを「経済心理学」と呼んだ。

そうした経済心理学の旗手がプリンストン大学の心理学者ダニエル・カーネマンであり、当初は経済学界では軽くあしらわれていた。しかし、繰り返す市場の熱狂と崩壊の中で、そうしたアプローチの重要性が、正統派の経済学者にも受容されていった。ホモエコノミカスを捨てるわけではないが、限定的な合理性を一部認めるのも悪くはないねと言わんばかりに。

経済心理学はいつしか「行動経済学」という、何を意味するのか分からない曖昧な名称で呼ばれるようになり、心理学者カーネマンは2002年にノーベル経済学賞の栄誉を与えられた。多少のいぶかしさを感じながら、学問最高の栄誉を断るわけにもいかなかったのだろう。その恩恵は私のような末端にも及び、異端に耐える覚悟を固めていたのに、日本有数の行動経済学者として、学術・非学術の場面でお声がかかる機会が増えた。論文も学術雑誌から出版しやすくなった。それが良かったのか悪かったのか。長いものに巻かれてしまった違和感が残る。この居心地の悪さは何だろう。合理的な思考ではないかもしれないが、時々、考え込むことがある。

(いだ・たかのり 経済学研究科教授。専門は応用経済学)

依田高典氏の過去の複眼時評

「大学生の頃合」(2001.03.16)

「森嶋通夫先生の思い出」(2004.07.16)