企画

11月祭講演会連動企画 円城塔を読む③

2013.11.16

京都大学新聞社は今年度の11月祭で作家の円城塔氏をお招きし、「アンドロイドは二つの文化の夢を見るか」と題する講演をしていただく予定だ〈*2〉。本紙では講演に先がけ、記者の視点から円城氏の作品を3号に渡り紹介する。最終回では、第32回野間文芸新人賞受賞作『烏有此譚』(講談社)をとりあげる。(編集部)

③意識〈*1〉に注釈をつけよう―「烏有此譚」

現実離れした不条理なプロットと、それをますます見えにくくする膨大な注釈からなる奇書〈*3〉。それがこの『烏有此譚』である。

ある日、語り手の「僕」は、旧友の末高なる人物から電話をもらう。彼の「裡には灰が降り」注いでおり、「本家」に追われる身になってしまったために匿ってほしい、という内容だった。末高は二十万人を引き受けなければならず、せめて妻である「緑」だけでも、と彼女を「僕」が引き受けることになる。物語の後半、今や「僕」は末高の内部にいる……。果たしてこれは現実のレベルなのか、それともとめどなく流れ続ける意識の世界なのか。或いは、それらは一本のメビウスの帯にすぎないのか。不思議な読後感を覚えることは請け合いである。

文法的な誤りを含む文を「非文」と呼ぶが、一方で文法的には正しくても意味をなさない文というものも想定できる〈*4〉。この小説はいわばそうした「意味的非文」が肥大化したものなのかもしれない  ただしその詩情は相当なものである。本筋に全く関係のない一連の注釈は、そのナンセンスな物語からさらに意味を剥ぎ取ろうとする。世に「注釈小説」は数あれど、その技巧を円城のように駆使できる作家はそうはいまい。

「小説の形式は全て出尽くしてしまったのか?」という問いが、ポストモダンの言説の中でしきりに言挙げされてきた。かような問いに、私たちは次のように答えることができる。「円城塔がいる限り、それはまだである」と。 (薮)

〈*1〉「意識が高い学生」〈*1‐1〉の「意識」とは無論異なり、フロイト的〈*1‐2〉用法だと考えていただきたい。
〈*1‐1〉「意欲にまみれた学生」「自意識が高い学生」などに呼称を改めるべきではないか、と思うことが注者には時としてある。
〈*1‐2〉家を解体したら床下から大量(22体)のフロイトが出てきたという、にわかには信じがたい証言がある。詳しくは円城塔『Self-Reference Engine』(早川書房)を参照のこと。
〈*2〉2013年11月23日14時30分〈*2‐1〉より、法経第二教室で開催予定〈*2‐2〉。主催は京都大学新聞社〈*2‐3〉。
〈*2‐1〉日本時間。
〈*2‐2〉会場の席数には限りがございますのでご注意ください〈*2‐2‐1〉。
〈*2‐2‐1〉「会場の席数には限りがございます」という命題は自明である。
〈*2‐3〉【注のふりをした謝辞】おかげさまで京都大学新聞社は再来年(2015年)を以て創立90周年を迎えます。今後も変わらぬご愛顧をお願いいたします。
〈*3〉元々これらの注釈〈*3‐1〉は雑誌掲載時には付されていなかったが、単行本化にあたり書き加えられた。
〈*3‐1〉「注釈」という様式に注目した作家は意外にも多い。中でも有名なのはニコルソン・ベイカーの『中二階』(白水社)である。あるサラリーマンが中二階にあるオフィスへエスカレーターで向かっている間の思考を丹念に再現した本書は、本文の量に劣らず膨大な(そしてそれ自体が物語を生み出す)「注釈」を特徴とする異色の小説である。またウラジーミル・ナボコフの先駆的な試みである『青白い炎』(筑摩書房)は、一篇の長大な詩とそれに対する注釈から成り立っている。その他、マーク・Z・ダニエレブスキーの『紙葉の家』(ソニー・マガジンズ)〈*3‐1‐1〉やデイヴィッド・フォスター・ウォレスの『道化狂い』(未訳)などが挙げられ、「注釈小説」は一ジャンルとして成立した感さえある〈*3‐1‐2〉。
〈*3‐1‐1〉『青白い炎』および『紙葉の家』の邦訳は現在絶版であり、ネット上では高値で取引されている。再版または新訳が待たれる。
〈*3‐1‐2〉ここまで来ると、注釈しかない小説もあってよいのではないかという気がしてくるかもしれない。それが存在するのである。マーク・ダンのIbid: A Life(未訳)を参照のこと。
〈*4〉例えば「この酒場では酒類を提供しておりません」など〈*4‐1〉。
〈*4‐1〉詳しくは京都大学新聞2013年11月16日号1面「教員酒場 酒類提供せず」を参照のこと。