企画

関西クィア映画祭特集《映画は私たちに何を語るのか》

2013.10.16

10月4日から6日までの3日間、京都大学西部講堂にて、関西クィア映画祭2013が開催された。主催は同映画祭実行委員会。同映画祭は「クィア」をテーマに、「性」とそれに関わる「暮らし・生き方」をテーマにした映像作品を上映するイベント。クィア(Queer)は英語で「おかま・変態」といった差別的なニュアンスの語だったが、90年代以降、セクシャル・マイノリティら自身が使うことで、異性愛だけでない、多様な性の在り方を肯定的に捉える語として用いられるようになっている。
同映画祭は、2005年の第1回から毎年行われ、今年で8回目。
期間中は映画祭の理念に基づき、隣接する西部課外活動棟のトイレの一部が、男女別から「オールジェンダー仕様」に変更された。
今号では、そんな関西クィア映画祭2013から、3本の映画を紹介する。(編集部)

「反同性愛」をめぐる皮肉 『Call Me Kuchu ウガンダで、生きる』

“Kuchu”。ウガンダではLGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー)のことをそう呼ぶ。同性愛が違法とされ、Kuchuにとってただでさえ肩身の狭いウガンダで、いま彼らをとりまく状況は最悪といっても差し支えは無いだろう。同性愛は「伝統」に反するからと反同性愛のデモが起き、一部の新聞は同性愛者のバッシングに躍起になっている。さらに、2009年には「重度」の同性愛者を終身刑にし、同性愛者を匿った者まで罰する法案が提出された(欧米諸国や人権団体の強い反対声明を受け、この法案は結果的に否決となったが)。Kuchuたちは自分のセクシュアリティを隠し、日々、政治的な弾圧や襲撃に恐怖しながら生きることを強いられている。『Call Me Kuchu ウガンダで、生きる』はそうした厳しい状況の中、KuchuがKuchuとして普通に生きる権利を求めて命懸けで闘うアクティビストたちを追跡した、壮絶なドキュメンタリーである。

ウガンダの指導的なLGBTアクティビスト、デヴィッド・カトー。ウガンダではじめて「ゲイ」であることを公言し、ウガンダのLGBTコミュニティを率いてきた。2010年、彼はウガンダのある新聞を相手取り、裁判を起こした。

「Rolling Stone」というその新聞は、同性愛者の写真を掲載して激しくバッシングするばかりか、彼らの住所や名前といった個人情報まで「無断」で載せている。編集長は言う。「公益のためなら、(同性愛者に)プライバシーなんて無い」。実際、それを掲載した新聞は毎日売り切れだと彼は満足気に話す。一方で、新聞による個人情報の掲載はKuchuたちの生活を確実に脅かしていた。新聞に載った個人情報をもとに、隣人に石を投げられて襲撃されたデヴィッドの仲間もいた。

こうした背景にはLGBTをとりまくウガンダの厳しい現状がある。ウガンダでは国民の95%が同性愛に反対しているという。同性愛に反対する大衆は「(同性愛者は)ほんとうに生き物か」と嘲笑する。「伝統に反するから」、「自然の法に反するから」、「神が禁じているから」。彼らは宗教的理由から同性愛に反対し、それが「伝統」なのだと主張する。しかし、その宗教はウガンダに元々あったものでは無く、イギリス植民地時代にもたらされたものだ。「イギリスが撤退した後、(同性愛を禁じる)法のみが残った」と、ある人は話す。さらに、米国からやってきた福音派宣教師がウガンダで同性愛に対する迫害を煽り、反対派運動がますます過熱する。

2010年、こうした困難にも関わらずデヴィッドはこの裁判に勝利した。新聞社には賠償金とともに個人情報の掲載規制が命じられ、Kuchuたちの権利向上にささやかな進展があったようにもみえた。しかし、勝訴した翌年の2011年、デヴィッドは何者かに襲撃され殺害される。デヴィッドの葬式では、反対派が「同性愛者は地獄に堕ちろ」と煽り、会場は混乱に陥ってしまった。そう、事態はいまだ混迷を極めているのだ。そして、デヴィッド亡き後も、Kuchuたちの闘いは続いていく……。

Kuchuをめぐる状況は刻一刻と変化している。この映画は2012年に公開されたが、その年の12月には同性愛者を厳しく罰する法案が再び提出された。いまのところ、この法案は可決には至っていないが、ウガンダ国内では依然としてKuchuに対する風当たりは強い。解決の糸口は果たしてどこにあるのだろうか。

歴史的には元来、ウガンダのホモフォビアの習慣、法律はイギリス植民地時代にもたらされたものだ。長い植民地期間を経て、それは「伝統」となった。しかし現在、皮肉なことにLGBTの権利向上をウガンダに迫るのもまた、かつてアフリカを蹂躙した欧米諸国なのである。こうした経緯から、ウガンダの伝統(と思われているもの)である「反同性愛」と、欧米の価値観の押し付けに反対する「反植民地主義」が一致し、欧米に屈せず同性愛者を排斥しようという悪循環が生まれている。したがって経済制裁をちらつかせて、一方的にウガンダにLGBTの権利向上を迫る欧米諸国のやりかたが根本的な解決につながるのか疑わしい。むしろウガンダのさらなる反発を招き、同性愛に対する迫害が一層強まるかもしれない。さらにウガンダの「反同性愛」は宗教を根拠にしており、これが一層問題を複雑にする。「宗教」と「性の多様性」、どのように折り合いをつければいいのだろうか。これはウガンダだけに固有の問題では無い。

一筋縄ではいかない問題が山積しているが、ともかく今、個人で出来ることはウガンダのKuchuたちを様々な形で応援することだろう。一方でウガンダをLGBT「後進国」だと決めつけて盲目的に否定するのではなく、その歴史的経緯や国民感情を踏まえた解決のありかたを模索していく必要がある。(羊)

原題:Call me Kuchu
監督:Katherine Fairfax Wright, Malika Zouhali-Worrall
公開年:2012年
制作国:米国、ウガンダ

割り切れないふたりの関係を描く 『不能愛―Love me not―』

香港の片隅、ルームシェアをして暮らすふたりの「男女」。アンティークショップで働きながらカメラマンとしての仕事もこなすアギーと、アトリエで働くデニス。本作の主人公たちだ。小学生の頃からの幼馴染であるふたりは、たまたま同じ時期に、住む場所を探していたことから、ルームシェアを始める。同性愛者であることを打ち明けあっているふたりは、互いを尊重しながら、良き友人同士、楽しい共同生活を送っていた。しかし、長い間同じ時間を過ごす中で、それまでとは異なる感情がふたりの間に芽生え始め
て……。

自身の中に芽生えた新たな感情に対し、作中でふたりは対照的な行動にでる。アギーは、自分のデニスに対する感情を、映画をつくることを通して見つめ、自身の気持ちと真摯に向き合っていく。それに対しデニスは芽生えた感情に戸惑い、自分の気持ちを認めることができない。アギーはあくまでただの友人、幼馴染でしかないし、自分は「ゲイ」なのだから、女性を、ましてやアギーを好きになることなんてあるはずないのだ、と彼は自分をごまかしていく。

本作のラストで、ついにデニスも自身と向き合い、アギーに思いを伝える。自分は同性愛者だし、これからもそうだ。それでもアギーを愛しているのだ、と。アギーも同様に答えを返す。そして、ふたりのキスで物語の幕が下りる。

いささかご都合主義的ではあるものの、恋愛映画として王道な展開に加え、「自分が同性愛者である」というアイデンティティと相手への感情の間での戸惑い、そしてふたりがそれを乗り越える様子が描かれた一作。「同性愛者」や「異性愛者」、「男」と「女」といった表現では単純に割り切れない関係が、そこにはある。(待)

原題:不能愛
監督:Gilitt Pik Chi
LEUNG
公開年:2011年
制作国:中国(香港)

同性婚推進が切り捨てたもの 『R/EVOLVE―結婚と平等とピンクマネー』

米国ではいま、同性婚を認めるかどうか、活発に議論がなされている。同性婚が認められているかどうかは州によって異なるが、今年6月、合衆国最高裁はカリフォルニア州の同性婚を禁じる州法を違憲としたこともあり、米国全体で同性婚を認める流れが強まっている。また、経済界ではゲイ・コミュニティの高い購買力を「ピンクマネー」と呼び、大企業はLGBTフレンドリーを訴え、その新しい市場を開拓しようとする企業も増えてきている。この映画は、そんな米国の同性婚推進運動の抱える問題点にスポットライトを当てた作品となっている。

映画の冒頭、リンカーンは恋人のルーカスにプロポーズされる。同性婚支援団体のボランティアをしているルーカスは現実味を帯びてきた同性婚の実現、そしてリンカーンとの結婚を強く望んでいた。リンカーンも、結婚までしなくてもいいと言うものの、笑顔でプロポーズを受ける。

写真家として広告会社で働いているリンカーンは保守的で有名な大企業ビッグコープ社に同性婚支持の流れを利用してイメージアップを図れると企画を持ちかける。企画の内容は、ルーカスのいる支援団体に多額の寄付をし、連携をしてLGBTフレンドリーな広告を打ち出すというもの。CEOは保守的な顧客を裏切ると言って渋るが、リンカーンの説得によって企画を始めることとなる。

保守的な大企業を説得できたと喜んでいたリンカーンはある日、ヒッチハイクをするラクーンを見つける。奇抜な出で立ちで、ピンク・トライアングル(LGBTのシンボルのひとつ)を身につけ踊っている彼を見て、リンカーンは彼を車に乗せる。このラクーンとの出会いを境にリンカーンは変わり始める。

ビッグコープ社の広告用写真の撮影当日、スタジオに入ったリンカーンが見たのは、企業が広告用のモデルに選んだ、若くてお金を持っていそうな白人のゲイカップルだった。「一般受け」を狙うことしか考えず多様性を打ち出すつもりのない企業に不満を隠しきれないリンカーンだったが、これも同性婚推進のためには仕方がないのかと悩み始めることになる。

一方、ラクーンやその「クィア」な仲間と一緒に行動し、その写真も撮り始めたリンカーン。忘れていた「自分の撮りたい写真」を思い出し、企業のためでなく自分のために写真を撮りたいと思い始める。しかし、「クィア」な仲間と行動を共にするにつれ、「一般受け」しない彼らを切り捨てる同性婚推進運動に疑問を持ち始め、恋人のルーカスとすれ違っていく。

ある日、「クィア」な仲間たちのイベントに参加したリンカーンは、多様性を認めようとしないビッグコープ社を訴える動画を作り、動画サイトにアップロードする。動画は一夜にしてスキャンダルとなり、彼は会社を解雇された挙げ句、ルーカスからも見放され、家から追い出されてしまう。その後、リンカーンは「クィア」な仲間たちと暮らすことになる。彼らとともにビッグコープ社の企画を壊すため、支援団体への多額の寄付の発表当日、記者会見の現場に現れる。

この映画は、同性婚を推進することで切り捨てられているものを明確に示している。LGBTフレンドリーを謳う企業や政党は、本当に「多様な社会」を実現しようとしているのだろうか。リベラルを装って、ピンクマネーやイメージアップを狙っているだけで、結局のところ「お金」や「支持」を得ることしか考えていない企業や政党は少なからず存在する。そういった企業や政党は、イメージを落とさないため、なるべく「普通」なLGBTを切り取って使う。ラクーンがしたように、奇抜な服を着たり、川に飛び込んだり、ゴミ箱で食べ物を探したりする、そういった「普通」でないLGBTは相手にしない。

一方、LGBTがそういった企業や政党と連携し、運動を展開するとどうなるのか。この映画でルーカスのいる支援団体は多様性を犠牲にしても、同性婚推進の資金を得るためには仕方ないとして、ビッグコープ社の寄付を受けようとする。また、ルーカスはラクーンのことを「普通じゃない」「運動の邪魔になる」といって付き合うのを拒んだ。彼らは同性婚を勝ち取るためには「仕方ない」といいながら、「普通」でないLGBTを排除し、多様性をないがしろにしたのだ。同性婚推進運動は常にLGBTの中で「普通」とそうでない人たちを線引きし格差を作り出す危険性を孕んでいる。

現在、日本でも同性婚を支持するという政党や、LGBTの特集を組む経済誌が現れてきている。西洋諸国で次々に同性婚が認可されたことを受け、日本でも同性婚について話題に上がりつつあるのだ。世界的な同性婚認可の流れはいずれ日本にもやってくる事だろう。そのとき私たちはどのように行動すればいいのだろうか。その問いを考えるきっかけをこの映画は与えてくれている。(湘)

原題:R/EVOLVE
監督:Billie Rain
公開年:2013年
制作国:米国