インタビュー

寺島隆吉 元岐阜大教授 「グローバル時代の英語を考える ― 「外国人教員」「英語で授業」は何をもたらすか」 前編

2013.11.17

京都大学では今後5年間で100人規模の外国人教員を雇い、全学共通科目の半数以上を英語で開講するという計画が進んでいる。一方、政府では教育再生実行会議の提言による「スーパーグローバル大学」事業が文科省の来年度概算要求に盛り込まれた。これから全国の大学に、京大のような動きが広がっていくことが予想される。

「英語で授業」というと、高校において英語の授業を英語で行うということについては議論がよく見られる。ところが、大学における「英語で授業」については、ほとんど議論されていないのではないか。このままでは、何も顧みられずに「英語で授業」が増えていってしまうのではないかと懸念する。

「外国人教員」を雇い「英語で授業」を行うことは、私たちに何をもたらすのか。背後に控える問題を探りたい。そこで今回、英語の技能的側面だけでなく、研究・経済・貧困・国際性と英語の関係など、英語がもつ様々な側面について広く論じている寺島隆吉氏にお話を伺った。

インタビューは10月13日に寺島氏の自宅で行った。(朴)(千)

寺島隆吉(てらしま・たかよし) 東京大学教養学部教養学科(科学史・科学哲学)卒業。石川県で高校教諭(英語)。在職中に金沢大学教育学研究科(英語教育)で教育学修士。 1986年、岐阜大学教養部講師(英語)に着任。同教養部教授、同教育学部教授を経て、2010年定年退職。カリフォルニア州立大学日本語講師、カリフォルニア大学バークレー校およびコロンビア大学ティーチャーズカレッジ客員研究員。専門は英語教育。主著に『英語教育原論』『英語教育が亡びるとき:「英語で授業」のイデオロギー』、訳書に『チョムスキーの教育論』『肉声でつづる民衆のアメリカ史』(いずれも明石書店)等。

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英語・外国人教員による植民地化

―最近流行りのグローバル人材、その能力の一つとして異文化理解力が挙げられています。その力を養成するために「英語で授業」ということが言われていますが、英語を通しての異文化理解というのはどういう問題をはらんでいるのか、寺島先生の考えをお聞かせください。(朴)

異文化理解=英語というのが実に変な話ですよね。英語しか教えないということは、英語という眼鏡で世界を見なさいということだから、異文化理解と言ったって、英語文化理解だけになりますよね。そうすると英語を母語とするイギリス人アメリカ人、特にアメリカは世界を支配してるからね、アメリカ人の見方=グローバルスタンダードということになってしまう。そういう価値観をみんなに押し付ける役割を下手すると果たしかねない。悪く言うと英語力=洗脳力になりますよね。

グローバル人材ってそもそも意味不明な日本語なんだけど、世界的な視野で物事を見るという意味でグローバル人材を考えるのであれば、英語をしゃべれるようになれば異文化理解というのは非常に不可思議というか、むしろ英語という眼鏡でしか物事を見れない人間を育てるから、グローバル人材と逆行してると思うんですよね。

かつて僕がいた岐阜大学ではキャンパスの標識が、例えば右に行くと工学部の建物があるとか教育学部の建物があるとか、みんな英語なんですよ。岐阜大に来る留学生ってほとんどアジアからですよ。近隣の中国とか韓国からが多い。それから僕が研究生や院生として受け持った中にはベトナムの学生がいたしラオスの学生もいた。それなのに英語の標識だけって理解できないですよね。そういう国々の言語で表示するほうが、いかにもグローバル化してるなって思いますよ。

たとえば僕の教え子が愛知県犬山市の国際交流協会っていうところに就職して、いつもニュースレターを送ってくるんですよ。見てみると、これ中国語版でしょ。これ英語版でしょ。これスペイン語でしょ。これタガログ語ですよね。これポルトガル語。これだけの言語で犬山は出してるんですよ。これこそがグローバル化でしょう。空港行ったら5カ国とか6カ国語の標識がある。最近はデパートだって韓国朝鮮語と中国語の標識がある。何で大学は英語だけなんだろう。グローバル化って実は単に英米化してるだけ。全然グローバルになってない。

―確かに京都大学でも「資料の英語化」とは言われても、他の言語も含めた多言語化ということは聞きません。それどころか(英語を話す)外国人教員を呼び込むことで「異文化の学内への持込みによる大学自体のグローバリゼーション」とまで言っています。(朴)

一体誰のために英語化しているのかってことですよね。教授会で議論するとき、外国人の教員がいるからその教員のために英語化すると言いたいんでしょうけど、それで議論が深まるのか。

教授会とかきちんとした会議の時は必ず議事録つくりますよね。議事録も全部英語にしなきゃいけない。だけど僕の経験では、日本語でさえ議事録がきちんとつくられた試しがないんですよ。一カ月に一度教授会があって、翌月の教授会で前回の議事録が出るんですけど、議論されたことがほとんど書かれてない。僕が発言したことでも、ひどいときにはたった一行だったり、最も大事なポイントが抜けてたりね。

日本人に一番大事なのは、まず日本語で要約する力ですよ。本当は国語教育で身に付けさせなきゃいけないんだけど。国語力といっても、「読む力」には大きく分けて二つある。「絞って読む力」と「膨らませて読む力」です。それは「書く力」でも同じで、「絞って読む」ことができなければ「絞って書く」、つまり物事を要約して書くことも出来ないですよね。

議事録なんて「絞って読む力」の典型みたいなものですよ。だけど実際、教授会とかそういう会議で、日本語でも議事録が作れない。大学の教職員ってそこそこ難しい採用試験通っていて、それなりに学力もあるはずなのに、議事録見たら「たったこれだけ?」って思うくらいですよ。それなのに英語で議事録作れるのか。(それとも上からきちんとした議事録を残すなと言われてるのかな?)

もし可能だとしても無駄ですよね。たとえば僕が在職していたとき岐阜大教育学部の教授会は100人くらいだったけど、そのうちの5人とか10人のために残りの90人が非常に苦痛な思いをするわけでしょ。議論も深まるかどうか分からない。日本語で議論したって深まるかどうか分からないのに、英語で議論して何が深まるんだろう。むしろ議論させないために英語にするのかな。英語で言おうと思ったらしどろもどろになるから、議論させたくない上の人にとっては好都合だよね。

『日本の植民地言語政策研究』という本があって、これには、日本がアジア太平洋戦争で敗北する前に、アジアの植民地で日本語教育をどうしたかっていうのが書いてある。

中国で辛亥革命が起きて清朝の皇帝・溥儀が王宮を追い払われた後、日本はその皇帝を満州国の皇帝にして傀儡政権をつくるんですよね。満州国だから正式言語は満州語のはず。ところがこの本では次のように書かれているんです。

「新京(満州国首都)におけるインテリ層などにおいてはほとんど日本語一本だけで済んでいるのが通例である。たとえば満州国語研究会などにおいては、日系の委員と満系の委員とがほとんど同数であるが、そうした委員会ではすべて日本語だけで執り行われている。官庁の会議などもほとんど日本語だけで行われていた。そうした会議などで、日本語を満語に翻訳するなど全くそういう必要は毫もない。」

これは便利だよね。日本人が満州語を勉強する必要がないんだから。

京都大学も同じで、英米語人とくにアメリカ人を輸入してきて、京都大学の教員にして教授会を英語でやれば、彼らは日本語を勉強する必要がない。こんな便利なことないよね。だけどひっくり返して言うと、京都大学はアメリカの植民地大学になるってことですよ。向こうの言語ですべてやるわけだから。しかも英米語人は、たとえば教授会の人数比で100人のうち10人ぐらいだとすれば、なんで他の大多数の人がそんな屈辱的な地位に甘んじなきゃいけないんだろう。プライドはないのか。日本が満州国でやったようなこと、つまり英米語人が御しやすい大学にするということだとしか僕には考えられない。

京都大学は今度外国人を100人雇うわけでしょ。京都大学の教員が定年で辞めても、日本人を雇用しないで、外国人に充てる。ということは、大学院の学生が博士号とって就職しようと思ったら、就職口がないんだよ。空いてるポストは外国人用ですってことになるんだから。そうなると日本人の職を奪うために外国人教員があるんだから、すごい不幸だよね。日本人じゃダメって言われたら、たとえ優秀な日本人でも研究力で競争できない。

一歩譲って、アメリカ人が研究力あるからってことで雇われたとするよ。だったらなんで日本語で授業をしないのか。日本人で有能な人はたくさんアメリカ行って、アメリカの大学の先生になってるよ。だけど日本語で講義してるかい? 英語でしろって言われるに決まってるじゃない。どうしてアメリカ人は、日本に来たら日本語喋れなくても読めなくても結構ですってなるの? 日本人の教員、職員の側が全部英語でやらなきゃいけないなんて。これじゃあ公平、平等じゃないよ。 僕は日本が植民地化、チョムスキーの言葉を借りれば「家畜化」してるだけだと思う。

「英語で授業」によって失うもの、奪われるもの

―外国人教員による「英語で授業」を通して、学生にはどのような影響があると考えられるでしょうか。(朴)

グローバル人材育成推進会議が2012年6月4日に公表した審議のまとめで「グローバル人材育成戦略」というのがあって、そこに「グローバル人材」の定義が書いてある。それを見ると〈要素Ⅰ:語学力・コミュニケーション能力〉。一番最初が語学力なんですよ。次に、〈要素Ⅱ:主体性・積極性、チャレンジ精神、協調性・柔軟性、責任感・使命感〉。そして〈要素Ⅲ:異文化に対する理解と日本人としてのアイデンティティー〉。要素Ⅲでやっと異文化理解が出てくる。だけどこの後、語学力の話しか出てこない。語学力=グローバル人材になっているわけね。それで語学力って何かといったら、結局英語なんですよ。

この後、要素Ⅱの主体性とか積極性、それから要素Ⅲの異文化理解と日本人のアイデンティティ、これがほとんどどこにも出て来ない。99%が英語教育と留学に関連した話です。これでどうしてグローバル人材って言えるのか。英語力があってもグローバル人材にならないっていうことはさっき言ったよね。英語の眼鏡で世界を見る人間しか出て来ない。有名な英文学者中野好夫の言う、「英語バカ」しか育てられないじゃない。そういう人間を育ててグローバル人材って、それがどうして経済の成長につながるのか。それどころか民衆の貧困化が進む。それは英語を公用語とするインドやフィリピンを見れば分かるでしょ。

アメリカ流の経営をやる人間を育てなさいってことならわかるよ。アメリカの経営戦略、新自由主義的な、要するに全て民営化しなさいっていう路線ですよ。今TPPってやってるけど、全て民営化しなさいっていうのがTPPだからね。それはもうずっと前から、郵政民営化に始まって、日本は一貫して次々と民営化させられてきたわけじゃない。日本の農業だって、規制緩和で関税ゼロにしたら全部死にますよ。それがどうして経済成長につながるのかって普通だったら思うのに、そういうことを疑問に思ってはいけませんって。アメリカ流の経済戦略がベストだと思う人間を育てたいわけだから、疑問を持ってもらったら困るわけですよ。

だいたい、要素Ⅰ・Ⅱ・Ⅲの中には、「英語で授業」で悪名を馳せた高校の新指導要領「英語」に登場する「論理的思考力や批判的思考力を養う」という文言すら見当たらない。しかも「創造力」っていうのも無いんだよ。逆にⅡで述べられているのは「協調性・柔軟性」「責任感・使命感」。つまり疑問や批判を持ったらいけない。「協調性」と「責任感」をもって上から言われたことをやれっていうことでしょ。

この文書ではその後、グローバル人材の「能力水準の目安」ということで英語力が5段階に分けられていて、見てみると、①海外旅行レベル、②日常生活会話レベル、③業務上の文書・会話レベル、④二者間折衝・交渉レベル、⑤他者間折衝・交渉レベル、と書かれている。そして「①②③レベルのグローバル人材の裾野の拡大については着実に進捗しつつある」って評価している。だけど①②は日常会話ができるかとか、海外旅行ができるかとか、そういうレベルなんですよ。続けて「今後は更に④⑤レベルの人材が継続的に育成され」ってあるけど、④⑤って何かと思ったら、英語で交渉できる力っていうわけですよ。

英語で議論する力を身に付けたとしますよ。じゃあ英語で交渉しますか? 相手は英米人ですよ。そんなの勝負にならないでしょう。だって相手は英語が母語で、こちらは外国語なんですよ。わけの分からない難しい言葉を使って論理をはぐらかされたら、あっという間に丸め込まれますよ。負けるに決まってるじゃない。あっちは百戦錬磨なんですよ。ディベートっていう、自分が思ってもいないようなことを、その立場になって無理やり相手をねじ伏せる訓練、「白を黒と言いくるめる」ような訓練を中学・高校・大学とずっとやってきてる。そんな相手と英語で勝負しても、勝てるわけないんですよ。そもそも英語力で相手に勝とうとするのが間違ってるんです。

日本人は「白を黒と言いくるめる」どころか、まともに議論する訓練を受けてないでしょ。中学・高校にホームルームとか生徒会、自治会とかあるけど、そこで本当は議論をしなきゃいけないのに、そういうものとして機能していないでしょ。例えばクラスで合唱コンクールに応募しようとなって、自由曲とか課題曲があって、自由曲を何にするかって決めますよね。その時に学級委員長とか合唱委員になった人がいくつか原案を用意して、多数決で決める  本当はそんなふうに議論しなきゃいけないのに、最初から曲が決まっていて、練習の日程はこうだからと委員が言えば、そのとおり従うわけでしょ。こういうふうにクラスの行事ですら議論したことないんですよ。きちっと議論して決めていく。俺はこっちの方が、いやそれじゃ練習にならないから、こういうふうにしようとかね。それが議論でしょ。そういう中で議論する力って育っていくわけですよ。

昔、制服反対運動って全国の高校で激しかった時期があるけれども、今はみんなそのまま受け入れているわけでしょ。それは家畜化されてしまってるってことですよ。まず議論がないんだから。制服のような大きな問題はなかなか大変だろうだけど、生徒会や自治会がそういう問題を提起しないとクラスに降りてこないよね。本当は議論する訓練の場っていくらでもあるんですよ。だけどそういう訓練がされてない。学校の先生自身、抵抗の場を奪われ家畜化されていることが多いからね。だからホームルームは単に上で決まった行事日程を下に垂れ流すだけの機関になっていて、議論する力が育たない。かといって授業でも、大学入試の準備に一生懸命で議論をしない。

そういうことを日本語でまずできないのに、なんで英語の授業でそんなことが可能なんだい。それは英語で授業をすることによって育つのかい。本当に創造力・批判力を持った人間を育てたいんだったら、まず日本語でやっていくべきでしょ。「国語の授業」や「社会・理科の授業」などで議論したこともないのに、どうして「英語の授業」で可能なのか。日本語でできないことを、どうして英語で出来るのか。

大学の場合、留学生を日本に呼び込みたいから英語の授業をって最初は言ってたんだよね。だけど留学生がいるから英語でしなければいけないのか。留学生は日本の学問が優れているから来たわけでしょ。だったら日本語も勉強したいよね。それなのに英語で授業があるから、日本に居るんだとすると、ほとんど日本語を学ばないで就職しちゃうよね。それは留学生にとってどういう意味があるんだい。せっかく日本にいるのに、彼らに日本語を勉強して欲しくないの? 日本を本当に深く知ろうと思ったら、日本語の文献も読めるようにならないとダメだよね。日本の小説を英訳を読んで欲しいの?例えば川端康成を英語で読んだらどれくらい川端康成の香りが伝わるのか。半分気が抜けてしまってると思うよ。伝言リレーゲームみたいに、いつの間にか違うものになってしまって。だから留学生がいるから英語でやるっていうのも僕には理解できない。留学生を日本に呼び込みたいって言うんだけど、せっかく日本に来た外国人に日本語も勉強して欲しくない、日本文化も勉強して欲しくない、日本語をほとんどしゃべれない、読めないまま、もとのラオスやら中国、ベトナムに返すわけ?

僕も毎年のようにアジアから研究生や院生を引き受けてきた。工学部など理系学部にはもっと多くの留学生がやってくる。彼らは留学生センターで日本語の集中教育を[無料で!]半年受けるだけで、日常会話程度の日本語をしゃべれるようになる。だけど少し複雑な話になると半分も理解していないんじゃないかと思うレベルで帰国する。これは日常会話だけを重視した結果ですよ。「グローバル人材」で言う②のレベルだね。英語専攻の院生だったらそれも仕方がないと思うけど、これでは、帰国した留学生を、アジアへの企業進出に役立てようと思っても、税金の無駄づかいということになりかねない。私費留学生でさえ僕たちの税金で授業料(半額または全額)免除になっている学生は珍しくないんだからね。先日、日本で就職した卒業生に会ったから、何か日本の本や新聞読んでいるかい、ラジオやテレビで日本のことみてるかって言うと、いや私は家に帰るとVOA聞いてますと。これはショックだった。英語重視はこんな留学生を生み出すんだ。

VOA(Voice of America)っていうのは、聴いている人には申し訳ないけど、もともとは米軍放送なんだよ。確かにラジオで英語をしょっちゅう聞けるっていうのでVOAは便利だよね。だけどVOAってアメリカの考え方を日本とドイツに浸透させるために出発した放送だよ。日本にアメリカ文化センターってたくさんあるでしょ。神戸にもあるし、名古屋にもあるし、もちろん東京にも。家内は金沢生まれ金沢育ちだけど、金沢にもアメリカ文化センターがある。あれって元々アメリカの文献、映画、音楽をどんどん日本人に浸透させるために、悪く言えば洗脳するために全国に作ったものなんだよね。その一環としてVOAもあったわけだ。詳しくは『親米日本の構築』という本を読んでください。

話を戻すと、英語で授業してどんなメリットがあるのか。外国人にとってもメリットがあるのか、日本人にとってもメリットがあるのかって考えてみたら、よくわからない。

京都大学に英語で行われてる授業って、今いくつかあるんだよね。留学生向けだけど日本人も受けられるという形で。出たことありますか?

―自分はいま出ています。英米人の先生による授業で、英米人から見た日本を知ることができるというので、面白いなと思って行ってみました。そういう面では、英語で授業することに一定のメリットがあるかなと思います。(千)

まあ確かにね、それで知的好奇心を満たされる君のような人もいるんだね。だけどそれが全員になって全科目になったらどうなるのかなという疑問が出てきますよね。明治時代の帝国大学になっちゃう。

明治時代に初めて東京大学が設立された頃は、お雇い外国人が講義していたから英語がわからないと授業についていけなかった。だから官立東京英語学校を改造して大学予備門をつくった。当初は予備門の主任教官でさえ外国からの招聘教員だった。そして、英語で基礎科目をたっぷり勉強させて、ついていけるようになったら東京大学の学生になれるんですよ。それでみんな必死の思いをする。あの当時は日本に自前の教科書もなかったし、教えることができる日本人の先生もいなかったからね。それは仕方がない。

だけど今はちゃんと大学院博士課程レベルの教育も日本語でできるようになってるわけだから、英語で学ぶのはすごい無駄だよね。英語で読むと、わからない単語がたくさんあるわけで、辞書を引きながらやってたら、1冊を読み終えるのに半年かかるかも知れない。だけど日本語ならその間に5、6冊読めますよね。どちらが論理力、創造力、批判力をつけるのに役立ちますか。

ちなみに夏目漱石は英語に自信がなかった。で、予備門に入るための「予備校」、共立学舎で英語を勉強して、それでやっと合格できた。また近代俳句の創始者・正岡子規は漱石と予備門が同期だったけど、この授業についていけず大学予備門と東京大学で二度の「落第」を経て、結局退学してます。幾何学の単位を落としたとき「数学と英語と二つの敵を一時に引き受けたからたまらない」と言っているけど、日本の近代文学にとって、この方が良かったのかも知れんね。

英語で授業なんて言ったらみんな英語だけに必死になる。だけど単語や熟語には際限がない。だから英語ってある意味では泥沼じゃない。しかもいざ使いこなそうとすると、takeとかgoとかputとか、そういう一音節語のほうが却って難しい。意味も多様だし熟語も山のように使い方があるから。

多音節語は大体意味が一通りだから易しいんですよ。学術用語はほとんど多音節語だから、意味が一通りに決まる。使われる語彙も分野毎に決まっている。自分の知りたい分野、研究分野が定まってくれば、英語の文献もすっと読めますよ。だけど一般教養から英語英語ってなったら、読むも何も、あらゆる分野じゃない。頭が追いつかないですよ。

京都大学に正高信男っていう先生がいるじゃない、霊長類研究所の。NHKテレビで「小学校英語教育が是か非か」をやってた時に、彼が出てきて話していたけど、大学に入ったときは英語なんか大っ嫌いだったと。色んな本を日本語で読んでいて、そのうちに疑問が湧いてきて、だけどそれを説明しているものは英語で書いてあって、読んでみたらその説明がすごく面白くて、そしたら急に英語が面白くなって、それで英語の文献が読めるようになったと言ってましたよ。

こういうのなら本物なんだけど、TOEICとかTOEFLの受験のために英語を勉強していたら、頭痛くなるよね。正高さんの話じゃないけど、本当に知りたいことがあってそれが英語でしか書いてないんだったらいいんだけど。僕はもう受験勉強は大学入試でこりごりですよ。だから大学に入ってからは、試験のためだけの勉強はしたくないって本当に思いましたよ。本当は前期後期の試験だって受けたくない。退屈な講義は単位のためだけに受けるわけでしょ。そんなつまらん勉強ないよね。

ノーベル賞をとった益川敏英さんは、名古屋大学の学生だったとき大学院の入試で物理学は抜群にできたけど、語学の点数はほとんど0点に近かったらしい。だけど、益川さんを合格させるかどうか議論の末、最終的には「いま英語ができなくても英語力なんて後でついてくるもんだ」ってことで、彼は合格できたんだよ。もし英語で授業が行われて、英語力がないと大学院にも入れないってことで英語に勢力を集中してたら、ノーベル賞なんてとれなかったと思うよ。

昨年ノーベル賞とった山中伸弥さんのことも調べてみた。大学時代、一体英語とどうつきあってきたのか。そしたら彼は英語の勉強なんかにエネルギーかけてないんですよ。彼は神戸大学の医学部に入って、そこでは柔道やラグビーにエネルギーをかけていた。それでしょっちゅう骨折してたから、外科医になってけがした奴の面倒見たいと思って外科医になるんですよ。だけど外科医になっても手術が下手くそで「おまえなんかジャマナカや」って言われて。そこで道を間違えたって、大阪市立大学大学院(薬理学)に入りなおすんですよ。それから色々やってるうちに、自分のやりたい研究がはっきりしてきた。そこで博士論文を書いた後、科学雑誌『Nature』や『Science』の人材募集広告に片っ端から応募した。遺伝子組み換えマウスに関連して「トランスジェニック」「ノックアウト」と書いてあるところに30~40通ほど手紙を書いたそうです。ほとんどのところは採ってくれなかったが、カリフォルニア大学サンフランシスコ校のグラッドストーン研究所から「なぜか」OKが来た(本人の言)。自分のやりたい研究がはっきりしてきて初めて英語が生きてきたんだよ。分野が決まったら語彙も決まってくるわけだから、英語の文献でも読みやすいですよ。

さっきの「グローバル人材育成戦略」にTOEFLの国別成績が載っているんだけど、日本の成績はというと、135位。アジア30カ国では1位がシンガポール。24位がベトナム、アフガニスタン、モンゴルで、27位が日本。これをもとに「育成戦略」は、日本がいかにダメかと言っているわけね。

隣の韓国はというと、アジアでトップレベルなんですよ。163カ国中の順位は80位。ここには書いてないけどアジアでは10位。韓国の人たちは、ほとんどがアメリカの大学院行くからね。学部から行く人も多いけど。TOEFLの点数が高いのはそのためなんですよ。だけど、その韓国からノーベル賞出てますか。出てないですよ、今のところ。

益川さんがノーベル賞とった時に、韓国日報が「日本がノーベル賞を取れるのは自国語で深く思考できるから。我が国も英語ではなく韓国語で科学教育を行なうべき」と書いていた。つまり、日本は大学院博士課程まできちんと母語で教育できるからノーベル賞がたくさん生まれてるんだ、ということで韓国は反省したんですよ。

昨年、米国の大学と大学院の外国人留学生のうち、韓国出身者が日本より遥かに多かった。2010年に米国で科学分野の博士学位を受けた韓国人は1137人。日本人はたった235人。五分の一ですよ。逆に言えば、韓国は日本人の五倍も博士号をアメリカで取っている。「それでも韓国はノーベル賞の実績が依然としてゼロだ。世界最高の教育熱に、世界15位の経済規模に見合わない、みすぼらしい成績である。」これは韓国、中央日報の記事ですよ。日本は英語がダメだって言ってるけど、実際は英語に血道を上げてるところがダメになってるんです。

韓国の激しい留学熱には別の理由があって、それは韓国が貧困だからなんですよ。韓国がいかにひどいかっていうのは『“超”格差社会・韓国』とか『韓国ワーキングプア 88万ウォン世代』という本に書いてある。いま韓国の若者の平均賃金は月88万ウォンぐらい。あそこはかなりのインフレで88万ウォンって実は7万円ぐらいしか無い。

韓国は1997年の「IMF危機」で経済が破綻した。それで韓国にはもう仕事がない、せめてアメリカへ行って修士号とか博士号もらってきたら韓国で仕事見つかると思って、みんなアメリカへ行くわけですよ(それどころか初めから韓国脱出をめざしているものもいる)。だけどアメリカの大学に行くためにはTOEFLで高い点数をとらないといけない。だからTOEFLの点数が高いのは必然的ですよね。ところが戻ってきても限られた仕事しかない。

日本の学生が英語をあまり勉強しないのは、英語を勉強しなくても就職口がまだ日本にはあるっていうことなんですよ。日本でもいま派遣社員が増えてきてひどいけど、アメリカに脱出しないだけ日本の若者は韓国の若者ほど追い詰められてない。韓国の若者は現状が悲惨だからこそ、TOEFLの点数が高いんですよ。だからTOEFLの点数が高いのは何も嬉しいことではない。韓国の学生がそれだけ不幸だってことなんです。

だから、英語で授業をすれば経済成長に役立つ人材が育つっていうのは、世界の現状を考えれば考えるほどあり得ないって思う。それなのに英語英語って叫ぶとすれば、それには何か別の理由があるとしか考えられない。

『英語教育原論』という本で詳しく書いたけど、いま中学高校にALTっているけど、あれを導入したのも、実は貿易摩擦の解消が理由なんだよね。日本からはトヨタとか東芝とかソニーとかが山のように輸出するでしょ。だけどアメリカは製造業が海外に行ってしまっているから輸出するものがないじゃない。残っているのは武器製造業ぐらいかな。だから何か買えって言うわけだよ。いや買えって言われたって、狂牛病の肉なんていらないし、アメリカから欲しいものなんて日本にはほとんどないんだよ。そこで、しょうがないからALTでも輸入するかってことになった(北朝鮮の脅威を口実に巨額の武器も買わされてるけど)。

つまり、英語という言語が商品になったり、英語人というだけで人間が商品になるんだよね。だってALTって、英語教育の専門教育を受けたわけでもなく、単に英語が喋れるというだけで英語の先生になってるんだから。アメリカが失業増えて困っている一方で、日本は英語英語って言って英語を欲しがっている。英語人を欲しがっている。それなら日本へ行けばいくらでも雇ってくれる。日本はハイ輸入させていただきます。ALTって、そういうことですよ。

次にTOEICが出てきた。全国の大学で学生全員が強制的に受けさせられてきたところも少なくない。本人がお金出すわけじゃなく、一応大学が出すから、学生はタダでTOEICを受けられると思ってる。だけど私立大学といっても全部経営者がお金出したり、学生の授業料で受験料を払ってるわけじゃない。僕らの税金で私学助成金が出るんだからね。国立大学法人は当然、国からの補助金で経営されている。つまり、TOEICを全員無料で受けられるように見えるけど、実はTOEICという商品をアメリカから輸入させられて、僕らの税金が湯水のようにアメリカへ流れて行ってるんですよ。

岐阜大学に居たころ、僕はTOEICはビジネス・イングリッシュなのに、研究費を削ってまでそんなものを学生に受けさせてどういう意味があるんだってずっと言ってきた。岐阜大には医学部とか工学部、応用生物科学部ある。それから教育学部も「理科教育」「技術教育」などがかあるから半分は理系。あと地域科学部ってのがあるけど、これも半分は理系。教養部を改組してできた学部だからね。そういう大学なのにTOEICを全員に受けさせろっていう上からの圧力が本当に強かった。どうしてビジネス・イングリッシュを理系がほとんどの大学でやらなきゃいけないの? 英語力をつけるという以外の何か別の理由があるとしか思えない。

それで僕がずっと強く反対してきたのに、その舌の根も乾かないうちに今度はTOEFLだって言い始めた。おいおい今までTOEIC、TOEICって言ってたのはどこ行ってしまったのって、こっちが狐につままれたような気分だよ。

TOEFLっていうのはアメリカの大学への留学を目的として開発されている。そんなものを卒業試験用に全員に受けさせたり、大学入試用に全員に受けさせたりしたって意味が無い。全員にアメリカの大学へ行けって言うの? そうじゃないならTOEFLを受ける価値なんてないよ。あの英語熱が燃えさかっている韓国でさえ,そんなばかなことはしていない。

それでも、TOEFLを目指して勉強すれば英語力がつくという反論があるかも知れない。アメリカの大学に行けるだけのTOEFLの点数を取っていれば、これは確かに英語力があるとは言える。だけどそのために英語にかけるエネルギーは莫大だよ。さっき言ったように、英語っていうのは泥沼のようなもので、泳いでも泳いでも沈んでいく。語彙は無限だからね。しかもTOEFLは、アメリカのどこの大学・学部に行っても間に合うように作られているから、語彙もあらゆる分野にまたがる。新語も続々と生まれている。教養部の頃からどうしてそんな下らないことにエネルギーを吸い取られなきゃいけないのか。益川さんやら山中さんやらが学部の頃から英語英語って言ってたら、ノーベル賞は生まれてなかったと思うよ。英語に血道を上げている限り、ノーベル賞は生まれない。

―研究力といっても、最近はノーベル賞に結びつくような基礎研究よりも、イノベーション、つまり産業化ということがよく言われています。(朴)

イノベーションの力も要するに批判力と創造力が必要で、英語に血道を上げている限り、考える力は育たない。「受験英語」は暗記だからね。疲弊していくだけですよ。

アメリカはイノベーションが多いって言うけど、インターネットのIT技術やアップルやマイクロソフトの製品などは、それこそ『チョムスキーの教育論』を読んで欲しいけど、ほとんどMIT(マサチューセッツ工科大学)などの基礎研究から生まれてるんです。そのための研究にどこからお金が出てるかって言うと、なんと恐ろしいことにペンタゴンから出てるんですよ。

だけどチョムスキーが言うには、MITに研究させるとき、イノベーションに役立つとか、こういう分野に役立つとかいうことをペンタゴンは一切注文をつけない。好きな研究、やりたい研究を思いっきりやってくださいって。ペンタゴンからお金をもらいながら、やってる研究に監視の目が光っていたことは無い。MITが一番自由な研究をさせてもらっていたと言うんですよ。自由に基礎研究たくさんやらせたら、そのうち芽が出てくる。芽が出なくたって、ペンタゴンが買ってくれる。ビジネスにも役に立ちそうなレベルまで研究が進んだと思ったら、ビジネスに回す。

かつて日本の明治国家もそういう風にやったわけでしょ。国家が海外に留学生を派遣して、勉強させてきて、今度は日本の国内で国家事業としてやらせて、芽が出てきたら企業化していく。敗戦後の日本でも同じやり方だった。チョムスキーも、日本では通産省(現在の経産省)がペンタゴンの役割を果たしてきたと言ってます。日本との違いは、アメリカではビジネス化するためには、一度ペンタゴンを通過しなければならないのにたいして日本の場合、国家が直接、企業に援助をしてきたから無駄が少なく(また今までは国立大学に自由な基礎研究をさせてきた)、それが日本経済を強くした。

インターネットやレーザーの技術、あるいはアップルにしてもマイクロソフトにしても、ペンタゴン資金をもとにMITなどが基礎研究やって芽が出てきたものを、彼らはビジネス化したわけだよね。まるで彼らが優れていたから、あんなベンチャー企業が生まれてきたかのように言われてるけど、本当はまず基礎研究があって、ビジネス化の寸前まで基礎研究が成熟していたからなんですよ。これがチョムスキーの意見です。イノベーションっていうのは基礎研究があって初めて花開くんであって、イノベーションだけ追求してたら、基礎研究はやせ細ってしまって、次の新しいものは絶対生まれない。それをいま日本は壊そうとしているわけですよ。誰かの利益のために。(後編へ続く)