インタビュー

権赫泰 韓国・聖公会大学教授 「現代日本の 「右傾化」と 「平和主義」 について」 前編

2013.04.16

京都大学新聞(おそらく)初の海外取材!

まったくの視界不良――いまの日本社会を形容するにこれ以上の表現はないだろう。とりわけ東アジア地域との関係は、昨年以来「領土」や歴史認識をめぐり緊張関係が高まっている。そしてそうした対外的な「脅威」を理由に、軍事的な活動が無制約に膨張しているし、内外の危機や不安を解決すると称して憲法改定すら焦点化されつつある。他方でこれまでこうした右派の野心を一定のラインで食い止めてきたリベラル・左派はかつてないほど弱体化しており、10年以上前なら大々的に問題視されるようなことが最早「問題」ではないかのように扱われている。

私たちはいま「茹でカエル」のような状態になってしまっているのではないか? それともそうした感覚は悲観主義者の妄想に過ぎないのか? この疑問の答えを求めて、韓国ソウルの聖公会大学日本学科教授で日韓をまたぎ現代日本社会について積極的に発言しているクォン・ヒョクテ氏に「外から見た日本」についてお話を伺うことにした。

突然の依頼にもかかわらず氏はインタビューを快諾してくれた。一路国境を越えソウルに向かった私たちが直面したのは、予想を上回る厳しい対日認識であった。

インタビューは3月19日にソウル郊外の聖公会大学キャンパスで実施した。なお、当日のやりとりはすべて日本語で行った。(魚・穣)

クォン氏顔写真

権赫泰(권혁태、クォン・ヒョクテ)

高麗大学校史学科卒業後、一橋大学大学院経済学研究科にて博士号(日本経済史)を取得。山口大学経済学部教授を経て、現在聖公会大学日本学科教授。著書に『日本の不安を読む』(2010年未邦訳)など。日本語論文は「日韓関係と「連帯」の問題」『現代思想』2005年6月号(青土社)、「9条の 世界的意味を探る」『世界』2007年10月号(岩波書店)ほか。韓国紙ハンギョレ21にて「クォンヒョクテのもう一つの日本」を連載中。

「外」から見た日本

―戦後日本、正確に言うと「本土」とは異なる歴史を歩まされた沖縄を除く日本の平和主義について韓国ではどのような認識だったのでしょうか。

低かったですね。なぜかというと、軍国主義というイメージが強かったからです。「日本の平和憲法(※1)」と言ったら、「え、何それ? 自衛隊あるんじゃない?」っていうふうになります。だから、別に学者が分析しなくても、韓国の一般の人びとは日本が平和主義だと言ったところで、「え? そんなことないよ」と言う。身体で分かっているのだから。恐怖感というのが基本的にありますから。だから50―60年代の新聞を見ますと韓国の新聞で日本関係の報道をするときはずっと「軍国主義の復活」です。50年代から「復活」ばかりやっているの。「日本また軍国主義復活か」って。だからいつの時代でも日本から何か動きが出てくると韓国の新聞は「軍国主義の復活」と言います。最近は割合「右傾化」という語が多いですが。

―たしかに日本が「右傾化」しているという議論は保守派もふくめた韓国メディアで多く見るように思います。

基本的に左か右かというのは立ち位置の問題ですから、例えば主張する人が「右側に立っていれば殆どすべてが「左」に見えちゃうわけですよね。だから「つくる会(※2)」の連中が「これまでの社会は左だった」という場合、自分がどれほど「右」に位置しているのかを告白しているのに等しい話であって、実際の断面図で社会を切った場合、日本社会が社会主義的なかたちに近かったといえばそんなことあり得ない。ただ問題は、左か右かというよりは、日本の戦後社会というものが、「つくる会」なり右側の人が言っているように、普通言われているような、国家が暴力を独占してつまり兵隊をもって自分の力でもって安全保障を守っていく仕組みではなかったということが、戦後日本国家のひとつの特徴として取り上げることが出来るでしょう。ただ、だから左か右かというのは、それはあくまでもアジテーションの問題であって、それがある現象をですね、つまり日本社会、戦後社会のある面を正確に浮き彫りにしてくれるかといえばそんなことはない。左か右かはそんなに大事な問題ではない。

右に言わせれば、それは例えば戦後民主主義(※3)と言った場合、その概念がどういう概念なのかによってまた違ってきますし。ただ、要するに一言でいえば平和憲法とそのもとで設けられている自衛隊それから在日米軍の問題、これをどうみるかということだと思うんですね、それに尽きる。

「平和主義」という麻薬

―日本では憲法9条をめぐって、これを改定し自衛隊を「国防軍」「自衛軍」にすることを目指す右派と、このまま維持して「平和な戦後社会」を守ろうという左派の対立があります。

日本の憲法問題の会議なんかに出ていくと、「憲法を守りましょう」と言う人たちは基本的にリベラル・左派が多いですよね。その社会を見る目というのも、同じではないんだけれども割合僕と似ているし、知り合いも多いと。それは間違いない。ただ、どうもそれをずっと聞いているうちに、違和感が出てくるわけです。その違和感の正体というのは…。いわゆる「平和憲法を守りましょうということですよね。で平和憲法を守りましょうと言った場合、平和憲法のその例えば何条がどういう内容なのかということを含めて、その平和憲法を下から支えていた構造そのものを守りましょうという話に等しいわけです。

だから、平和憲法を守ろうということは、逆に、簡単にいえば、平和憲法が作動していたその時代に戻りましょうという話になっちゃうわけ。で作動したというのは、まあいってみればふたつあるわけですよね。まず最初出来た時の段階ね。つまり自衛隊も何もなかった時代の。もう一つは50年代以降のいわゆる自衛隊が出来て米軍によって守られているような状況の中での平和憲法というもので、60年代以降の解釈改憲によって、自衛隊あるいは在日米軍に法的な根拠が対応していく。

そうすると、戻りましょうと言った場合、自衛隊をなくし在日米軍も認めない、つまり初期の路線に戻りたいということを言っているのかどうかが問題になる。で、どうも2005、6年以降の護憲派の動き(※4)を見ていると、「護憲」という言い方はあんまりしなくなっちゃって、「憲法改正反対」というふうに言うんですよね。あるいは「反改憲」。明文改憲を反対するという。つまり、解釈改憲のことは触れないことにする。そうすると、自衛隊と在日米軍はそのままにするということになる。

憲法9条がある下でも自衛隊の海外派兵(※5)が行われるなど自衛隊という軍事装置の活動が一貫して拡大してきたのは事実だと思います。日本の左派はこうした現状を既に内面化、受け入れてしまっているということでしょうか。

ただ、問題はそれにとどまらず僕が一番不安なのはこういうことです。例えば「日の丸・君が代反対」 発想としては日の丸・君が代にかわる新しい民主主義の象徴としての国旗国歌をつくろうという動きも昔確かにありましたけれども、それほど積極的ではなかったと思う。で、「国旗・国歌反対」実際には、現実に於いては国旗・国歌が機能している。で、左派は反対反対反対と言い続けていつの間にか、国旗国歌法が制定される。で、それを呑みこまざるを得ない。憲法にしても同じこと、自衛隊にしても同じことという。その繰り返しがずっと起っている。

要するに、日本戦後社会、平和主義といった場合、「平和主義」という言葉表現そのものが、一種のいってみれば過剰表現だった。過剰表現というのは「いいすぎ」。どういうことかというと、その言い過ぎの表現があるがために、現実性の麻酔効果があったと思う。つまり、現実では全く「平和主義」が機能していないのに、あたかも言葉が先行してしまうということ。

―平和主義がまだあるかのように思いこんでしまう。

そう、そういうのが戦後社会の反応としてみられる。いや、ただね、だからといって憲法改正がいいのかなんてそんなことはなくて、それでも「歯止め」の役割はあるじゃないですか。だから、憲法をどう、できるだけ良い働き、というか、つまり最小限の防波堤の役割を、憲法に期待せざるを得ない状況、というのは逆にいうとすごく情けないですよね。そこに頼らざるを得ないというのが、そこまで追い込まれているというのはすごく情けないと思う。

とにかく基本的には平和主義という一個の過剰表現の問題に尽きるんじゃないかな。例えば、広島・長崎にしてもそうなんだけれども、広島・長崎の被爆経験があるにもかかわらず原発大国となったりね。あるいは、ご存じのように多分広島に行くと、広島平和公園を出て電車で30分行くとヤマト博物館があったり、呉海軍基地があったり、長崎平和公園から佐世保も一時間で行ける同じ県内。みんなねえ、そこに「平和・平和・平和・平和」というのをそこの公園の中に閉じ込めておいて、その外に出ればなにやってもいいという構図に見えているわけ。で、そこは過剰表現で外が現実という。

結局じゃあ、その広島長崎の平和主義というのは何だったのかというと、8月6日と9日を公園の中に遺跡を作って、その時空間に閉じ込めて、外に出ると何やってもいいという感じです。で、何やってもいいような軍事大国という現実は、その表現でもって一種の麻酔効果みたいに麻酔されちゃって見えなくなってしまう。それが僕は一番怖い。

―麻酔効果というのは非常に分かりやすい表現に感じました。「平和主義」にとどまらず、歴史認識や中国脅威論、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)脅威論を唱える際の自己認識、「日本は平和国家なのに周りは」という発想にもいえることではないでしょうか。

もう一つ言うと、いつも感じるのは最近日本のテレビなどを見ると、「日本はいつもいじめられっ子」という被害妄想というのがすごく強いんですよ。で北朝鮮が攻めてきたらどうする、中国が攻めてきたら、韓国が攻めてきたら、あいつらみんなで手を組んで日本苛めをするということになっているわけね。

でも考えてみたら、歴史的に日本が中国朝鮮から苛められたこと一度もないわけですよね。根拠があるかどうかは別として例えば朝鮮半島の人間が、日本が攻めてくるかもしれないと思う。根拠がないとしても、そういう恐怖感を抱くのはおかしくないわけ。昔そういうことがありましたから。でもなんか、朝鮮半島が攻めてきたらどうしようか、そういうふうに言われるたびに、なんでああいうのを考えるのだろうと(笑)

しかも、さっき言ったように、平和主義があるために日本は武器も何もまったくないという錯覚に陥っているわけ、で北朝鮮は軍事的にすごく強くて攻めてくる。でも北朝鮮にしてみれば韓国も日本も怖いですよ。もちろん北朝鮮の肩をもつつもりは無いけれど、北朝鮮核持っているでしょう、持っていると言っていますよね、で韓国も日本も核がありません。でも北にしてみれば、韓国も日本も核があるのです。アメリカの核の傘に入っているかぎりね、恐怖は感じますよ。だから、韓国と日本が、こちらはいつも弱い攻められていると言ったところで、北にとってみればそれは何の意味もないわけですよね。

長崎の平和集会でこの話をしたんです。日本は実質的間接的な核保有国であると。もし、本当の平和主義だったら、アメリカの核の傘から出て、反核国家であることを宣言したらいいと言ったら、ムチャクチャ…すごい2ちゃんねるから何から言われましたね。いやほんとに。いろいろいわれましたよ。

核の傘に入っているんだから、それは非核国家でも何でもないです。ただ韓国もそれは同じなのね。ただ韓国が日本と違うのは、韓国は自分の国の戦後史を「平和主義」とは言わないわけ。だって、体制として平和主義をやったことないから。国家体制で別に非核三原則があるわけでもなく、平和憲法があるわけでもない。正直といえば正直なんだけれども、それがいいかどうかは問題じゃなくて、少なくともそういう錯覚は無い。日本の場合とにかく平和主義という過剰表現があるために、いわゆる現実そのものを直視する妨げになるのは間違いないと思う。

韓国の民主化と植民地問題

―歴史認識をめぐっては日本と韓国の間で認識の非対称な関係があるように感じます。日本でよくでる意見としては、90年代以降それまで「問題ではなかった」戦争責任・植民地支配責任を韓国がいきなり主張し始めた、というものがあります。
これまで出て来た問題、つまり安全保障の問題と歴史認識の問題にかかわってくるものがなぜ同じ90年代以降に出て来たのかというと、やっぱり韓国の民主化(※6)が一番大きいですよね。慰安婦の問題にしても徴用された被害問題、損害賠償などそういう問題を含んだ被害者団体が出来たのは90年代。僕が覚えているかぎりでは二つだけが、韓国社会の中で60年代70年代にできました。今の名前は太平洋戦争被害者補償推進委員会といいますが、それが74年に。ちょっと名前は違うんですが、もうひとつは68年に韓国人原爆被爆者協議会というのができました。この二つ以外は、植民地時代、植民地被害者団体というのは全部90年代以降にできます。

というのは、韓国の独裁政権が抑えつけていたんです。植民地時代の被害者が自分たちで声を出して日本に損害賠償を求めることを力でもって抑えつけていた。で、政府・独裁政権にしてみればですね、利用できる争点あるいは被害者団体だけは設立を許して、自分のコントロール内に置いておいた。それは原爆被害者団体。だから基本的にそれ以外のものは独裁政権のもとで許されませんでした。90年代以降の開かれた社会、政治文化の中で被害者たちが自分たちの声を出し始めた。それはすごく、自然な流れというか。で、90年代以降になぜ歴史問題が噴出してきたのかというと、やっぱり民主化。

ただ、日本政府の対応も、このときにこれまでのいわゆる黙殺だけではダメということがわかった。村山談話(※7)、河野談話(※8)あるいは93年の細川首相(※9)、まあその後後退するんだけど、全部そういう背景があった。それが精いっぱい。(※10)

和田春樹(※11)先生は、国家のいわゆる公式的な機構が決議でもって謝罪を表明するというのは歴史的にすごく大きな意味があるという。国会決議とかでね。僕は謝罪というのは権力側が何らかのかたちで追い込まれて、追い込まれた権力側がいわゆる国家そのものに傷をつけずに対応した最小限の譲歩であると思います。だから謝罪というのはコストがかからない、分かりやすくいえばすごい安上がりなんです。それでも90年代に国家責任は絶対認めませんでした。それが「謝罪」なの。それすら、95年の村山談話からすら後退していって、逆に(つくる会など)反対が多く出てきている。それすら安倍政権は否定しようとしている。

だから僕は、これは和田春樹さんの謝罪に基づいて日韓関係に決着をつけようとした、いわゆる現実路線というのは破綻したと思う。そのときの現実路線をとった人たちは何ももたらさなかった。

―東アジアをみるといわゆる「反日」それから冷戦という二つの対立軸があるとおもいます。昨年夏の日韓情報協定が直前で撤回されましたが、日本の右傾化が皮肉なことに、後者の西側ブロックすなわち日米韓軍事同盟の最終的な完成を妨げているという面があるように思えます。

さあ、どうでしょうねえ…。逆に聞きたいのだけれども、今はねえアメリカから見てちょうどよい構造が出来あがっていると思います。

2つの面があると思うんです。歴史認識の面においては、これまであった日本孤立、日本が孤立する、あるいは日本以外の他の国が日本を包囲するという状況が出て来た。で、外交安保、安全保障の面においては、いわゆる北朝鮮・中国を排除するというか、孤立させるような構図が出来上がって来たと。だからその相矛盾する2つの傾向が以前からあって、歴史認識の部分と外交の部分をどう捉えるべきなのかということが、昔からとても大事だったし、今年になって特に争点になってくる可能性が高い。これはどういうことかというと、君に聞きたいのだけれど、以前小泉が首相だったときのことですが、例えば靖国神社に行かない。それから朝鮮半島の人間に謝罪する国会決議をする、国民基金など元慰安婦の問題に積極的に謝罪する、賠償は難しくても何らかのかたちで経済的な補償を(国民基金より一歩進んだかたちで)する。であらゆる問題についてこれまでの枠とは違った積極的な対応をする。

ただ、憲法改正します。自衛隊は軍隊にします。これができるのかどうか。つまり外交安保の問題と歴史認識の問題を切り離すことができるのかどうか。例えば僕が小泉だったら安倍だったら絶対そうする。「靖国なんてダサいしそんなところ行かない」「もう悪かった」「ただ憲法は改正します」。どうですか? そういう発想は。僕はそれが一番怖いですよ。金大中政権の時と盧武鉉政権のときに、僕が一番懸念していたのはそれなの。もし小泉が靖国に行きません、謝罪します、ただ憲法は変えたいです、軍事的協力を強化しましょう。日韓親善、未来のために手を結ぼうと言ったらどうするのかと。あなたはどう思いますか? 日本の保守政権が「現実」路線を取ると思いませんか?
―日本の右派の伝統的な楽天主義からして、そのような「賢い」やり方は出来ないのではないでしょうか。二兎(右派の望む歴史観・今現在の日米韓軍事同盟)を追おうとして矛盾に陥るのではないでしょうか。

まあそうでしょうね。僕は現実路線の可能性が最も高いのが民主党だったと思う。民主党と自民党の違いがそういうかたちで出てきたら、これは怖いなと。どうしようもなくなっちゃうなと。ただ、民主党ですら「左翼的」といわれつぶれてしまいました。

これは韓国でも同じなんですが、これからの国のあり方・地域のあり方をどう設計するのかという問題と、その歴史認識の問題がどうなるのかということが、すごく大事な問題ではあるのに、取りあえず頭の中でこれを切り離すことが出来ると錯覚している人が多いの。未来志向だとかね。そこが一種の盲点になっている。日本の中でもそういう話がありますし。

もうひとつ、これもすごく難しい話なのだけれど、例えば中国との関係においては、外交安保の問題は解決が難しくても、歴史認識の問題は中国との関係においては日本はすごくやり易い、分かりやすい。なぜかというと、中国は公的賠償を求めません。1972年にあきらめました。個人の被害は別だと最近言い出しているのだけれど、基本的に国家賠償はもとめないです。で、歴史認識の問題においても東京裁判史観そのものなんですよね。別に矛盾しないわけ。だからA級戦犯さえね、合祀しなければ別に問題無いわけ。それが嫌なら第三の施設をつくればいいわけですよね。これまであった枠をそのまま認めればよい。

でも問題は朝鮮半島なんですよ。A級戦犯というのは朝鮮半島には直接あまり関係ないんです。じゃあどうするの。日韓併合あるいは植民地時代の被害者をどうするの。これは簡単なことじゃない。一般的にはリベラル・左翼の人でも日韓併合について不当・合法論が多い。道徳的には間違っているけど国際法的には問題ないと。丸山真男もそうだった。彼は謝罪すら認めなかったんだけど。ただ韓国においてはとりあえず植民地支配全面否定ですよ。だから埒が明かない。日韓基本条約(1965年)(※12)見直し論が韓国で出てくるのはそういう背景があるからです。しかもその条約は韓国の独裁政権の下で結ばれたでしょう? 北朝鮮もやっぱり2002年の 日朝平壌宣言(※13)で同じ過ちをおかしかねない状況だった。被害者の声を無視してなぜ国家が一括しするのか、やっぱりそこが問題ですよ。

だからどこまで、例えば学者がここまで要求するとか、ここまでやるべきだとか、国家権力がありうるシナリオの中でどうやっていくのかというまた別の提案。外交安保の面では分かりやすいのだけれど、逆に歴史認識の問題はすごくややこしい。基準になれるモデルが国際法上ないが先行され、歴史問題が取り残されるか、蓋をされるのが多いですし、国際的には参考にできるモデルもほとんどないのが現状です。

―たしかに欧米の旧植民地支配国も植民地支配の法的責任は認めていません。

一つあるとすればドイツとナミビアの第一次大戦後の問題。あるいは最近、イランがやっているような運動。それほどない、難しいこと。(※14)

ナショナリズム批判の陥穽

―日本のリベラル左派においても、「中韓の反日ナショナリズム」、国家主義を問題視する言説があります。国家主義を嫌悪して「市民の連帯」を説くような。

いや、もちろんね。具体的には朴裕河(パク・ユハ)(※15)さんの『和解のために』とかね、日本では賞なんかも取っちゃったりして。韓国ではそれほど売れなかったんだけど。それも不思議な現象なんだ。つまり、『和解のために』がなぜ日本であれだけ評判になり、韓国では注目されなかったのかということは、社会的現象として分析する価値があると思う。

まあ、基本的に右寄りの人じゃなければ、国家主義ナショナリズムを忌避しますよ。だから、例えば韓国の独島問題なんかに関する言説などで見られるような傾向については、問題があると思っている人は韓国にも少なくない。それは当然です。ただ、問題はこういうことです。例えば、韓国の教科書の中で独島教育が、最近になってですね、ナショナリズムの高揚のために強化された傾向があるのかといえばそんなことはない。一言でいえばずっとそうだったわけです。別に新しい現象でもなんでもない。

ただ、逆に独島に対する世論の関心が高まって来たのは日本の最近の現象であると。僕が昔日本で生活していた頃、日本の中で独島って言っても誰も分かりませんでした。言いだしたのはついここ4、5年の事だと思うんですよね。たまに政治家が発言するくらいで、社会的関心は無かった。ここ4、5年の間にすごく関心が高まって来たということだと思う。なので、韓国のナショナリズムの問題は、それが批判されるものであるのは間違いないのだけれども、だからといってそれが最近出て来た新しい傾向なのかといえば、そんなことはない。昔からあったのがそのままあるのです。ただ昔はナショナリズムが政府によって利用されたり、あるいは押さえつけられたりしたんですが、民間レベルでは民主化以降、ナショナリズム的傾向が一部において出てきて、それがいわゆる間違った日本論を作り出しているのは間違いない。

それから、それを日韓関係において、両国のナショナリズムの問題として捉える事が出来るのかどうか。ちょっと違った面がある。韓国社会では独島問題は、領土ナショナリズムの性格ももちろんあるんだけれども、もうひとつ問題なのが、日本の帝国主義植民地侵略の入り口の問題として捉えている面がすごく強いと。だから日本では、これは韓国ナショナリズムが勝手に日本の領土を取っているという認識なんだと思うけど、韓国社会にしてみれば1905年(※16)の歴史的記憶がありますので、これをもし日本にとられたら、当然半島にも入ってくるという歴史的記憶が蘇ってくるというのがある。植民地主義の入り口と切り離して考えるのはできない、ということだと思う。それが違うね。

独島の問題を考えるときに、これを領土ナショナリズムの問題として捉えると、日韓関係において、実際何が問題なのか、全く分からなくなると思う。ナショナル一般の問題として捉えてもそうです。さっき言ったように、朝鮮半島においてはこれは植民地主義の問題であり、日本の場合はいわゆる帝国時代への憧れの面があると思う。基本的につまり、1860年代からの帝国という時空間を完成する過程のなかで、一つの拠点として独島という問題があると思う。

例えば独島問題でこうなっているのだから、沖縄の人が「独立する」という宣言を言い出したら、どうなるのだろうかということまで含めてね、そんな簡単なことではないと思う。「それは沖縄ナショナリズムだ」と否定したり、批判したりしますか? ナショナリズム一般の問題として捉えることはできないと思う。基本的にナショナリズムと植民地主義の結合というかたちで捉えるべきじゃないのかな。ナショナリズムを批判すれば何でも解決できると思いこんでいることもちょっとおかしい。特に上野千鶴子さんの台頭後はそんな感じになってきているから。

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脚注

(※1)日本国憲法はその前文で「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と述べたうえで、第二章 戦争の放棄 第九条において「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と規定している。

この憲法に記された「平和主義」と自衛隊と日米安保体制が存在する現実との関係をどう認識するかが戦後日本社会の一大争点だったといえる。

〈参考文献〉 童話屋編集部編『日本国憲法(小さな学問の書)』童話屋(2001年)
童話屋編集部編『あたらしい憲法のはなし(小さな学問の書)』童話屋(2001年)

(※2)教育学者だった藤岡信勝やドイツ文学者の西尾幹二らが1997年に結成した社会運動団体。当初は「大東亜戦争肯定史観」にも「東京裁判史観・コミンテルン史観」にもとらわれない、いわゆる「右でも左でもない」自由主義史観の確立を提唱していたが、次第に後者のみを「自虐史観」と規定し主な敵とみなしはじめ、「日本を不当に悪く描いていたのを改め、子供たちが日本に誇りを持てる教科書」をつくることが目的となった。01年4月に「新しい歴史教科書」「新しい公民教科書」が検定採択された。教育委員会における教科書採択では各地で反対運動が起こった。

(※3)冷戦や逆コースとの対抗関係のなかで形成された政治社会の対立軸のなかで、日本国憲法の理念を後ろ盾としながら「平和と民主主義」を求める運動を展開した論者たち(丸山眞男、大塚久雄、竹内好、加藤周一ら)が思想史のうえでは「戦後民主主義」に分類されている。ただし、気をつけなくてはならないのはこの「戦後民主主義」という呼称は彼らが第一線で言論活動をおこなっていたあと、1960年代以降に日本国憲法を「占領民主主義」と批判する右派と、より急進的な新左翼の「左右両翼」から「否定的なレッテル」として用いられはじめたことである。戦後民主主義の「理念」そのものは現実の戦後日本社会の姿とりわけ高度経済成長期以降のそれとはまったく異なるのである。

〈参考文献〉 日高六郎編『近代主義』現代日本思想大系34、筑摩書房(1964年)

(※4)第一次安倍政権(06年9月―07年9月)は、発足直後より「戦後レジームからの脱却」というキャッチフレーズを掲げ、愛国心教育を明記した教育基本法改定、防衛庁の省昇格(いずれも06年12月)、「自衛軍」の保持や「国家緊急権」を明記した「自民党新憲法草案」(05年11月)の実現を意図した憲法改定に関する国民投票法の制定(07年5月)など、保守・革新両陣営のバランスの上に成り立っていた戦後日本社会の枠組みを根底から覆すことを意図した。同時にいわゆる元「慰安婦」の問題では、「狭義の強制はなかった」との認識を示し、韓国のみならず米国下院や欧州議会からも非難を受けた。
こうした戦後日本の「平和主義」を完全に放棄しようとする一連の傾向に対し、「9条の会」(04年結成)などの市民団体や「マガジン9条」(05年発足)といった「新しい」媒体は、「改憲反対の一点」に基づく広範囲な護憲運動を展開した。

(※5)もともと「専守防衛」を旨としていた自衛隊だが、冷戦終結後の1990年代以降急速にその姿および活動領域を変容させている。
湾岸戦争終結後の1991年4月、「日本の船舶の安全を確保する」という名目のもと、政府は海上自衛隊にペルシャ湾沖での掃海作業を命令した。政府は公海上での作業であり、法律上問題はないとの立場を取ったが、実質的な自衛隊による初の海外展開であった。

その後、1992年に「PKO協力法」が制定され、「武器の使用は、要員の生命等の防護のために必要な最小限のものに限られること」など「参加5原則」をクリアすれば国連平和維持活動(PKO)の一部活動に参加のみちを開いた。「国際緊急援助隊法」も改定され、大規模災害が発生した国の自衛隊派遣が解禁された。

PKO協力法に基づく海外派遣はカンボジア(92年9月―93年9月)、ルワンダ(94年9月―12月)など 実施されている。1994年には自衛隊法が改正され、海外在外邦人等の輸送を解禁した。

1999年5月に成立した「周辺事態法」では、日本の領域内ではなくてもその「後方地域(日本の領域と日本周辺の非戦闘地域)」で脅威が発生した場合、日米安全保障条約にしたがって軍事行動を取るアメリカ軍を自衛隊が後方支援することになった。

その後も、アメリカの対テロ戦争に歩調を合わせるかたちで01年「テロ対策特別措置法」でのインド洋派遣(01年11月―10年1月)、イラク人道復興支援特措法(2003年8月)でのイラク現地およびペルシャ湾における人道復興支援活動、安全確保支援活動(04年1月―08年12月)。イラク派遣についてはイラク国内で戦闘状態が事実上続くなか、自衛隊の派遣先が果たして「非戦闘地域」といえるのかが大きな議論となった。

そして07年の防衛庁の省昇格に合わせた自衛隊法改正で、自衛隊の海外派遣は「本来任務」と規定されるまでに至っている。

ちなみに08年4月に名古屋高等裁判所(青山邦夫裁判長)は、「航空自衛隊部隊が多国籍軍兵士をバグダットに輸送業務を戦闘地域での活動」とし、武力行使を禁じたイラク特措法に違反し、日本国憲法第9条に違反する活動であると指摘した。

(※6)朝鮮半島は1945年8月15日に日本の植民地支配から解放された。しかしその後の米ソによる38度線を挟んだ分割占領は今日まで至る南北分断をもたらした。南側の韓国は東西冷戦の最前線として反共ブロックのかなめとしての役割を担わされた。初代大統領李承晩が強権政治の結果1960年の民衆反乱(4・19革命)で国を追われたのちも、朴正煕(1963―79年)、全斗煥(1980―88年)ら反共軍事政権体制が続いた。学生や労働者らによる民主化運動が粘り強く行われ、途中、光州事件(1980年)に代表されるような犠牲を払いながらも、1987年6月の民主化抗争で軍事政権は「6・29宣言」を発し民主化大統領直接選挙制、言論の自由、政治犯の釈放が達成された。

〈参考文献〉 池明観著『韓国 民主化への道』岩波新書(1995年)
徐仲錫著 文京洙訳 民主化運動記念事業会企画『韓国現代史60年』明石書店(2008年)

(※7)1995年8月15日に村山富市首相(当時)が発表した談話。「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます」と表明した。

(※8)1993年8月4日に河野洋平官房長官(当時)が「慰安婦」問題にかんして発表した談話。「慰安所」の設置・移送には旧日本軍が直接間接に関与していたこと、また「慰安婦」の募集のさいして甘言、強圧など、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあること、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであったことを認めた。そして「この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる」と道義的謝罪の意を表明した。

(※9)細川護煕首相(当時)は、1993年8月23日の所信表明演説で、「過去の我が国の侵略行為や植民地支配などが多くの人々に耐えがたい苦しみと悲しみをもたらしたことに改めて深い反省とおわびの気持ちを申し述べるとともに、今後一層世界平和のために寄与することによって我々の決意を示していきたいと存じます」と表明した。

(※10)戦後日本政府が戦争責任、植民地責任にかんする「過去の清算」にかんしてどのような認識を持ってきたのかは、吉田裕著『日本人の戦争観ー戦後史の中での変容』(岩波現代文庫2005年、原著は1995年)を参照のこと。

(※11)和田春樹(1938―)ソ連史・ロシア史を専門とする歴史学者。北朝鮮にかんする研究も。韓国の民主化運動や、90年代に顕在化した歴史認識問題など市民運動の領域でも精力的な活動を行っている。

〈参考文献〉 和田春樹著『北朝鮮―遊撃隊国家の現在―』岩波書店(1998年)

(※12)1965年に韓国との間で締結された日韓基本条約と付随4協定の総称。日韓併合以前に結ばれた全ての条約が無効であることを確認するとともに、韓国が朝鮮にある唯一の合法政府であることを確認し、国交を正常化した。韓国側は強制動員などの損害賠償を要求したが日本側は拒否。最終的に「経済協力」として、総額8億ドル(無償3億ドル、政府借款2億ドル、民間借款3億ドル)の援助と引き換えに、韓国側は請求権を放棄することで合意した。日本政府は日韓条約を根拠に元「慰安婦」や強制連行被害者からの個人補償要求に対して一切応じない姿勢をとっている。

条約締結時には日韓双方で反対運動が起きたが、韓国のそれが日本資本の再進出に対する警戒感や植民地支配への謝罪がなかったことに対するものであったのにたいし、日本のそれは韓国のみを朝鮮半島の正統な政府と認めることで北朝鮮の側との関係正常化が果たせなくなることに対してであり、両国の反対運動には質的な差異があった。

(※13)2002年9月17日に小泉純一郎首相(当時)と金正日国防委員長が平壌で史上初めて日朝首脳会談を行った際に発表した共同宣言。歴史認識にかんして日本側は「過去の植民地支配によって、朝鮮の人々に多大の損害と苦痛を与えたという歴史の事実を謙虚に受け止め、痛切な反省と心からのお詫びの気持ち」を表明した。ただし、補償にかんしては日韓条約と同様の「経済協力」方式を目指すとされた。このほか同宣言では拉致問題に関して北朝鮮側が今後適切な措置をとること、日朝両国が地域の平和を維持・強化するため互いに協力することが確認されている。

(※14)2001年9月に南アフリカ・ダーバンで開催された国連の人種差別反対世界会議では、アフリカ、アジアの旧植民地諸国から、旧列強諸国に対して植民地支配および奴隷制の謝罪を要求する提起が出され、議論が紛糾した。最終的に作成された「宣言・行動計画」では、列強諸国がアジア・アフリカや先住民に対して行った奴隷制は人道に対する罪であること、植民地主義が大規模な人間の苦痛をもたらしてきたことが確認された。他方で謝罪や補償については「犯された重大かつ大規模侵害について進んで謝罪をしてきた国家や、適切な場合には、補償を支払った国家があることに留意する」と曖昧な表現にとどまった。

(※15)朴裕河(パク ユハ、1957年―) 韓国の日本文学研究者。世宗大学校日本文学科教授慶応大学文学部卒業、早稲田大学で日本近代文学を専攻。夏目漱石、柄谷行人など日本近代文学、思想の翻訳を行う。著書『和解のために-教科書・慰安婦・靖国・独島』佐藤久(訳)(平凡社2006年)が、日本で第7回大弗次郎論壇賞を受賞した。

(※16)1905年は、第二次日韓協約が結ばれた年。この条約により、韓国の外交権は日本に奪われ、韓国は日本の「保護国」となった。