複眼時評

若島正 文学研究科教授 「極私的グローバリゼーション論」

2013.04.01

このところ、猫も杓子も口を開けばグローバル化、グローバル化とうるさい世の中である。この京都大学も例外ではなく、学内のあちこちに「グローバル」の文字が花盛りだ。たとえば「グローバルリーダー」もその一つで、そういう言葉が出てくるからには、どうやら大学の存在意義は「国際的にリーダーとして活躍する人材を養成する」ことにあるらしい。それが絵に描いた餅なのかどうかは、当方には関心がないのでこの際さておく。ここで書いてみたいのは、なにやらエイエイオーのかけ声のように空虚に響かなくもないこのグローバル化が、わたしという一個人にもたらした変化についてである。

その変化の始まりはいつだったか、これは正確に思い出せる。今からちょうど二十年前、わたしが四十歳のときだ。それまでは、わたしにとって海外というのは文字どおり海の向こうにある遠い存在だった。なにしろ洋書を注文するにも、丸善で取り寄せてもらって、到着するのに最低四ヵ月はかかった時代である。もともと面倒くさがりなわたしの活動範囲は、物書きとしての仕事も含めて、国内のごく狭いところに限られていた。もう一つ、趣味として詰将棋創作というのも二十年以上続けていたが、これも当然ながら国内でのつきあいだけですべてが完結する世界だ。

事情が変わりだしたのは、趣味の方で将棋からチェスにも手を広げようとして、チェスプロブレムというジャンルに足を突っ込んだ頃からである。ちょうど四十歳のとき、イギリスで三週間ほど過ごす機会があり、あちらのプロブレム作家に手紙を書いて、何人かの人に会った。彼らが言うには、「タダシ、もっと大勢のプロブレム作家に会いたいんだったら、世界大会に来ればいいよ」。というわけで、次の年にフィンランドで開かれた世界大会に初めて参加して、そこから世界中のチェスプロブレム愛好家たちとのつきあいが始まることになった。毎年世界大会に行くと、「タダシ、いつになったら日本に呼んでくれるんだ?」とうるさい。そこで、昨年の九月に世界大会を神戸で開催した。このとき、海外から日本に来てくれた同好者たちは百人ほど。毎晩、その仲間たちと夜遅くまで飲んではおしゃべりして、夢のような一週間が過ぎた。

こうした背景には、PCとインターネットや電子メールの普及がある。プロブレムの世界大会に初めて参加した頃から、わたしはそれまで使っていたワープロ機OASYSからマックに乗り換えた。我が家のマックの初代は伝説的名機と言われるSE/30で、これはほとんど飾り物でしかなかったが、一九九〇年に出たClassicsのあたりから使用に慣れて、完全なマックユーザーになってしまった。そしていつの頃からか使い始めた電子メールが、海外との距離感を一気に縮めた。地球の裏側の、ブラジルや南アフリカの友達とでも簡単にやりとりができるのだから、昔のことを考えてみれば不思議だし恐ろしい。

もちろん、こうした状況の変化は趣味の世界だけではなかった。わたしはウラジーミル・ナボコフという作家をもっぱら研究しているが、日本ナボコフ協会という小さな学会を立ちあげたのが一九九九年のことである。その招きで二〇〇一年に来日したアレクサンドル・ドリーニン教授と鴨川ベリを歩いていて、教授から「これだけ日本にナボコフ研究者がいるんだったら、国際学会を京都で開けるんじゃないか」と真顔で言われたことがずっと頭の中にあり、それが三年前の京都での国際学会開催に結びついた。

こうして、この二十年間のうちに、わたしのいろんな意味でのつきあいはすっかり国内半分、海外半分になってしまった。海外とのつきあいで何よりも爽快なのは、「タダシ」と呼ばれることだ。彼らは日本でのわたしを知らないから、何の偏見や予備知識もなく、とにかく目の前にいる一人の人間としてつきあってくれる。そういう場では、日本人であることはほとんどどうでもよくなる。大袈裟に言えば、この二十年間で、わたしは遅ればせながら、単なる一人の人間としてのわたしを発見したような気がするのだ。

思えば、この四月に京都大学に入学したみなさんは、ちょうどこの二十年間にわたしが個人的に体験してきたような環境の激変を、変化と思わずに、すでにそこにあるものとして生きてきた、いわばグローバル化以降の最初の世代なのだ。それをなんとなくうらやましいと思うのは、時流に流されながら高齢者になってしまった人間のひがみかもしれない。グローバルリーダーを目指せなどと威勢のいいことを言うつもりはさらさらないが、すぐそこにある「世界」とのつきあいで得られる爽快感だけはぜひ味わってほしいと思うし、最近目につく、自らを外に閉ざすプチナショナリストにだけはなってほしくないと思う。