文化

〈台湾逗留記〉~第四回~石碑が語るもの

2013.02.16

台湾の人たちは旧暦の正月(春節)を1年の行事で最も大切にする。今年の春節は2月10日だったのだが、当日から1週間が「休み」となる。街は盛大にデ コレーションされ、普段は土日も朝晩も忙しなく営業している通り沿いの露店や飲食店もこの時ばかりは店じまい。とくに大みそかにあたる除夕の夜など飲食街 からネオンの灯が消え、夕飯の調達にも苦労するほどだった。新暦の正月は休みも当日のみ、クリスマスのオマケ扱いというか、その到来を祝う感じは全くな かったのとは大違いだ。

これを「変わっている」と思うのは早計だ。むしろ東アジアでは日本以外みな、旧正月の方を重視しているのであって、伝統行事や習俗の類を完全に新暦に切り 替えた日本が「例外的」な存在なのだ。確かに、冬の寒さが底を打ち徐々に暖かくなり始めるこの時期に新しい年を祝うというのは、なるほど理にかなったよう にも思える。

さて、この休みを利用して、私は台北発の国鉄に乗り込み、予てから目指す場所に向かう。車内は地元で一族団欒を過ごそうという台北市民でごったがえし、廊 下も人で埋まる有り様だ。仕方がなく車両入り口のデッキで立つこと2時間半。中部の都市台中で下車し、バスに乗り換え終点となる山あいの街埔里(ほり)ま で1時間半。ここから更にマイクロバスに乗り換える。

バスは山々を縫うように走る。途中道路沿いにあった温泉の名前が「台湾箱根温泉」だったの には笑ってしまった。その圧倒的優位性は失われつつあるとはいえ、「日本ブランド」は健在であった。1時間ほどかけて目的の山村、霧社(むしゃ)に到着。 四方を山に囲まれた窪地に、峠道に沿って家々が2、30軒ほど肩を寄せ合うように建ち並ぶ。信号 はない。いまこの村にいる日本人、いや外国人観光客は私ひとりだろう。

今から73年前、台湾が日本の植民地支配下にあった1930年の10月27日に、付近に居住する原住民約300人が蜂起、学校児童の運動会会場となっていた霧社公学校や郵便局、各職員宿舎、駐在所を襲撃、焼払い、地域に居住していた日本人227人中134人が殺害された事件である。衝撃を受けた台湾総督府側は警察隊、さらに軍を動員し抵抗を鎮圧、2カ月後原住民は1100名の死者を出し投降した。
「原住民」というのは、明清期に漢民族が入植を開始するはるか以前から台湾島に住み続けているマライ・ポリネシア語族系統の諸民族集団である。現在台湾の総人口2300万人の約2%、45万人ほどを占め、14の民族が当局から認められている。

植民地支配者たる日本は、人口比で圧倒的な少数派である彼ら原住民を、台湾の「未開性」の象徴と位置づけ台湾を際は原住民の風俗を頻繁に活用した。彼らを 一流の「文明人」「帝国臣民」に育成すべく日本語教育を施す一方、「無主の地」を理由とする原住民の生活の場たる山林の接収、更には官憲や日本人入植者に よる蔑視などがあり、そうした施策への不満が最も激しい形で爆発した事件とされている。

いま事件をしのぶものは集落から少し離れた広場 にある石碑のみだ。付近にはこれといって石碑を売りにした観光客向けの商売があるわけでもなく、ひっそりとしている。碑文に刻まれた「抗日英雄」のフレー ズを前に身が固まってしまう。もし彼の霊魂というものがあるとしたら、私などが訪ねて来ることを 決して喜びはしないだろう、というのは分かる。

台湾では霧社事件をテーマにした映画「セデックバレ」が一昨年公開され、大ヒットを記録している(日本では今年5月に公開予定)。日本では台湾=親日とい うイメージ(右翼の陣営に至っては台湾は日本の統治を感謝しているという認識すら一般的だ)があるわけだが、事態は遥かに複雑である。

例えば霧社事件にしても私が見た石碑、これは国民党一党支配の時期に作られたものだが、では彼らを「抗日英雄」として表彰している。つまり「中国」の抗日運動、反日本帝国主義として捉えている。 それがその後社会の民主化、台湾のアイデンティティー重視の中で、もう少し広く「外来の」文明と土着との対立、といった観点での再解釈がなされれるようになり、映画もその線で制作されるなど、台湾の歴史認識そのものが大きな変化の過程にあるのだ。ただし、そのいずれも日本の統治を野放しに肯定するおメデタいものではけっしてないわけだが。 (魚)