複眼時評

岡田暁生 京都大学人文科学研究所准教授「グールドの何が天才なのか」

2012.12.01

最近よく思うのだが、天才的な芸術家というのは、恐らく自ら意識をすることもなく、歴史の中で最も己にふさわしい死期を選ぶ。これ以外に考えられないタイミングで、この世を去る。例えばモーツァルト。彼が35歳で亡くなったのは1791年、フランス革命の2年後である。その音楽は滅びゆく貴族社会の最後の残照であって、あたかも自分の歴史的使命の終わり時を悟っていたかのように、アンシャン・レジームの貴族社会に殉じる形で、モーツァルトは亡くなった。万一彼がナポレオンの時代まで生き続けたとしても、もはや彼に世界の中での居場所はなかっただろう。

「もし彼がもっと長く生きたら」の仮定は、カナダの伝説のピアニスト、グレン・グールドに対しても、ほとんど無効であろう。今年はその生誕80年であり、彼が50歳で亡くなってもう30年もたつわけだが、「老巨匠グールド」などというものは、想像もできない。太って白髪になり、どっしり巨匠然とピアノの前に腰を掛け、まるで神からの信託のように、偉大な権威としてバッハを弾くグールド。そんなものを誰も見たくあるまい。まったくタイプは違うにせよ、80歳のジェームズ・ディーンとか、80歳のマイケル・ジャクソンが考えられないのと同じく、私たちにとってのグールドは永遠の青年だ。

神に祝福された者だけが持つ天衣無縫な無垢。そして努力とか成熟といった時間の中での形成を一切必要としない光輝。グールドの音楽は、モーツァルトと同じく、あらゆる模倣者を近寄らせないオーラがあった。その真似をし、それに追随することなど絶対に不可能であることは、どんな人にも分かる。グールドは何万光年も離れた一等星であり、人を魅惑しつづけるが、決して追随者は出てこない。そして「権威」というものが、彼の後を追う人々の数によって決まるのだとすれば、グールドが権威となることは永遠にない。

色々な意見があろうが、カミングアウトしてコンサートから撤退し、スタジオに引き篭もってレコード録音しかしなくなってからの彼は、必ずしもよくない。時に重量オーバーしてしまったように足取りが鈍くなり、不健全なむくみが音楽にあらわれる。グールドが圧倒的な天才を輝かせていたのは、やはり20代の頃の録音である。あまりにも有名なデビュー作、バッハの『ゴルトベルク変奏曲』、そしてブラームス『間奏曲集』やバッハ『イタリア協奏曲』、あるいはベートーヴェン『ピアノ協奏曲第一番』。その無垢さ、しなやかさ、軽やかさ、一瞬で人を虜にしてしまう無邪気ないたずらっぽさ。技術的にもこれらの録音は、本当に途方もないものだ。大きな音でガンガン弾くといった、人を物量作戦で威圧するような類の技術ではない。その正反対の、繊細の極致のような技術。例えば彼がバッハを弾くと、十本の指から同時に細い糸が紡ぎだされ、それらが目にもとまらぬ速さで、天女の羽衣のような対位法のアラベスクへ織り上げられていく。それはさながら蜘蛛が、次々に糸をはきながら、瞬く間に網模様の巣を作り上げていくのを見るようだ。

よく考えればこれらの録音は、もう半世紀以上も昔の1950/60年代のものである。にもかかわらず、それらは古色蒼然となるどころか、まるで今生まれたばかりのように、瑞々しく鮮烈に響く。なぜ彼の音楽がまったく歳をとらないのか。それはひょっとすると、21世紀的な新しいコミュニケーション感性とでもいうべきものが、既にそこに鮮やかに告知されていたからではないかと、ときどき考える。彼は身体接触を伴う、集団的で「熱い」コミュニケーションが、大嫌いだった。政治集会的なもの、スポーツ観戦的なもの、そしてコンサート・パフォーマンス的なもの、肩を組んで一つのものに熱狂する行為。その暑苦しい粗暴と鈍感に、耐えられなかった。かくしてグールドは、コンサートという伝達形式からカミングアウトし、スタジオに引き篭もった。しかし他者とのコミュニケーション自体を否定したわけではない。彼の最良の録音には、コミュニケーションの波動をミニマルに抑えたところで初めて生まれる、抒情の陶酔がある。ブラームスの『間奏曲』の1曲目など、陶然とするほどロマンティックだ。だがそれは現世的な、あるいは人間的なコミュニケーションと、どこか性格が根本的に違う。まるで密封された部屋に一人でこもって、星の彼方から届く微かな電波でもって宇宙人と交信するような感覚なのである。

とはいえ、私が一番好きなグールドのCDは、実はライブ録音である。彼がモスクワ音楽院で行ったレクチャー・コンサートだ。少し入手しにくいかもしれないが、これは絶対に耳にするべき録音である。ここでグールドは、バッハの長大な『ゴルトベルク変奏曲』からの抜粋を弾いているのだが、驚くべきことに、順番を第三変奏→第一八変奏→第九変奏→第二四変奏→第三〇変奏という具合に、自由に入れ替えている。このあたりの感覚は、まことに「コピー&ペースト的」ないし「ランダム・プレイ的」だ。ところがグールドの手にかかると、この順で並べられた抜粋以上に「真正な」ゴルトベルクなどありえないと思えてくるから不思議である。とりわけ最後の第三〇変奏など、まるで天上から天使たちの優しい歌声が降り注いでくるようだ。すべては絶対的な必然性をもって置かれているかのように響く。本当はそれは原曲をランダムに抜粋して組み替えたものであるにもかかわらず。

いずれにせよ、このライブにおけるグールドは驚くほど楽しそうに弾いていて、特にクライマックスへ向けての躍動感は素晴らしい。決してグールドがインターフェースのコミュニケーションを拒絶していたわけではないこと、状況次第ではそれに無上の喜びを感じていたらしいことが、これを聴くとよく分かる。バーチャル・リアリティーではなく、時間と空間をリアルに共有する素晴らしさを、今さらのように思い出させてくれる、素晴らしい録音である。