文化

〈企画〉ヒッチレース ドライバー体験記

2012.07.01

ヒッチレース、それは吉田寮祭においてもっとも過酷なイベントの一つである。ヒッチレースの出走者達は深夜に車に乗せられて寮を出発し、全国の各地へと運ばれる。神戸、鳥取、岡山……それぞれの場所にランダムで捨てられた出走者は無一文、かつ身分証明書なしで、ヒッチハイクのみにより、京都を目指す。

京都大学新聞社では2008年から今年に至るまでの5年間、毎年必ず一人は編集員をヒッチレースに参加させ続けてきた。もはやヒッチレースは吉田寮祭のみならず、京大新聞の恒例行事と言ってもよいほどである。しかし、この伝統行事を支える重要な裏方、すなわち出走者を捨てるドライバーの役目を果たした編集員は、未だかつていなかった。そこで今回は、自らも昨年ヒッチレースに参加し、富山の国道に捨てられた経験を持つ編集員、47が、今度はドライバーとして参加者を捨ててくるという京大新聞初の試みを行った。(47)



さあ、どこへ捨てようか?

 
深夜0時、友人から関西と四国の地図を借り、準備は整った。今年のヒッチレース参加者は十数名という盛況ぶりであり、当然車一台には収まりきらないため、5、6台ほどの車両が用意されている。それぞれの車がどこへ向かうかについて寮側からの指示など一切なく、ほぼ全てがハンドルを握る者の裁量に委ねられるため、まずは目的地を決めるのがドライバーの最初の仕事である。自分がどの地域に行くかを考える材料にするため、他のドライバー二人と情報交換を行う。ひとりは山口県、もうひとりはなんと福島県に行く予定だと聞き、大いに驚く。昨年、私が富山県に捨てられた時でさえ、北陸方面では史上最難関、エグすぎる、などといわれていたというのに、今年は輪をかけて距離が伸びた。年々着実に長距離化が進む傾向にある現代ヒッチレースにおいて、参加者の負担は一昔前と比べ、飛躍的に増大しているといえる。

特に今年は東方面の福島、西方面の山口とすでに東西共に開拓され尽くしている感があるが、ならば私は距離を伸ばす以外の工夫に楽しみを見出そうと考えた。単に参加者を遠方に捨てるだけがヒッチレースの楽しみではないだろう。



いざ出発!



寮祭の開会宣言が行われ、いよいよ出発の時刻が迫る。出走者は各々みんなの前で意気込みや簡単な抱負などを語った後、くじによっていずれかのドライバーが運転する車に割り当てられる。私の車に乗ることになった3人はいずれもまだ面識のない新入寮生であった。適当に挨拶をすませて車に乗ってもらい、静かに寮を出発する。車内では当初、自己紹介的な意味合いも兼ねて出走者らと簡単な雑談などもしたが、しばらくすると皆、翌朝の戦いに備えて寝てしまっていた。ドライバーと違い、出走者は夜の内に少しでも体力を蓄えておかなければならない。昨年、自分が参加した時のことを思い起こせば、彼らの気持ちは私にも痛いほどよくわかった。

暗闇に包まれた京都南インターから高速道路に入り、目的地へ向けて一気にスピードアップする。途中のサービスエリアで簡単な休憩なども取りつつ、大阪から兵庫、さらには明石海峡大橋へと向かう。淡路島を抜けて徳島に到着したころにはハンドルを握る両手もだいぶ重くなってきていたが、それでもまだ空は明るくならない。その後香川で高速から降りたあたりでようやく陽が昇り始め、いよいよ降ろす場所を本格的に検討する時間帯に入る。

3人いる出走者のうち、じゃんけんで負けたK君を四国八十八ヶ所霊場の一つ、弥谷寺の付近で降ろす。山の中腹で標高もやや高いが、案外市街地も近く、スタート地点としては簡単すぎず難しすぎずといったところだろう。支給されたノートとマジックを持ってさみしそうな表情を浮かべるK君に手を振りながら再び車を発進させ、次なる「置き捨てポイント」を探す。弥谷寺を出て約30分後にT君、1時間後にW君をそれぞれよくわからないへんぴな港で降ろす。二人とも、最初に降ろしたK君と比べるとだいぶ難しい場所からのスタートである。特にW君の降りたポイントは下車時にも周りに人の姿を一切見かけなかったほどの僻地だったため、ここからのヒッチハイクには相当の困難が予想された。皆無事に帰ってきてくれればよいのだが。彼らの無事を祈りつつ私は帰路に着いた。
 

瀬戸or明石、どちらを選ぶ?



ここで先述の「距離を伸ばす以外の工夫」について説明を加えておこう。

香川、すなわち四国に捨てられた彼らが京都に生きて帰るためには、何らかの手段で瀬戸大橋、明石海峡大橋のいずれかを車で通過するしかない(尾道―今治間を結ぶしまなみ海道は遠回りになりすぎるため除外する)。京都までの途中に必ず通らねばならない場所が存在するというのは、言いかえれば目指すべき「中間地点」が明確に定まっているということでもある。自分の進むべき経路がわかりやすくなるという点ではむしろメリットともいえるだろう。

しかしここで浮かび上がってくるのは瀬戸、明石海峡の二つの橋のいずれを渡るべきかという問題だ。彼らが降ろされたのは香川県の北西部であり、瀬戸大橋のある坂出に近い。香川県内に置いてあった観光マップで確認したところ、意外にも坂出―児島(岡山)ルート(瀬戸大橋ルート)を経由した方が京都までの所要時間が短い(ただし、坂出から京都南まで全て高速道路を使用した場合に限る)ことがわかった。しかし、車の交通量、すなわちヒッチハイクのしやすさを考えると、大都市、神戸に向かう鳴門―神戸ルート(明石海峡大橋ルート)の方がやはり有利だろう。距離と交通量、どちらを重視するべきか。この四国ならではのゲーム性を参加者に楽しんでほしいというのが私の意図であった。

私は寮に帰ってから、彼ら3人がどのようなルートで戻ってくるのかを考え、一人楽しんだ。しかしその時、事態は私の意図とは全く別の方向に進んでいたのだった。



帰らざる彼



まずその日の午後3時に早くもT君が寮に帰ってくる。全参加者中一番の早さである。降ろされた港で親切な釣り客に乗せてもらったことがきっかけとなり、その後のヒッチハイクも上手くいったのだという。彼は明石海峡大橋ルートで帰ってきたようであった。続いてW君からも連絡が入る(ヒッチレース参加者は安否確認用に携帯電話を持つことが許可されている)。彼も明石海峡大橋を経由して大阪に入り、乗せてくれたドライバーさんの家に泊めてもらうのだという。

ここまではよかった。しかし、もっとも簡単に帰ってくるだろうと思われたK君だけは、夜になっても帰ってこず、連絡もなかった。どうしたのだろうか。心配になりながらもその日は待ち疲れて寝てしまった。連絡も寄こさずに野宿し、次の日にひょっこり帰ってくる参加者が毎年必ず数人はいる。彼もおおかたその類だろう。そう考えたのだ。

翌朝、少し遅めに起きると寮生が受付で何やら話している。中には笑い転げている者もいた。彼らによると、朝、K君から寮に連絡があり、ヒッチレースをリタイヤする旨を伝えてきたという。そこで私ははじめて知ったのだった。K君が徳島で遭遇した「レンコン畑事件」の一部始終を。
 

レンコン畑でつかまえて



「レンコン畑事件」の大筋はこうだ。

あの日、K君は香川で降ろされた後、他の2人と同様に明石海峡大橋ルートを選択し、ヒッチハイクで鳴門まで到着した。そして橋を渡るために鳴門市内で車を止めようとしていたら、何やらガラの悪い二人組の男が彼のことをずっと睨んでいることに気付いたという。K君は恐くなってヒッチハイクする場所を何度か変えたが、その度に彼らは付きまとい、最終的にはK君のことを走って追いかけてきた。K君は必死に逃げまどい、ついには近くのレンコン畑の沼地に飛び込んで身を隠そうとしたが、レンコン畑は浅く、ろくに身を隠すことなどできはしない。彼は二人組にあえなく見つかり、とうとう捕まった。その二人組は言った。

「こいつはオウム真理教の高橋克也(※)だ!」



指名手配犯と間違えられてしまったK君だが、彼の容貌が高橋克也とは似ても似つかないものだったことが幸いして、警官が来るや否やわずか数秒で容疑は晴れ、彼は自由の身になった。警官は親切にもレンコン畑の沼地に水没した彼の携帯電話を掘り出してくれた。そして、K君が無一文での旅をしていると知ると「これからどうしましょうか」と尋ねた。K君は静かにこう答えたという。「そっとしておいてください」。

その後K君は再びヒッチレースに復帰したが、やはりレンコン畑事件が彼にもたらした精神的ダメージは大きく、その日はずっと車がつかまらなかった。そして野宿をして一夜を明かした翌朝、ついに心が折れ、これは無理だ、ギブアップしよう、となったのだという。翌日、寮から救援の車が出てK君は寮に帰ってきた。

毎年個性的なエピソードに彩られるヒッチレースの歴史の中でも今回のような事件はさすがに前代未聞であり、帰還後に本人が「死ぬかと思った」と漏らしたのも無理のない話である。



四国―本州間の橋を利用した頭脳戦、という私の作戦はやや不発気味であったが、そこはまた来年までに検討を重ねることでより洗練させていこうと思う。

今回連れていったK君、T君、W君からはヒッチレース後もそれぞれの旅の話を聞くことができ、寮祭前と比べ、人間関係の距離も縮まったと感じる。寮生や寮外生も含めた、吉田寮に関わる人間同士の結びつきを強めてくれる「祝祭」の心地よさ、重要さを改めて実感したヒッチレースドライバー体験であった。

用語説明
※高橋克也
一連のオウム真理教事件の被疑者として指名手配され、当時マスコミでも話題となっていた人物。
その後、徳島ではなく東京都の蒲田で逮捕される。