企画

〈企画〉京都一帯 納涼を求めて

2011.08.14

祇園祭巡行も終わり本格的な暑さを迎えつつある。暑さを逃れるために同じ場所で過ごしているのはつまらない。京都一帯で涼める場所を編集員が思い思いに紹介しよう。(編集部)

《本紙に写真掲載》

心霊スポット・五条坂トンネル 幽霊より夜景を求めて

「夏と言えばお化け屋敷」。怖い思いをして冷や汗をかけば、きっと涼しいはずだという。しかし、そんな遊園地とマスメディアの戦略に乗るのは、どうにも癪だ。ここは一つ、本物の幽霊でも拝みに行こうではないか。偽物より本物のほうが、怖いに決まっている。

というわけで、少し調べてみると、京都の心霊スポットの多いこと。古くは平安時代、応仁の乱から戦国時代にかけて、そして幕末。京都には幾人もの怨念が眠っているのである。今回は、その中から京大に比較的近い、五条通りのトンネルを調査した。

1号線を使って東山五条から山科へと抜ける途中にトンネルがあるが、その脇に、歩行者用の小さなトンネルがある。一見何の変哲もないただのトンネルなのだが、実はここ、真上に火葬場があったという。

我々は万全の準備を期して、車で現場に向かった。カメラ、懐中電灯、予備の電池、虫よけスプレー。もし本当に幽霊が現れたなら、何とか写真に収めてやろうと、意気込みもバッチリだ。お守りを忘れているのに気付いたのは、トンネルの入り口に立った時だった。

ええい、こうなったら仕方がない。その時はその時。我々は慎重にトンネル内に一歩踏み込んだ。以外にも、蛍光灯が明々と点いているが、かえってそれが不気味だ。青白い光で、雨水に侵食されたコンクリートを照らしている。真ん中まで行ったところで、ふっ、と真っ暗闇になるという、ホラー映画でお決まりのパターンを想像してしまう。我々は唾を飲み込んで、先に進んだ。強烈なトンネル風が吹く度に、吹き込んだ落ち葉が、カサカサと音を立てながら舞う。まるで足元を、大量の虫か何かが這いまわっているかのようだ。天井からは、ピチョン、ピチョン、と水滴がしたたる。壁にはかつて不良少年たちが書き残したと思われる落書きの数々。彼らは今、どうなったのだろうか。「まさか幽霊に……」などと考えていると、もう出口だ。

結論。幽霊などいなかった。当たり前である。この科学万能の時代に、そんなものが堂々と現れては困る。何が困るといって、幽霊が困る。きっと様々な角度から分析され、解析され、解体され、その秘密を世の中に赤裸々に余すところなくさらすことになるだろう。幽霊は出て来なくて正解なのだ。

結局トンネルもあまり怖くなかったので、涼しさは感じなかった。このままでは引き下がれないので、我々はそのまま、夜景が美しいという将軍塚へと向かった。車から降り、展望台へと向かうと、そこからは京都市内全域を見通すことができた。色とりどりのビー玉が詰まった箱をひっくり返したような光景。まことに美しい。その上涼しい。我々は大満足のうちに調査を終えた。

後日、将軍塚も心霊スポットとして有名なことを知った。(書)

質志鍾乳洞 イデアの納涼・洞窟の比喩

哲人S氏「あれは五条通を延々と西へ向い、京都縦貫自動車道から降りて綾部市への173号線を北上する途中だったと思うのだが、僕は質志(しずし)鍾乳洞を見つけたのだよ。ずっと同じような景色が続き特にめぼしい観光名所もないように思っていたから喜びもひとしおで、何かに導かれるようにして車を止めたんだ。どうやら質志鍾乳洞公園はキャンプもできるようで、テントを立てる場所や釣り堀が設置されていたんだよ。洞内への入口から垂直なはしごを降りていたんだが、地上から足を踏み入れた瞬間、冷気が体を包み込む。地面は露に濡れていて、初夏の蒸し暑さを忘れてしまったよ。ところで京都府ホームページによればその総延長は125メートルで最深部25メートル、京都府唯一の鍾乳洞ということらしい。天井の低い部分が続いたと思うと、いきなり10メートルはあろうかという垂直な竪穴に出くわすことになるんだ。そこから見下ろす鍾乳洞は圧巻の景色に僕にはおもわれた。素人である僕の目には鍾乳石はあまり見当たらなかったけれども、鍾乳洞内にいることで何か神秘的な涼しさを感じることができたよ。きみも入ってみたまえ」

「ええ」とG氏。

「ではつぎに」とぼくは言った、「きみの手足と首を縛り上げて、きみの背後から差し込む光を反射するあの壁を見ていてもらいたい」

「ゼウスに誓って」とG氏は言った、「見ていますとも」

「ではさらに、僕は石や木や器物を使って芝居を始める。もし一生涯、頭を動かすことができないように強制されているとしたら、きみは影以外のものを見ることはない。あらゆる面において、ただもっぱらさまざまの影だけを、真実のものと認めることになる。もし縛りが解かれ外の日の光、つまりイデアの存在を示すものを見たとしても、まぶしくて見定めることはできないだろう。きみは困惑して、以前見ていたもの(影)のほうが真実性を示していると、そう考えるのではないか」

「はい、そのように思えます」

「しかし、きみは他の人々と違って優れた人なのだから、勇気と知を愛する心をもって、外へ出てはどうだろうか」

「外より涼しいので、ずっとここにいます」(鴨)

下鴨神社 お1人様の散歩

神社や寺にはなんだか涼しげなイメージがある。霊的なものを連想させたり、生い茂る木々が敷地内に多くの影を生み出したりしているからかもしれない。部屋でダラダラとクーラーの涼しさに甘んじて過ごすよりはと思い、下鴨神社に散歩に出かけた。

家から歩いて5分。夜中のためか、車も人もほとんど通らない。着いた時は正直怖かった。入口周辺には人が全くおらず、薄暗い。糺の森は砂利が敷き詰められており、歩く度にジャリジャリ音が出て心地良い。歩いていると茂みの中で何かがガサガサ動き、ビクッとなってしまう。暑さも忘れてしまい、これはこれで納涼にはなるな、と思いつつ、さらに進む。

糺の森を抜けると正面に大きな鳥居があり、その傍には御神水があった。これはありがたいと思い、顔と手を洗い涼を得た。鳥居をくぐると鮮やかな楼門が姿を見せる。光によって照らされた楼門は鮮やかさが一層際立っており、美しいという常套句以外思いつかないほど圧倒された。これはいいものを見た、と思って立ち去ろうとした時、ヤツらは現れた。

ヤツらは私の横で楼門を眺めながら、「キャー!綺麗!!」だとか「君の方が綺麗だよ」的なナウい会話をしていた(*会話内容はイメージです)。ヤツらは異性の二人組で、世に言う「アベック」というものだろう。私はヤツらを無視し、その場を去ろうとした。だが、ヤツらはそれをよしとはしなかった。去ろうとしていた私にあろうことか「あの、写真撮ってもらっていいですか?」などと言ってきたのだ。内心焦りつつ、快く了解した。カメラのレンズを覗いた先では男女が仲睦まじく抱き合っており、私は嫉妬の炎に駆られたと同時に、ここで得た美に対する感慨が一気に冷めてしまった。もう嫌だ、と思いつつ、シャッターを切る。カメラを返し、私は走り出した。

体を動かすのは久しぶりで、いい運動になった。走るのを止めると汗だくになってしまったが、糺の森を吹き抜ける風が心地いいことに気付いた。ああ、こんなに心地いい風を浴びるのはいつぶりだろう、と考えていたが、先ほどのアベックを思い出してしまい、私は寂しくなった。何だか涼しい今日この頃。(空)

京都国際マンガミュージアム という名の漫画喫茶。

「夏休みだというのに、ゴロゴロとマンガばかり読んであんたは……」と、自室に入ってきた母親にたしなめられる情景。それこそ戯画的でいかにも紋切り型なワンシーンではあるが、妙に想像に容易く、現実感がこもっている。

「勉学に忙しいはずの大学生が、まあいいご身分ですな」という批判を恐れず敢えて言えば、この「ゴロゴロとマンガばかり」の一日が妙に恋しくなる瞬間がある。そういう時は、専門書でも、小説でも、新書でもなく、「マンガ」でなければならないのである。しかし、一方で良心のようなものもある。こんな過ごし方をしていては、地元のおっかさんに合わせる顔がない。

そういうアンビバレンスに陥っていた時に、京都国際マンガミュージアムなる施設があることを思い出す。「マンガ」というエンターテイメントと「ミュージアム」というアカデミズムの融合。気付けば、自転車を走らせていた――烏丸御池にあるというその建物を目指して。

外観。小学校の跡地に築かれた「マンガミュージアム」においてまず目を引くのは、芝生で覆われた広大なグラウンドである。照りつける日差しのもと、芝生に寝そべりながら思い思いマンガの世界に没入する人々の姿がそこにはある。彼らはマンガの海を背景に、芝生というビーチに寝そべって身体を焼いている―いや、あまり気の利いた喩えではないな。

入場料を支払い、建物の中へ入る(大学生に学割が適用されないのは、「マンガを読んでいる暇などあるのか?」という設立者のメッセージなのだろうか)。まず出迎えてくれるのは、世界各国に輸出された我が国の「manga」の山である。試しにハングルに訳された某少年漫画を手にとって、「ふむ」と唸ってみる。もちろん、私はハングルが全く読めない。

蔵書量は、巷の漫画喫茶と較べると大したものとはいえない。往年の名作こそ揃ってはいるものの、2005年以降に描かれたマンガは殆ど並んでいない。しかしその欠点を補って余りあるのが、マンガにまつわるいくつもの展示である。中でも、巨大なホールに設けられたマンガの歴史を辿る展示はまさに圧巻である。マンガの受容史、週刊誌の壁、草創期のアニメ―。そう、ここはマンガを読んで楽しむというより、知って楽しむ場所なのである。

さあ、存分に涼んだ。ゴロゴロした。マンガも読んだ。妙な達成感に浸りながら、日差しの照りつける京都の道を私は自転車で引き返すのであった。(薮)

クラークハウス 勉強・読書の合間に…

暑い。7月のある昼下がり、筆者は自室で悶え苦しんでいた。熱気の滞留したこの六畳間、食欲など起こるはずもない。2日前、酷使の末に素麺選手に戦力外通告を言い渡したばかり。たまにはしっかりしたものを食べねばならぬ。という訳で、冷房の効いた店に行けば食欲が起こると考えた。

時計台から東一条通を西に歩くと、「クラークハウス」と書かれた緑色の軒が見えてくる。「いらっしゃいませ」。ドアを開けるとそこには静かな空間が広がっていた。何となく目に留まった「アメリ」のポスター下に座ると、マスターがメニューを持ってきてくれた。どれを頼むか迷う。カフェとは言いながら、なかなかランチが充実している。ポークカツか、コロッケか…色々考えた末、肉じゃがを注文してみる。

三島由紀夫を10数頁ほど読み進めた頃、肉じゃがとのご対面だ。「でかい」。北海道産のこのジャガイモ、とにかく大きいのが売りだ。箸でほぐして口に運ぶと、どこか懐かしい味が口の中に広がる。添えられたサラダと小鉢(この日はヒジキの煮物だった)、味噌汁も互いが主張し過ぎることもなく、見事なハーモニーを奏でている。一人暮らしで栄養が偏りがちな大学生にとっては嬉しいところだ。朝7時半から開いていることもあり、授業の前にモーニングを食べに来る学生の姿も。

食欲を持て余しているのでケーキを注文することにした。この日選んだのはサクランボのタルトだ。甘酸っぱいサクランボとサクサクした生地が心地良い。時間帯によっては既に売り切れている場合があるのでお早めに。

本を読み終えた頃には陽もだいぶ傾いていた。涼しくなってきたのでそろそろ帰ろう。ちなみに、夜は8時半まで営業している。(如)