〈寄稿〉元編集員がいく 東日本大震災被災地探訪
2011.06.19
この文章は読む必要はない。「まず見よ」というメッセージが被災地にはあると認識してもらえればよい。
来て、見て、負けたという経験を私はだれかにしてほしい。被災地に行けば必ずそういう経験をする。保証する。あの光景を見た人間は現在の自分の立場を考えざるをえなくなる。あの光景はこれからの世代の根にならねばならないのではないか?
一般人はいない、救出劇はない、政治もない、経済もない。
無垢の被災地を見る。見る。まず若い人には見てほしい。何も得ることができないという経験をしてほしい。真空の問題意識を得てほしい。
そういう経験をしたい人の一助になればよいと思い、この文章を書く。(政)
《本紙に写真掲載》
・岡田
仙台市中心部から30分ほどのところにある宮城野区岡田。水田地帯を抜けて蒲生海岸の方へ向かう。
津波の泥が広い範囲で褐色のかたまりになった。壊れた自動車となにかの痕跡が2か月近く経っても残っている。水田は塩を含んだ泥で埋まり、数年間耕作は無理である。
住宅の庭に小さな子供がすわっている。ペットボトルでつくられた人形が子供の服をまとっていた。別の家では熊のぬいぐるみであった。
・山元町
岩沼市の南。県境に位置する山元町は海岸沿いに砂浜が広がる明るい街であった。友人の家に昔は遊びに行ったものだ。
記憶をたどり友人の家を探した。海沿いの住宅地一面はきれいな砂浜になっている。家はない。根こそぎ引き抜かれている。土台は砂に埋もれていた。浴場らしき跡がある。友人の家だと決めつけた。
停車し塩害で枯れ果てた松林を越えて決壊した防波堤まで歩く。だが、砂に足が沈んで、なかなか歩けない。砂浜と海底に広がっていた砂が津波によってコンクリートの壁を破壊する力を持ち、陸地になだれ込んだ。そのため、もともとの砂浜がなくなっていた。
そのまま、福島県に入ろうとしたが海岸線沿いの国道38号線は県境で途絶えていた。内陸の国道6号線まで迂回することになる。
・福島県
6号線を南相馬市に入る。いつの間にか福島第一原発から30kmの地域にいる。20km圏内との境界には警察官が検問を行っている。近くにはコンビニが開いており他愛のない世間話を店員がしている。防護服の自衛隊員が境界を通過していく。
内陸へと移動し、飯舘村、葛尾村に向かう。葛尾村は役場ごと別の自治体へと引越しをした。ひとはいない。にわとりが放し飼いになっている。「ボランティアの方、餌をあげてください」という立札がある。
・塩釜市
塩釜市は魚市場として栄えていた。再開した魚市場に行く。まぐろの解体ショーをしている。このまぐろは三陸産なのかと聞くと「奄美の養殖だ」と言われる。まだ漁は再開していない。
塩釜から松島へ行くと、観光客の車で渋滞していた。松島は多数の離島が天然の防波堤になり被害はほとんどなかった。観光客が戻ってきている。
・東松島市
松島から奥松島の方へ行く。奥松島は外海に面しており松島から車で5分くらいの場所にもかかわらず、津波の被害はいつもの見慣れた光景だ。
東松島市もありふれた光景だ。水田が泥に埋もれ、根こそぎ引き抜かれた松が道路脇に倒れたままになっている。
さらに東へ向かう。
・石巻市
石巻市は漁港と工業港を備えた港町である。魚市場や工場が津波に対するクッションになって住宅地は全滅を免れている。
満潮時には街が冠水する。もともと海抜ゼロ地域であり、地震で地盤が陥没してしまったからである。4時半ごろになると、潮位が変化した海からも、さらに道路に空いたわずかな穴からも、海水がわき出てくる。乗っていた車のタイヤくらいの高さまで水位が上がった。あやうく流されてしまうところだった。
町全体が臭い。自動車の中でも匂う。塩の匂いと冷凍倉庫の中で腐った魚の匂いとし尿の匂いなどが混ざり合った悪臭である。マスクがないと吐き気がしてしまう。地元の漁師が「社会見学?」と気さくに声をかけてくる。「今日はまだましな方。いつもはもっと臭い。魚臭いのにはなれている自分でも耐えられない」という。
魚市場を暗緑色のヘドロがべったり覆っていた。ヘドロを踏むと靴がべとつき、落ちない。靴が重い。
遺体をショベルカーで土葬していた。盛り土ひとつひとつに花が供えてある。
冠水した道路を避けるように、一人の少女が線路の上を歩いている。
・女川町
宮城県の東端に着く。女川町は山を背にしている。町は平野部分と山の斜面とに分かれている。平野のかなり奥まで津波が侵入した。
とにかく瓦礫の山である。いつ崩れるのか分からない。海に流される瓦礫よりも陸に残ったもののほうが圧倒的に多いのである。
複数階建ての建物を見上げる。屋上に家や車、小型船がのっかっている。かろうじて引っかかっていると言ったほうが正確だ。落ちないのか、頭上からの圧迫感がある。
高台にある町立病院から街を望む。駐車場には朽ち果てた自動車がある。津波がここまで運んできた。おそらく10m近くの波が来たのだろう。
山の斜面の方を眺める。ぽつぽつと明かりがついている。
女川を出たのは、日が暮れきった時だった。
・仙台市
仙台で(天)と地元の焼肉屋に入る。食べ・飲み放題はやっていないし、折からの食中毒騒動でユッケは売っていない。だが、大勢の大学生や家族連れが騒ぎに騒いでいる。しばらく順番待ちし、ようやく焼肉にありついた。
次の日、(天)は岩沼市にボランティア活動に行った。
メディアでみてきたもの、現地で見たもの、現地で切り取った写真、現地で記憶したもの、その記憶から想起したもの、今私が記憶から文章で書いたもの、そのすべてが違和感だ。違和感をもたらす経験の基準がなにかわからない。
違和感しかない。
読んでくれた方、本当にありがとう。
とにかく被災者の気持ちに配慮する。
写真撮影のとき、被災者を撮る場合は必ず聞くこと。
公共交通機関などが望ましい。バイクや自転車がよい。
休日よりは平日がよい。
ボランティアとは違い保険はない。すべて自己責任。
・必要なもの
粉じん対策(眼鏡、マスク)
長靴
雨合羽(降雨時、傘では身動きがとりづらい)
来て、見て、負けたという経験を私はだれかにしてほしい。被災地に行けば必ずそういう経験をする。保証する。あの光景を見た人間は現在の自分の立場を考えざるをえなくなる。あの光景はこれからの世代の根にならねばならないのではないか?
一般人はいない、救出劇はない、政治もない、経済もない。
無垢の被災地を見る。見る。まず若い人には見てほしい。何も得ることができないという経験をしてほしい。真空の問題意識を得てほしい。
そういう経験をしたい人の一助になればよいと思い、この文章を書く。(政)
《本紙に写真掲載》
元編集員、被災地へいく
5月3日と4日。元編集員で宮城県仙台市に住む私を金沢市在住の元編集員(天)が訪ねてきた。ともに東日本大震災被災地を見るためだ。移動手段はレンタカー。総移動距離は400kmを越えた。(1)5月3日
仙台市から南の方へ行く。岡田、岩沼、山元と海岸線をたどり、福島に入る。福島第一原発を中心とする20㎞の円周に沿って、南相馬市、飯舘村、葛尾村を走り、仙台市に戻った。・岡田
仙台市中心部から30分ほどのところにある宮城野区岡田。水田地帯を抜けて蒲生海岸の方へ向かう。
津波の泥が広い範囲で褐色のかたまりになった。壊れた自動車となにかの痕跡が2か月近く経っても残っている。水田は塩を含んだ泥で埋まり、数年間耕作は無理である。
住宅の庭に小さな子供がすわっている。ペットボトルでつくられた人形が子供の服をまとっていた。別の家では熊のぬいぐるみであった。
・山元町
岩沼市の南。県境に位置する山元町は海岸沿いに砂浜が広がる明るい街であった。友人の家に昔は遊びに行ったものだ。
記憶をたどり友人の家を探した。海沿いの住宅地一面はきれいな砂浜になっている。家はない。根こそぎ引き抜かれている。土台は砂に埋もれていた。浴場らしき跡がある。友人の家だと決めつけた。
停車し塩害で枯れ果てた松林を越えて決壊した防波堤まで歩く。だが、砂に足が沈んで、なかなか歩けない。砂浜と海底に広がっていた砂が津波によってコンクリートの壁を破壊する力を持ち、陸地になだれ込んだ。そのため、もともとの砂浜がなくなっていた。
そのまま、福島県に入ろうとしたが海岸線沿いの国道38号線は県境で途絶えていた。内陸の国道6号線まで迂回することになる。
・福島県
6号線を南相馬市に入る。いつの間にか福島第一原発から30kmの地域にいる。20km圏内との境界には警察官が検問を行っている。近くにはコンビニが開いており他愛のない世間話を店員がしている。防護服の自衛隊員が境界を通過していく。
内陸へと移動し、飯舘村、葛尾村に向かう。葛尾村は役場ごと別の自治体へと引越しをした。ひとはいない。にわとりが放し飼いになっている。「ボランティアの方、餌をあげてください」という立札がある。
(2)5月4日
仙台以東へと向かう。塩釜市、松島市、東松島市、石巻市、そして女川町へと目指す。・塩釜市
塩釜市は魚市場として栄えていた。再開した魚市場に行く。まぐろの解体ショーをしている。このまぐろは三陸産なのかと聞くと「奄美の養殖だ」と言われる。まだ漁は再開していない。
塩釜から松島へ行くと、観光客の車で渋滞していた。松島は多数の離島が天然の防波堤になり被害はほとんどなかった。観光客が戻ってきている。
・東松島市
松島から奥松島の方へ行く。奥松島は外海に面しており松島から車で5分くらいの場所にもかかわらず、津波の被害はいつもの見慣れた光景だ。
東松島市もありふれた光景だ。水田が泥に埋もれ、根こそぎ引き抜かれた松が道路脇に倒れたままになっている。
さらに東へ向かう。
・石巻市
石巻市は漁港と工業港を備えた港町である。魚市場や工場が津波に対するクッションになって住宅地は全滅を免れている。
満潮時には街が冠水する。もともと海抜ゼロ地域であり、地震で地盤が陥没してしまったからである。4時半ごろになると、潮位が変化した海からも、さらに道路に空いたわずかな穴からも、海水がわき出てくる。乗っていた車のタイヤくらいの高さまで水位が上がった。あやうく流されてしまうところだった。
町全体が臭い。自動車の中でも匂う。塩の匂いと冷凍倉庫の中で腐った魚の匂いとし尿の匂いなどが混ざり合った悪臭である。マスクがないと吐き気がしてしまう。地元の漁師が「社会見学?」と気さくに声をかけてくる。「今日はまだましな方。いつもはもっと臭い。魚臭いのにはなれている自分でも耐えられない」という。
魚市場を暗緑色のヘドロがべったり覆っていた。ヘドロを踏むと靴がべとつき、落ちない。靴が重い。
遺体をショベルカーで土葬していた。盛り土ひとつひとつに花が供えてある。
冠水した道路を避けるように、一人の少女が線路の上を歩いている。
・女川町
宮城県の東端に着く。女川町は山を背にしている。町は平野部分と山の斜面とに分かれている。平野のかなり奥まで津波が侵入した。
とにかく瓦礫の山である。いつ崩れるのか分からない。海に流される瓦礫よりも陸に残ったもののほうが圧倒的に多いのである。
複数階建ての建物を見上げる。屋上に家や車、小型船がのっかっている。かろうじて引っかかっていると言ったほうが正確だ。落ちないのか、頭上からの圧迫感がある。
高台にある町立病院から街を望む。駐車場には朽ち果てた自動車がある。津波がここまで運んできた。おそらく10m近くの波が来たのだろう。
山の斜面の方を眺める。ぽつぽつと明かりがついている。
女川を出たのは、日が暮れきった時だった。
・仙台市
仙台で(天)と地元の焼肉屋に入る。食べ・飲み放題はやっていないし、折からの食中毒騒動でユッケは売っていない。だが、大勢の大学生や家族連れが騒ぎに騒いでいる。しばらく順番待ちし、ようやく焼肉にありついた。
次の日、(天)は岩沼市にボランティア活動に行った。
後記
この文章は破棄したい。写真も破棄したい。メディアでみてきたもの、現地で見たもの、現地で切り取った写真、現地で記憶したもの、その記憶から想起したもの、今私が記憶から文章で書いたもの、そのすべてが違和感だ。違和感をもたらす経験の基準がなにかわからない。
違和感しかない。
読んでくれた方、本当にありがとう。
被災地見学のためのガイドライン
・気をつけることとにかく被災者の気持ちに配慮する。
写真撮影のとき、被災者を撮る場合は必ず聞くこと。
公共交通機関などが望ましい。バイクや自転車がよい。
休日よりは平日がよい。
ボランティアとは違い保険はない。すべて自己責任。
・必要なもの
粉じん対策(眼鏡、マスク)
長靴
雨合羽(降雨時、傘では身動きがとりづらい)