複眼時評

小関隆 人文科学研究所教授「にわか勉強」

2026.03.16

この3月をもって23年間にわたる人文研勤務を終える。三多摩に生まれ育ち、自宅から30分圏内の大学にしか通ったことも勤めたこともなかった私にとって、京都(京大)での生活は良くも悪くも新鮮であった。おもしろい人生の展開だったと思っている。

共同研究の老舗を自負する人文研で私はいくつものプロジェクトに参加してきたが、自分が主導したプロジェクトはなにかといえば、やはり2つの世界大戦の共同研究ということになるだろう。第一次大戦班が発足したのが2007年だから、25年に第二次大戦班が終了するまで、随分と長いこと世界大戦と付き合ったのである。きついこと、危険なことをできるだけ回避して65歳まで生き延びた私が、きついことと危険なことに充ち充ちた戦争をテーマにするとは、皮肉なものである。動機は複数あったが、今から振り返ると、私を世界大戦へと惹きつける力がどこかで作動していたように思えてならない。この「力」を明快に言い当てるのは難しく、ひとまず、戦争が当たり前の政策オプションのように語られる昨今の風潮への違和感とでも表現しておこう。戦争に向かっていく時ってこういうものなのだろうな、という嫌な感じがどうにも拭いきれないのだ。杞憂であってほしいが。

杞憂であれなんであれ、自分の関心に合致する共同研究だけをして人文研勤めを全うできるなら、こんなに結構なことはなかろう。しかし残念ながら、世の中はそれほど甘くない。人文研にいれば、自分の専門(イギリス・アイルランド近現代史)からかけ離れたテーマであろうと、プロジェクトへの参加を要請されることはいくらもあり、実際、私はおよそ畑違いの共同研究の末席にも連なってきた。人文研在籍中で最後になる報告では(話題提供に毛が生えたようなものだが)、なぜか日本のモーター・ジャーナリズムについて語った。

不案内な領域に首を突っ込んでにわか勉強に励むのも、それはそれでおもしろいのだが、最後に控えている難関はこれまで以上に手強い。退職記念講演会である。私と同じく今年度末で退職する稲葉穣さんの専門はアフガニスタンの古代・中世史、こちらの専門とは時間的にも地理的にも恐ろしく隔たっている。畑違いどころではない。しかし、2本の互いにかすりもしない講演を並べて済ますのではいかにも芸がない、共同研究に長年携わってきた者としてなんとか接点を探るくらいのことはしたい、などと苦慮した末に、「『世界の屋根』を歩いたイギリス人たち」という共通テーマを捻りだした。稲葉さんには10世紀以上(!)離れた18世紀まで出向いてきてもらい、私はヒマラヤまで6千キロ移動するのだから、生半可な歩み寄りではない。

というわけで、1920年代のイギリスのエヴェレスト登攀プロジェクトについて話すことになった。もちろん、得手とするテーマではない。これまでの人生の最高到達高度は2500㍍弱、父親に穂高の稜線まで連れていかれた元気な小学生は、半世紀以上の時を経て、今や大文字に登ることさえ拒否する人間になり果てている。8千㍍超の世界は想像力のはるか彼方にある。死を覚悟してまで登頂に挑む登山家の気持ちが理解できないばかりか、土地勘を欠くチベットの地名を覚えるのにも苦労している。こんなことで、稲葉さんの講演と噛み合うのだろうか……。

しかし、大いなる不安を抱えつつ、難関こそ勉強のチャンスであることにあらためて思い至ってもいる。多少ともアフガニスタンに接近しようと、英露間のグレート・ゲームについて調べてみると、英領インドを脅かすロシアの南下を阻止するためにイギリスが精力的に遂行したヒマラヤの地形・地質や気象、民族分布や政治状況の調査・測量・探検がエヴェレスト遠征の不可欠の前提だったことがわかってくる。そもそも、エヴェレスト遠征をとりしきったエヴェレスト委員会の議長フランシス・ヤングハズバンドは、「ロシアの影響力排除」を名目とする1903~04年のチベットへの軍事侵攻(いわばグレート・ゲームの最終局面)を指揮し、数千人のチベット人を殺した張本人なのである。1919年のアフガニスタンの英領インドへの侵攻はグレート・ゲームの余燼といえるし、1920年までイギリスは対ソ干渉戦争に兵を送ってもいる。エヴェレスト遠征をグレート・ゲームのコンテクストに据えることの有効性、考えてみれば当たり前のことだ。しかし、グレート・ゲームは英露協商(1907年)で終息したと決め込んでいた私にはエヴェレストと結びつける発想が欠落していた。今頃になって気づいたとはなんとも頼りない話だが、おかげで私の視野は確実に広がった。ありがたい。退職直前までにわか勉強を強いてくれた人文研には感謝するばかり、こんな環境が今後も保たれることを願いたい。

こせき・たかし 人文科学研究所教授。専門はイギリス・アイルランド近現代史