川島隆 文学研究科教授「ホロコーストとガザを見る視点」
2026.01.16
今の日本で、ナチスのユダヤ人迫害について知らない人はいない。そう言っても過言ではないでしょう。強制収容所の体験にもとづく思索をつづった『夜と霧』や、少女の隠れ家生活を描いた『アンネの日記』は世代を超えたベストセラーです。「命のビザ」でユダヤ人の命を救ったとされる杉原千畝の伝記は、近年、子ども向け読み物の定番になりました。『あのころはフリードリヒがいた』や『朗読者』といった小説も人気ですし、『シンドラーのリスト』や『戦場のピアニスト』などの映画を見たことがある人は多いはず。関連するドキュメンタリー番組や新作映画が毎年続々と封切られます。同じ時代の日本の指導者が誰だったか知らない人は普通にいるでしょうが、ヒトラーの顔と名前が一致しない人はめったにいなさそうです。
私が京都大学に入った1995年は、クロード・ランズマン監督の映画『ショアー』が日本に来た年でした。この9時間半のドキュメンタリーは、主に大学での上映会を通じて少しずつ知名度を獲得し、やがて大きな反響を呼ぶことになったのですが、当時は、何かただならぬことが進行しているという感覚がありました。私が特に衝撃を受けたのは、上映会のパンフレットに記されたランズマン監督の言葉です。監督は、もし仮にガス室のありさまを記録したフィルムが発見されたなら、「私はそれを上映しないばかりか、破壊することだろう」と述べたのです。この言葉は、「アウシュヴィッツ後に詩を書くのは野蛮である」という哲学者アドルノの格言とともに、ナチスのユダヤ人虐殺はあまりにも異常で、理解も表象もできない唯一無二のものだとの認識を私の中に刻みました(この映画はまた、ナチスのユダヤ人迫害を指す用語としての「ホロコースト」の妥当性への疑義を広めもしましたが、以下では知名度を鑑みて便宜的にこの言葉を使います)。
その後、ドイツ文学の研究者になった私は、ユダヤ人作家であるフランツ・カフカを研究対象に選んだのですが、やがて、彼が生きた時代にどのような反ユダヤ主義の言説が蔓延し、文学にどのような痕跡を残したのかに関心を抱くようになりました。ホロコーストそのものは自分の手にあまるテーマのような気がしていましたが、ホロコーストの到来を可能にした社会的前提の一端を文学研究の手法で明らかにすることに意義があるはずだと感じていました。
それ以外にも、ユダヤ人や反ユダヤ主義が作中に登場する文学を授業で扱うことはよくありました。ドイツ文学史上には、啓蒙主義作家レッシングの戯曲『賢者ナータン』のように正面きってユダヤ人差別を批判する作品もあれば、逆に『グリム童話』のように露骨な差別的ユダヤ人像を含むものもあります。そしてホロコースト後のドイツ文学には、ナチスの罪を告発する一方で、「普通のドイツ人」の罪を軽く見せようとする例が少なくありません。先に触れた『あのころはフリードリヒがいた』や『朗読者』にも、実はそんな傾向が色濃いです。そういった光と影の歴史を詳らかにしつつ、今日の目から見て違和感のある文学作品を100%今日の価値観から断罪するのではなく、かといって安易に免罪したり隠蔽したりするのでもなく、虚心坦懐に読むことが、ドイツ文学研究者の責任でもあると思っていました。
ところが、2023年に新たにパレスチナ=イスラエル戦争が始まって以来、私は、自分がこれまでやってきたことは正しかったのかと自問せざるを得ませんでした。10月7日のハマスの奇襲攻撃によって始まったこの戦争で、圧倒的な軍事力をもつイスラエル軍の攻撃で何万人ものパレスチナ人が犠牲になり、閉鎖されたガザ地区で飢餓が深刻化するなか、多くのドイツ語圏の知識人がイスラエル擁護の論陣を張り、そこでは、ホロコーストの被害者であるユダヤ人が作った国家イスラエルを批判することは許されない、といった論調が支配的だったのです。つまり、私たちがホロコーストを唯一無二の暴力としてあまりにも絶対化しすぎたせいで、他の暴力を批判するまなざしが遮断されているのではないか。そう考えるしかなかったのです。
その後、ドイツ語圏の大学人とこの問題について少しずつ話をするなかで、そもそも見ている世界が違うのだ、という点もまた見えてきました。たとえば関連するドイツの研究書をひもとけば、ガザの現状を述べた一つの段落の中で、1200名にのぼるユダヤ人の兵士と民間人がハマスの「テロリスト」によって残虐に「殺害され、強姦され、誘拐された」経緯が10行以上を使って詳細に述べられたあとで、イスラエルの反攻によって数万のパレスチナ人が「死んだ」と簡潔に2行ほどで書かれている。――あたかも自然現象で犠牲者が出たかのような言葉づかいで。そんな言葉づかいの積み重ねが世界観を作り、世界観が相互理解を阻む壁を作るのです。
この状況下で文学研究者にできることは多くないでしょう。ただ、言葉でできた壁ならば、言葉で乗り越えることもできるかもしれません。さしあたりはその可能性を信じつつ、一つの暴力を批判する言葉が必ずしも別の暴力を肯定することにつながるわけではない、という実例を増やしていくしかないのかなと思っています。
かわしま・たかし 文学研究科教授。専門はドイツ文学、メディア論、ジェンダー論
私が京都大学に入った1995年は、クロード・ランズマン監督の映画『ショアー』が日本に来た年でした。この9時間半のドキュメンタリーは、主に大学での上映会を通じて少しずつ知名度を獲得し、やがて大きな反響を呼ぶことになったのですが、当時は、何かただならぬことが進行しているという感覚がありました。私が特に衝撃を受けたのは、上映会のパンフレットに記されたランズマン監督の言葉です。監督は、もし仮にガス室のありさまを記録したフィルムが発見されたなら、「私はそれを上映しないばかりか、破壊することだろう」と述べたのです。この言葉は、「アウシュヴィッツ後に詩を書くのは野蛮である」という哲学者アドルノの格言とともに、ナチスのユダヤ人虐殺はあまりにも異常で、理解も表象もできない唯一無二のものだとの認識を私の中に刻みました(この映画はまた、ナチスのユダヤ人迫害を指す用語としての「ホロコースト」の妥当性への疑義を広めもしましたが、以下では知名度を鑑みて便宜的にこの言葉を使います)。
その後、ドイツ文学の研究者になった私は、ユダヤ人作家であるフランツ・カフカを研究対象に選んだのですが、やがて、彼が生きた時代にどのような反ユダヤ主義の言説が蔓延し、文学にどのような痕跡を残したのかに関心を抱くようになりました。ホロコーストそのものは自分の手にあまるテーマのような気がしていましたが、ホロコーストの到来を可能にした社会的前提の一端を文学研究の手法で明らかにすることに意義があるはずだと感じていました。
それ以外にも、ユダヤ人や反ユダヤ主義が作中に登場する文学を授業で扱うことはよくありました。ドイツ文学史上には、啓蒙主義作家レッシングの戯曲『賢者ナータン』のように正面きってユダヤ人差別を批判する作品もあれば、逆に『グリム童話』のように露骨な差別的ユダヤ人像を含むものもあります。そしてホロコースト後のドイツ文学には、ナチスの罪を告発する一方で、「普通のドイツ人」の罪を軽く見せようとする例が少なくありません。先に触れた『あのころはフリードリヒがいた』や『朗読者』にも、実はそんな傾向が色濃いです。そういった光と影の歴史を詳らかにしつつ、今日の目から見て違和感のある文学作品を100%今日の価値観から断罪するのではなく、かといって安易に免罪したり隠蔽したりするのでもなく、虚心坦懐に読むことが、ドイツ文学研究者の責任でもあると思っていました。
ところが、2023年に新たにパレスチナ=イスラエル戦争が始まって以来、私は、自分がこれまでやってきたことは正しかったのかと自問せざるを得ませんでした。10月7日のハマスの奇襲攻撃によって始まったこの戦争で、圧倒的な軍事力をもつイスラエル軍の攻撃で何万人ものパレスチナ人が犠牲になり、閉鎖されたガザ地区で飢餓が深刻化するなか、多くのドイツ語圏の知識人がイスラエル擁護の論陣を張り、そこでは、ホロコーストの被害者であるユダヤ人が作った国家イスラエルを批判することは許されない、といった論調が支配的だったのです。つまり、私たちがホロコーストを唯一無二の暴力としてあまりにも絶対化しすぎたせいで、他の暴力を批判するまなざしが遮断されているのではないか。そう考えるしかなかったのです。
その後、ドイツ語圏の大学人とこの問題について少しずつ話をするなかで、そもそも見ている世界が違うのだ、という点もまた見えてきました。たとえば関連するドイツの研究書をひもとけば、ガザの現状を述べた一つの段落の中で、1200名にのぼるユダヤ人の兵士と民間人がハマスの「テロリスト」によって残虐に「殺害され、強姦され、誘拐された」経緯が10行以上を使って詳細に述べられたあとで、イスラエルの反攻によって数万のパレスチナ人が「死んだ」と簡潔に2行ほどで書かれている。――あたかも自然現象で犠牲者が出たかのような言葉づかいで。そんな言葉づかいの積み重ねが世界観を作り、世界観が相互理解を阻む壁を作るのです。
この状況下で文学研究者にできることは多くないでしょう。ただ、言葉でできた壁ならば、言葉で乗り越えることもできるかもしれません。さしあたりはその可能性を信じつつ、一つの暴力を批判する言葉が必ずしも別の暴力を肯定することにつながるわけではない、という実例を増やしていくしかないのかなと思っています。
かわしま・たかし 文学研究科教授。専門はドイツ文学、メディア論、ジェンダー論
