企画

実験企画 このすばらしい文化面にゲーム評を!

2025.12.16

「載せたら最後、日本全土がハルマゲドン。」

京大新聞の文化面には書評や映画評、マンガ評が掲載されているが、ゲーム評だってあってよいのでは? そんな思いつきから生まれた本企画は、インタビューと実際のゲーム評を掲載し、その文化的側面をアピールすることで、文化評記事の一角として定着をたくらむものである。「大人も子供も、おねーさんも」奥深い「文化」としてのゲームの世界を体感してみてほしい。(轍)

目次

批評の対象としてのビデオゲーム 松永伸司 文学研究科准教授
ゲームはもう芸術になったかい? ゲームを芸術たらしめる「批評実践」
ゲームの本質、学問に究む。 ゲーム研究の考え方
1000回遊んだRPG 拡大するゲーム文化
〈ゲーム評〉文字を操作し、世界を救え! 『文字遊戯』

批評の対象としてのビデオゲーム 松永伸司 文学研究科准教授


お話を伺ったのは、ビデオゲームを芸術の一形態と捉えて考察する、文学研究科の松永伸司准教授。研究にあたっての視座や、昨今のビデオゲームの趨勢についても触れる。ゲームを見る新たな批評軸を獲得してみては。なお本稿では以降、「ビデオゲーム」のことを単に「ゲーム」と表記する。(=松永先生の研究室にて。轍・涼)

松永伸司(まつなが・しんじ)京都大学文学研究科 准教授
2008年、東京芸術大学美術学部卒業。15年、東京芸術大学大学院美術研究科博士後期課程修了。16年、日本デジタルゲーム学会若手奨励賞受賞。日本学術振興会特別研究員(DC2)、東京大学教養学部非常勤講師などを経て現職。主な著書に『ビデオゲームの美学』(慶應義塾大学出版会、2018)など。

ゲームはもう芸術になったかい? ゲームを芸術たらしめる「批評実践」


―ゲームは一般に娯楽の一種、消費物と捉えられる場合が多いが、芸術という観点から捉えた場合、ゲームにはどのような価値があるのか。

まず前提として、芸術という言葉に「価値あるもの」という意味を含ませていません。「批評実践」が存在することが、芸術の指標の一つだと考えます。私たちは普段から「このゲームは素晴らしい」「これはクソゲーだ」などとゲームを批評しているので、ゲームは芸術だといえる。芸術だから偉い、娯楽だからしょぼいということはありません。単に作品の良し悪しを理由付きで語る実践があれば、芸術といっていいわけです。

ですが、文学や音楽などに対して従来行われてきた批評実践が、ゲームについても普通になされているという事実は強調したい。多くの人が注目すべきことだと思います。

―批評実践は、ゲームができた最初期から行われているのか。

1970年前半のアーケードゲームがビデオゲームカルチャーの最初だとすると、当初は「面白い機械の一つ」くらいの話で、批評実践という形は明確にはなかったと思います。そもそも作品として見られていなかった。それが時代が下るにつれて、批評の対象としての地位が高まったということになるでしょう。遅くとも80年代半ばには批評実践が成立していたと思います。例えば86年に創刊した『週刊ファミ通』のレビューは、具体的な理由付きで点数がつけられていますよね。また『週刊少年ジャンプ』上に不定期で掲載されていた「ファミコン神拳」というコーナーは、かなり早い段階で成立した批評実践です。

―現代にかけて、批評はどう変化してきたか。

語り方は洗練されていっていると思います。初期の「ファミコン神拳」や『ファミ通』のレビューから一段階進んだのが、90年代の『ゲーム批評』という雑誌です。そこでは「ゲームの本質とは何か」のような議論、例えばドラクエ・FF論争[1]などを本格的に取り上げています。また当時は『FFⅦ』が流行していたので、それについて考察する動きも多かった。その後、個人のサイト上でゲーム批評がどんどん広まっていったという経緯があります。

―最初は内々に行われていた批評実践が、拡大していった。

インターネットのおかげで、一般人が誰でも参加できるようになりました。一方で、近年はゲームジャーナリズムというものが拡大していて、IGN JapanやAUTOMATONなど、作品批評メインのサイトも生まれています。これらはゲームに詳しいライターが、きちんとやりこんだ上で書いているため、批評の場自体が出来上がっており、批評実践が確立していると思います。

[1]ドラクエ・FF論争
『ドラゴンクエスト』と『ファイナルファンタジー(FF)』の両者のあり方をあげつらい、その優劣を競った論争。『ドラクエ』を擁護する立場からは、『FF』はストーリーがあらかじめ決まっており、キャラクターが勝手に動くのに対し、『ドラクエ』は自分自身が主人公になるので、より物語世界に入りこめる、との主張がなされた。

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ゲームの本質、学問に究む。 ゲーム研究の考え方


―批評の基準を体系的に考察するのが先生の研究。

批評している人たちが「ゲームの何に注目しているか」を明確化することを試みています。ゲームには様々な考察軸があります。例えば、フィクション性やゲーム性に注目する。それらが別々に評価される場合もあれば、合わさった形で評価される場合もあります。個人的な好みでは、フィクション性は正直どうでもよくて、曲とゲーム性のみですが。

―学問としてゲームを考えることの意義は。

それは文学の研究者など、伝統的な学科の人にこそ聞くべき質問だ、と常々思っています。新しい分野だけ「なぜ研究する意味があるのか」と聞かれがちで、不公平ではないかと。

それはともかく、ゲームは考える切り口が様々で楽しいです。映画やマンガ、アニメーションは、基本的には物語を表現するだけの媒体ですね。ゲームにも物語を表現する面はありますが、それに加えてゲーム行為をさせるという面や、新技術の開発・投入への積極性など、プラスアルファの面がある。それがごちゃごちゃ混ざって一つにまとまっているのが、楽しいと率直に感じます。逆に、いろいろな点を気にしなければならず、広い視野を持つ必要がある、という難しさもありますね。

何か意義があるか、という点については、研究は突き詰めればなんでも意義はあると思いますよ。

―ゲームを考える際には、ゲーム性を軸に考えるのか。

文学や映画などと共通するフィクションの面から考えることもあれば、ゲーム性のように共通しない側面から考えることもあります。

ゲーム性の研究は、基本的には行為についてです。ゲームがプレイヤーの行為をデザインしてきて、プレイヤー側はそれにどう応答するか。行為のデザインというのは実は日常に溢れています。例えば僕は先ほど授業をしてきたのですが、学生はみな黙って座っている。それは、大学の単位という制度が、ある種の行為のデザインとして機能しているからだといえます。ゲームも、ルールや目標が設けてあって、それに従って行動するという点では一緒です。

一方で、最終的に得られる成果が現実的にはまったく意味がないという点で、ゲームは単位制度のようなものとは大きく異なります。ゲームの「自己目的性」が、ゲームと非ゲームの一つの線引きとして機能していると思います。

成功しても実利がなく、失敗して嫌な気持ちになる可能性も必ずあるのに、どうしてもゲームをプレイしてしまう。こうした本質的な矛盾に価値があるのではないでしょうか。

―ゲームの歴史を語る上での困難さは。

一つは、現代の同時進行的なポピュラーカルチャーである点です。多くの人が様々な視点から楽しむものに対する歴史記述は、一面的になりがちで、意見の対立は免れません。

また、「当時の名作」という共通見解はあっても、それが世代間で共有されていないという点もあります。『スーパーマリオブラザーズ』なら、歴史上重要な作品であることが自明ですが、それとは異なるレベルで各時代に存在する重要な作品も考慮する必要があります。

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1000回遊んだRPG 拡大するゲーム文化


―先生の考える遊びの優れたゲームは。

ローグライク[2]です。いうなればサバイバルで、限られた、しかも不確定な資源を使って、なんとか生き延びるのが醍醐味です。一歩間違えたら死ぬけれど、何度も死んで培った経験を生かし上手くやりくりする。そういう工夫があることが重要です。

僕がローグライクにハマったきっかけは、中学生のころにプレイした『NetHack』というファンメイドのゲームでした。すべて英語表記だったので細かい部分まではわからず、なんとなくの想像でプレイしていたのですが、すごく面白く感じたんです。後発の『トルネコの大冒険』や『風来のシレン』は、しょぼく感じてしまったほど。その後ローグライクというジャンルは一時期下火になるのですが、2000年代以降、インディーゲーム[3]が海外で流行していくなかで、ローグライクは一つのパターンとして見直されます。『Dwarf Fortress』という『Minecraft』のアイデア元にもなった作品や、『Spelunky』というインディーゲームの傑作が出て、2010年頃にはローグライクはジャンルとして確立されていきます。

―インディーゲームがここ20年ほどで勃興してきた背景は。

日本ではネットが普及する以前から、即売会などを通じて同人ゲームがやりとりされてきましたし、ネットの普及後は趣味で自作したフリーゲームを公開する人も増えました。

海外のインディーゲームは、自分が「イケてる」と思うものを乗せる媒体の一つとしてゲームを選ぶという趣向がしばしば見られます。ビジュアルや音楽といった芸術的な要素にこだわっていたりする。例えば、インディーゲームの先駆とされる『Braid』は、ジョナサン・ブロウというスノッブな(鼻につく)性格の強い人が、思想的な要素や有名ゲームのオマージュなどをこれでもかと盛り込んだゲームです。現在のインディーゲームは、これと同様の志向を持つものが多いです。

―スマホなどで手軽にプレイできるゲームと、それ以前のゲームとの差異は。

どこにでも持ち運べるゲーム機というのは、最初期から存在するといえます。例えばゲーム&ウオッチはファミコンより前に出ました。

それが、携帯電話やスマホの登場で、「ゲームやるぞ」と思わずともゲームができるようになり、日常生活との境目がなくなってきたのではないでしょうか。ソーシャルゲームのスタミナ制やガチャ要素は、リアルの時間経過とゲーム上でできることを紐づけて、この境目をなくすのに一役買っています。

僕は最近、マッチ3[4]が好きでよくプレイします。スタミナがなくなるとプレイできなくなって、また1回分できるようになるまでに30分くらいかかる。その時間を待つために家事をしたり、原稿を書いたりしていると、ふと「ん? これはどっちが主なんだ?」と気づき、行為だけでなく時間の使い方までもデザインされているように感じます。これは良くない(笑)。

―最近のゲームではメディアミックスをよく目にするが、その背景は。

それも昔からあるんです。『ドラゴンクエスト』の生みの親である堀井雄二は、「ファミコン神拳」で「ゆう帝」というキャラとしてレビューを書くなど、『ジャンプ』と関係がありました。『ドラクエ』は、海外で流行っているRPGを日本でも出せないか、という『ジャンプ』編集部内の話から始まり、開発段階から積極的に読者に宣伝し、満を持して発売しヒットさせた作品です。『ドラクエ』はもともと『ドラゴンボール』の鳥山明がイラストを手がけていますし、『ジャンプ』ではその後も『ダイの大冒険』[5]が連載されています。日本では、マンガ業界とゲーム業界が割と初期から手を取り合っていたように感じます。

ゲームをマンガやアニメーションにした場合、ゲーム性は失われますが、「行為のデザイン」を想定して見ることはありますね。例えば『ドラゴンボール』の「スカウター」は、戦闘力が数値として出てきますが、これはゲームの隠喩です。「なろう系小説」の類や『葬送のフリーレン』も、『ドラクエ』のようなJRPG[6]の知識があってこそ楽しめます。ゲームの知識が作品を理解するのに必要ということはしばしばあり、メディアミックスという概念を大きく捉えると、そういう点が見えてきて面白いと思います。

―ありがとうございました。

[2]ローグライク
RPGのジャンルの一つ。マップやダンジョンが自動生成される、ゲームオーバーになるとすべての要素がリセットされるなどの特徴をもつ。1980年に開発された『ローグ』が、こうした特徴をもつ最初のゲームといわれている。

[3]インディーゲーム
「インディー(indie)」はindependent(独立)の略語。2000年代以降に定着した概念で、一般に、個人や小規模の開発によるゲームを指す。オンライン販売網やゲーム開発ツールが普及したり、開発者間のコミュニティーが形成されたりしたことで、技術面や経済面において大企業への依存が部分的に解消され、創造的な開発への志向が高まったことが背景にある。

[4]マッチ3
色の異なる数種類のもの(ゲームによって見た目は異なる)を動かして、同じ色のものを3つ揃えて消し、一定の目標を達成することを目指すパズルゲームの総称。

[5]『ダイの大冒険』
『ドラゴンクエスト ダイの大冒険』。 1989年に連載が開始された、原作・三条陸、作画・稲田浩司による、『ドラクエ』の世界観や設定を元にしたマンガ。ゲーム『ドラクエ』とは異なる物語が人気を博し、1991年にはアニメ化された。

[6]JRPG
『ドラクエ』や『FF』をはじめとする、日本で独自に進化したRPGのこと。ただし近年では、日本のRPGを真似たものが海外で開発される場合もある。

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〈ゲーム評〉文字を操作し、世界を救え!『文字遊戯』


剣と魔法の世界の胸躍る冒険譚を、文字だけで表現せよと命じられたら、あなたはどうするだろうか?小説を書けばエエやないかいという方、それはもちろんその通りなのだが、「文字だけで構成された世界を文字が冒険する」、この発想はどうだろうか?本稿で紹介する『文字遊戯』は、誰に命じられるでもなく、その突飛なアイデアを形にしたゲームだ。

以下、墨付きかっこで括った文字(例:【飯】)は、その文字自体を表す。

『文字遊戯』の世界はすべて文字でできている。遊戯者は【我】を操作する。【壁】と書いてあるところは壁なので、通り抜けられない。【老】と書いてあるのは老人なので、話を聞くことができる。【灯】は光り、【樹】は風にそよぐ。そんな世界で展開される物語は、世に王道RPGと呼ばれるものだ。文字を操る力を持つ「識字の勇者」である【我】は、悪の化身・魔龍を倒して囚われの姫君を助け出すため、旅に出る。

ゲームの中心は謎解きだ。例えば、こんな場面。【我】は部屋から出たいのだが、出口が見当たらない。【机】を調べてみると、「抽斗の中に…専門書が置いてある」という台詞が現れる。しめた。専門書の【門】から、【我】は外に出られるのである。物語ではさらに、【我】が勇者だけが扱えるという「魔導具」を集めていくのだが、その一つ「削字之剣」は、文字通り不要な文字を削除できる剣だ。つまり文字通り、「不可能」を「可能」にできるのだ。他に、文字を動かせる魔導具や、文字を合体・分解できる魔導具も登場する。

この他にも様々な謎解きが【我】を待ち受ける。そのシチュエーションが凝っており、例えば、魔物の攻撃を躱しながら、現れる文に「削字之剣」などで手を加え、魔物に反撃する文に書き換えるシーンがあった。これが妙に臨場感を演出しており、【我】があえなくやられたときは、ぎゃあと声が出てしまった。

愚痴蒙昧たる評者からすれば、全体的な謎解きの難易度はかなり高い。ヒントを見たとしても、一つの謎に優に30分以上を費やすこともあった。しかし、謎が難しい分、その解決法をふと閃いたときの、あッと快哉を叫びたくなる爽快感は何物にも代えがたい。謎解きの過程も楽しむなら、同士を集めて額を寄せ合い、あれこれ議論するのもよいだろう。評者のように文字をひたすら睨んで天啓を待つのは、いかんせん目がチカチカする。

本来、文字ばかり見るのはつらい。意味を追おうとするからだ。そこで本作は、いくら文字を見ようと平気な仕掛けを発明した。色のついた小さな文字を敷き詰めて、ドット画を作ってしまうのである。このドット画、非常に精緻であるうえ、ダイナミックに動く。例えば物語の前半、巨大な魔龍が翼を羽ばたかせて空を飛ぶ壮観なシーンが登場する。魔龍を仔細に観察してみると、それを描いているのは小さい【龍】だ。絵本『スイミー』のように、群れをなした龍が大きな1体の龍の姿を模倣しているかのようであり、そう思うと、魔龍を構成する【龍】一つひとつが生命を持つかのように見える。文字に命があるように感じられる、不思議な体験だ。

閃きの快感を味わったり、文字の中に生命を見たりと、面白い体験の詰まった本作だが、とりわけ評者の印象に残ったのはあるメタ的要素である。謎解きの際、文字を消したり動かしたりといろいろ弄った結果、どうしようもなくなったときには、最初から「やり直し」できるのだが、この操作がワープロソフトなどで馴染み深い「Ctrl+Z」になっているのだ。『文字遊戯』の文字だけの世界は、むろんゲームでありファンタジーだが、評者がいま、必死に本記事をタイプしている現実世界と地続きなのかもしれない。実にウィットに富み、またシニカルな表現である。

飛行する魔龍。体はすべて【龍】で描かれている



◆ゲーム情報
文字遊戯(日本語版)
【開発元】Team9/ESQUADRA,inc.
【パブリッシャー】Flyhigh Works
【プラットフォーム】Nintendo Switch、Steam(評者がプレイしたのはSteam版のもの)
【リリース日】2025年8月7日(Nintendo Switch)/2025年8月13日(Steam)
【価格】3600円(Nintendo Switch/Steam)

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「最後の一行は、せつない。」〈了〉