文化

〈寄稿〉 山岳部、四半世紀ぶりのヒマラヤ遠征 ニレカ登頂に成功

2010.12.24

2010年9月14日から10月31日までを使って、京大山岳部はヒマラヤに遠征してきた。一言に「ヒマラヤ」と言っても広いが、今回の対象は国でいえばネパール、エヴェレストもあるヒマラヤのハイライト、クンブ地方だ。メンバーはOB1名、現役3名の合計4名。登山対象はニレカ:Nirekha(標高6169㍍)という山だ。未踏でも有名でもなく、世界の屋根の中じゃあ背が高いわけではない。ニレカはすでに十数組に登られている。かつては我が山岳部もOBと一緒に海外に遠征し、大きな山や未踏峰を陥としたりしてきたが、ここ10年はそんな元気はなかった。実際今回の遠征は、部としては実に25年ぶりだ。そんななかで、6000㍍峰とはいえ、部の力だけで登ったのは大きなことだった。この紙面を借りて粗々に報告をさせてもらいたい。

9月14日 バンコク経由でカトマンズ着。現地エージェントとのミーティングや、ギヤ、ルート工作のためのロープ等の買出しに忙殺される。ホテルの水が茶色い。なぜか落ち葉が水に混じっている。

9月18日 小型プロペラ機でルクラ(2800㍍)という200戸ほどの山間の町へ。信じられないことだが、ルクラ飛行場は斜面にあるので滑走路が傾いている。さらに谷間なので霧が多く、結果としてよく飛行機が落ちるのだが、数週間前にも落ちたというニュースを知ってみんなびびりまくる。もしかしたら今回の遠征中最も死亡確率が高かった瞬間かもしれない。ここでシェルパ、BC(ベースキャンプ)コックと合流。ここからは歩きでBCへ向かう。大量の荷物はヤクとポーターに運んでもらう。

9月19日―30日 BCへ向かうトレッキング期間。大勢のトレッキング客に混じって少しずつ高度を上げ、BCへ向かう。トレッキングルートからの眺望は日本とは比べ物にならない。距離感が全く失われる巨大な峡谷。日本ならとっくに名前がついて名所になっているであろう巨大な山や滝。写真で見たことのあるヒマラヤだった。ましてやその風景の中にはいって行き、ピークに登るなどとは信じられなかった。

高所順応のため、一般のトレッキング客よりもゆっくり進んだのだが、やはり疲れが出たのか、3440㍍地点で熱を出してしまった。一時は39度まで上がり、歩くどころか起き上がるのも辛くなった。やむをえず、他のメンバーには先に行ってもらう。正直、今回は無理なのかな、とも思ったが、3日間休養したらなんとか体力が回復し、追いつくことが出来た。

10月1日―10日 ニレカ登山期間。

10月1日 BC(5200㍍)入り。メンバーは、隊員4人とシェルパ、コック、キッチンボーイの7人。まずしなければならないことはアドバンスドベースキャンプ(以下ABC)の設営だが、5000㍍の時点で酸素は平地の半分しかない。なかなか思うように体が動かない。トイレに行くだけでぜいぜい息切れがする。安静にしていても脈が130を超える隊員もいた。BCから見た空は青ではなく、黒かった。宇宙が近いのだ。

10月2日 ABC設営へ向かう。高所なので装備を各自15㌔程度におさえ、氷河沿いの岩場、ついで氷河へと入ってゆく。ヒドゥンクレバス(隠れたクレバス)を踏み抜くことを考え、2人1組で、ロープで互いを結びつけた状態で進む。たったの15㌔が計り知れないほど重く感じる。低酸素状態なのに、つい早く動きすぎ、意識が飛びそうになる。氷河を3時間ほど上がったところにある、ニレカの稜線に続く鞍部にABC(5600㍍)を設営。みな疲れ果て、BCにたどり着いても倒れこんで動けない。

10月3日 レスト。昨日のABC設営だけで、全員かなり疲れてしまった。

10月4日 偵察、ルート工作。空荷でABCの先へ進む。そこまで傾斜は無く、難しいところも無いが、いたるところに顔を出す巨大な氷塊、圧倒的な眺望はヒマラヤのものだ。ロープを張るほどの場所は余り無く、6000㍍手前で2ピッチほどロープを張り、引き返した。6000㍍地点から見る限り、その先もそこまで難しそうには見えないので、次でピークへアタックすると決まる。しかし、BCへ帰り着いてから、みなの体調がかなり悪くなっている。

10月5、6日 レスト。念のため、2日間の休養をとるが、5000㍍では疲れは取れない。疲れている隊員はどんどん食が細くなっていく。6000㍍まで上がったのがこたえているようだ。6000㍍では酸素濃度は平地の3分の1程度まで落ちる。みんな参ってきている。

10月7日 第1次アタック。午前中、多少雪が降るも、午後からアタックのためにABCへ上がる。しかし、隊員1名の体調が急速に悪化したために、下山を決定。全員でガスの中BCへ降りる。体調の悪化した隊員は、隊長が付き添って4700㍍地点まで降ろす。精神的にはこの日が一番つらかった。仲間の1人がダウンしたのだ。あと2日しか登山期間が残っていず、もう失敗かもしれない、と言う隊員もいた。

10月8日 意外にも隊長が元気になって帰ってくる。急きょ、第2次アタックをすることが決まり、ABCまで上がる。隊員が1人欠けた分、シェルパについて来てもらうことにする。みな意気軒昂。明朝3時出発と決まる。

10月9日 午前2時起床。空気が薄くただでさえ眠れないのに、興奮しすぎて一睡もできなかった。多少の不安は残るがもう行くほかない。3時過ぎ、アタック開始。巨大な暗闇の中、4つのヘッドライトだけが瞬いている。風はなく、雪を踏む、ザクッという音、そして自分の荒い呼吸だけが聞こえる。そうしているうちに、はるか数百㌔はありそうな、かなたの地平線からぼんやり赤くなってゆく。ロープを張った6000㍍地点まで来たころにはすっかり明るくなっていた。明るくなると、こんどは空を歩いているような高度感があった。6000㍍から上はあっけないくらい簡単だった。ピークへはただクレバスに気を付けながら歩いてゆくだけだった。9時30分、Nirekha(6169㍍)登頂。みな体力に余裕が無く、あわただしくピークに立って、あわただしく降りてきてしまった。ろくろく写真も撮らなかった。現実感がないのは、だからかもしれない。ピークからは、エヴェレストがすぐそこに見えた。

10月10日 ABC撤収。

終わって、一番の感想はうれしいではなく、安心だった。この一月、何があっても、頭の中にはニレカがあったし、なんだかんだ言っても緊張を強いられていたのだ。それは隊のみながそうだと思う。このあと、エヴェレストのBCに遊びに行ったり、気楽にトレッキングをして、10月31日、全隊員が無事に帰国した。

・最後に

計画が持ち上がったのは遠征の1年近くも前だった。初めにあったのは素直な興奮だった。「ヒマラヤ」などという言葉は日常とは離れた、何か別の世界の話に聞こえた。それは山をやる人にとっても、やらない人にとってもそうだろう。ましてや、そこで山に登るなんてことは考えたこともなかったが、そういうことをやってみたいという憧れはあった。1回生ではあったが、ここぞとばかりに参加した。それからネパールに行くメンバーで、積雪の八ヶ岳や穂高で合宿を組み、練習を重ねた。正直、合宿のほうが遠征そのものより辛かったくらいだ。ただ、登れた、というその一点で甲斐はあったのだ。1年という準備期間の間、パーティー会議を幾度も重ね、隊員はみな、何かしらを捧げてやってきたように思う。それが形になった、1つ達成した。山をやるうえで、これ以上のことはないのだと思う。

今回の報告を見て、少しでも山岳に興味を持っていただければ幸いである。

2010年KUAC(京大山岳部)ヒマラヤ遠征

文学部2回生 荻原宏章

《本紙に写真掲載》