企画

京大生の暮らしと戦争 戦時下の京都帝国大学新聞を読む

2025.10.01

京大生の暮らしと戦争 戦時下の京都帝国大学新聞を読む

ラジオのニュースに耳を傾ける学生(41年12月20日号)

物価高の昨今、京大では食堂の値上げが話題のひとつだ。ニュースを見ているうちに、本紙創刊百周年の企画で過去の紙面を見返した時、食堂の値上がりの記事を何度も見たことを思い出した。

大学と戦争との関係といえば、学徒出陣や軍事研究が話題にのぼることが多い。その中でも、戦時下にあった学生たちは、どのような環境で生活していたのだろうか。学生たちの等身大の暮らしを知りたいと考え、日中戦争が始まって間もない1938年から東大新聞と合併する43年までの「京都帝国大学新聞」をめくった。本企画では、衣食住など5つの観点から当時の学生生活を見ていく。「」は原文ママの引用。一部表記は現代仮名遣いに改めた。(史)


目次

物資不足に苦しむ
足りぬ栄養 減る食堂
試験勉強で電力が逼迫
スポーツ・勤労奉仕も
年限短縮、そして徴兵へ
〈コラム〉学生へのまなざし
最後に

物資不足に苦しむ


制服の買い取りも


1937年7月、中国・盧溝橋での軍事衝突を皮切りに、日中戦争が勃発した。国は経済統制を企図して38年に「国家総動員法」を公布し、消費物資の統制を強化した。戦時インフレによる物価高騰を受け、39年以降は生活必需品も統制下においた。

39年3月には、「戦時下国民経済の変容は国民生活の全面的改変を要求しつつある」として、入学当初に多くの費用を要する新入生に対して安価な制服を提供しようと、共済部が積極的な取り組みを行った。共済部は、運動部や文化部が属する学生親睦団体・学友会の一組織で、食堂の運営などを担っていた。洋服屋が卒業生の制服を買い取り、買い取り額の1割で修理した後、部が実費で新入生に配給する形だ。結果、古制服50着を取り引きすることに成功し、同年5月の記事では「今春制服交換のヒツトを放つて気を良くした共済部」と評されている。41年3月には「古制服五から十圓・古制帽一から三圓」で買い取るとの記事を掲載し、継続して取り組んできたことがわかる。

同年4月以降には、新入生が制服を購入する際に文部省が発行した発注証明書(切符)が必要となった。制服の洋服商は、新入生が購入時に提出した切符を商業組合に提出し、生地の交付を受けることとなった。文部省から交付された切符の枚数は入学者の8割分しかないため、所属の事務室で申し込むよう呼びかける。それまで、制服は40~58円であった。その後、42年2月には衣類に点数切符制が導入された。

「切符制」の導入を報じる(41年4月20日号)



ノートも本もない


物資の不足は、学生の勉学に欠かせない文房具にも影響を与えた。42年5月、共済部がノートを販売し、約1か月間で3300冊を売りつくした。同年10月には、学内外でノート不足が起こり、「4、5枚の紙切にノートをとつているという悲惨な風景も現出して、当局者の憂慮するところ」となったため、学生課が配給制を確立し1人4冊ずつ配給した。同年11月に厚生部がノートの自由販売を行ったところ、2時間で2千冊が売り切れたという。

本の入手も困難となった。39年には、共済部が古本の購入を仲介した。売り手は古本屋で値段を調べて適当な価格を付け部に持参し、購入希望者があれば部が通知する。手数料がないため、両者にとって利益があった。43年には厚生部も古書交換を担うものの、教科書を持参する売り手に対して、買い手は入手しづらい良書を希望するため交換がスムーズにいかなかったという。

戦争の影響で不十分となった講義を補填するため、図書館では蔵書を増やそうと取り組んだ。41年11月には「図書館の親心、必要図書を申し込め」と題して、学生から希望を募っている。従来のような講義に期待できない状況では、図書館の利用がますます盛んになるはずだとして、「最善を尽くして学生の要望に応えようと努力する」との姿勢を見せた。

職を得るのも一苦労


授業料滞納者の増加が問題視され、38年には月納制が実現するも、依然として全学6千人のうち448人が納付できていなかったという。39年、従来個別に行われていた育英事業の窓口を学生課が一括して担うようになる。1月の記事では、大学が「貧困学生救済事業の運営」を始めたことを評価する一方、支援を受けられるのは全学で30名を超えず「非常に遺憾」だと述べている。

学友会の共済部は、内職(アルバイト)斡旋も行っていた。39年には、4・5月の申込者が281名に達し、前年1年間の271名を超えたことを受け、「あきらかに学生生活の窮迫化の一端」と表現した。また、そのうち4分の1程度しか就職できておらず、求人を得るため共済部委員が手分けして「中等学校長を歴訪した」とある。旧制の中等学校は現在の高校にあたる。家庭教師の募集などを募ったのだろう。本紙では42年も共済部の内職紹介を扱った。求職者約100名のうち、18名程度のみ家庭教師など職を得られた。

一方で時局の影響を受けながらも、40年頃までは卒業生の就職状況は比較的良好であったようだ。38年11月、理学部から陸軍技術本部や同気象部などへの就職者がいることに触れ、「時局の波が深刻に染み込んで来ているのが感ぜられる」と報じた。

39年2月には、次の春に卒業する法経の学生の就職が既に大部分決定し、企業から募集が来ても希望者が少ない状態であるとして、未定者は学生課に申し出るように呼びかけた。

アルバイトを求める学生が多かった(39年6月5日号)


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足りぬ栄養 減る食堂


損益合わない


38年の国家総動員法の公布で、国民の食生活にも深刻な影響が及んだ。39年11月、学生向けの食堂にインタビューを実施。原材料が値上がりし、公定価格で取引されているものはめったにないという。「学生さん達の大事な体を預かつている私ども」としては、栄養も考えねばならず、「損益などを考えてた日にはこんな商売はやれませんわ」と嘆いている。

31年から10年間学生の台所を担ってきた「学生食堂」は、物価高騰を理由に38年から40年まで3度値上げした。食堂の主任は、「どうにもやつてゆけない。町の食堂だつてこの四月に値段を上げるか内容を落すかしますよ」ともらした。

40年には、直営から請負に転換することとなる。41年11月、食堂経営者の大石氏は、現在の食事が学生にとって「とても十分ではない」としたうえで、値上げについては、米の量を増やせないうえ、大学周辺の飲食店に一斉に影響することから不可能だと述べた。なお、当時の利用者は、1日1500から2千人程度であったという。同年12月には、「需要者全部を賄う、完備せる学生食堂を」との記事を掲載。医学部助教授は、必要なカロリーに対して現状の食事はとても足りないと認めたうえで、「けちけちゆつくり味うて食べることが第一」との当座の打開案を示している。

食べる場所がない


43年2月には、大学付近の食堂が休業した余波で利用者が激増し、毎日3500食を提供した。担当者は、燃料の供給が追いつかないとこぼすも、「何処にも食べるところがないのですから、待つている人には人道上提供しないわけにはゆきません」と吐露する。同年5月には、食堂の質の低下が議論されるようになり、「入営直前を目前にひかへた三回生の栄養の低下は学生個人の問題よりもさらに直接戦力にも影響する」として、対策を求める声を掲載した。ここで、単に学生の栄養問題にとどまらず兵士としての戦力に影響するとの言及があることが興味深い。

食堂へインタビューを実施(39年11月20日号)



試験勉強で電力が逼迫


燃料使用の上限


当時の京大生は、どんな環境で生活していたのだろうか。39年12月には、吉田、北白川、下鴨の大小のアパート・下宿を十数軒を取材した。京都は軍需景気とは縁遠く、薪や炭が値上がりする状況下で経営に苦心する様子がうかがえる。賄い付きの下宿では「学生さんに美味しいものを差し上げたいと思つても中々できません」との声があった。41年12月、炭や電力の使用が制限され「徹夜の勉強も御法度」となりかねない状況になった。下宿に2、3人学生がいたら制限を超過するのは必至だとして、事前の対策が必要だと呼びかける記事を掲載した。翌年2月には学年末試験が迫り電力使用量が増加した問題を扱った。

試験勉強と燃料不足


40年3月には、木炭不足について触れている。「市場の極端な商品不足と闇取引の横行」でほとんど入手不可能で、農学部演習林の木炭でしのいでいるという。木炭不足は試験期の学生に大きな痛手で、「ストーブのある喫茶店は大繁盛を呈したという珍現象」も起こった。42年11月には、「相当な冬将軍の到来」が予測されているにもかかわらず燃料の入手が目下のところ「全然不可能」だと見込まれている。会計課の担当者は、府が木炭の配給を行ったとしても、下宿の人が無断で学生分を使用することを危惧し、学生に町内会へ申し出るなどの対策を呼びかけた。

42年12月には、学生への配給物資について学生課が調査を実施し、500あまりの回答を得た。今冬期に木炭の入手見込み量が「一俵以下の者八割以上、皆無のものさえ四割以上」であることから「配給の不円滑をかこち、ことに厳寒期を前に燃料の欠乏は下宿生活者の深刻な悩みである」という。戦時下物資不足の際で多くは望まないが、「当然与えられるべき最も公平な配給」を切望するとして、今後大学当局が配給物資に関して正式に交渉するとの見込みを示した。

資材や燃料の高騰で、下宿の経営は厳しさを増した(39年12月5日号)


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スポーツ・勤労奉仕も


「国防競技」へ


戦時下でも、学内の運動会や対東大戦は開催されていた。39年5月には、学内懇親大運動会を農学部グラウンドにて開いた。学生に加えて周辺住民も参加しており、今出川幼稚園の児童が軍艦マーチなどを披露したという。

42年6月「スポーツより国防競技へ」と題した記事を掲載した。運動部として航空部や銃剣道クラブ海洋班が誕生したことを受け「国防競技への転換が同学会運動部の新しい主導的な傾向ということができよう」と分析する。また、学生有志が早朝自主的に大文字山をかけ上ったり、銀閣寺から南禅寺までマラソンをしたりと、「真摯に鍛錬を重ねんとする真面目がうかがわれる」と述べた。同年10月には、競歩大会が開催された。91名の学生が7人1組を作り、大学から亀岡へ向かった。先頭は1時間22分着、最終組は2時間40分着であった。落伍者なく終わり、「同学会苦心入手の松茸めしに舌鼓を打つた」という。

労働力としての学生


39年1月には文部省から「健康増進に万然の策」を取るよう通達があり、「学校当局をして学生生徒に対する衛生思想の普及、健康生活の実践化、保健施設の拡充普及に一段の努力を促すこととなつた」という。

39年4月、学生課が勤労奉仕として参加を呼びかけ、学生たちが農学部グラウンドを修理した。「講義の始まらない前の学生の余暇を十分に利用しまさに国策的体位向上に必要な運動場の修理と出たあたり学生課も得意であつた」にもかかわらず、「フタをあけてみると(中略)参集学生の数はいささか少なかつた」とあり、希望者は多くはなかったことが分かる。43年10月には、学生が夏休みに農学部演習林の草刈りや、大徳寺の放棄された土地の開墾に参加し、「増産推進の輝かしい役割を果たした」と伝えた。

41年12月には、卒業繰り上げに伴う臨時の徴兵検査が本部中央学生控所で行われた。42年5月には身体検査が始まるも、「都会地出身の者が概して悪く(中略)依然として鍛錬の不足が目立つ」と伝えた。

学生が草刈りや開墾を行った(43年10月5日号)


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年限短縮、そして徴兵へ


志半ばで戦死


40年6月には、工学部電気工学科学生が戦死したことに触れた。「しばらくでも学問から縁を切ることは辛かつたが、聖戦の大きな目的のために」と出征したという。志半ばで出征し学問へ未練を残していることが感じられる。

41年と43年には、戦死した大学関係者の慰霊祭が尊攘堂にて開かれており、総長や遺族などが参列した。41年11月には、題字下に「戦没者名簿」を掲載し、犠牲となった職員や学生の名前を掲載している。

尊攘堂で慰霊祭を開催(43年10月5日号)



「学徒出陣」へ


41年にはより多くの兵員を確保する目的で、修業年度を臨時的に短縮する法令が公布され、同年度卒業者は3か月、42~44年度卒業者は6か月早く卒業することとなった。

同年には、12月9日の真珠湾攻撃について「西部講内に据へ置かれた共済部のラジオから戦況を次々に速報」したといい、「我らのペンを剣にかへて逆まく太平洋の怒濤を蹴って聖戦に立つ日も近いのだ。戦友よ!今こそ決然とその眉を上げて華と散る日の感激を想はう」と力強く呼びかけた。この記事のすぐ下には、「新入営者のために」と題して、これから入隊する者へ経験者(経済学部2回生)からの助言を掲載する。入営前には勅諭を暗記し健康に気をつけておくこと、入営時に持参すべき物品のほか、上等兵の指導によく従い一度聞いたことは忘れないようにと注意している。この記事には「精神論」の色を帯びた言及はほとんどなく、実践的なアドバイスが多かった。

43年9月、「現情勢下に於ける国政運営要綱」が閣議決定されたことで、卒業までの徴兵猶予が停止され、満20歳に達した学生は徴集されることとなった。同年11月20日には、農学部グラウンドにて「出陣学徒壮行式」が実施され、出席した羽田総長は「皇国と聖業と世界新秩序は諸君の肩にある」と激励している。
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〈コラム〉学生へのまなざし


41年以降、1面のトップ記事として教員からの寄稿が掲載されることが増えた。41年12月9日、日本はアメリカへ真珠湾攻撃を行った。直後に発行した12月20日号にて、駒井卓・理学部教授は「国民の一員として一死報公の志を固くすべきは当然である」として以下のように述べている。

――但し今から覺悟すべきは此度の戰が恐らく長期に亘る事である。相手が全世界中で最も物質の豊富と経濟力の强大を誇る國國である以上、初めの戰闘で多少の打撃を受けた位で、容易に腰を折るものではない。必らず終局の勝利を目標にして、ぢりぢりと進んで來るに相違ない。從つてこちらでも遠大の計畫を以て之に備へる必要がある――

相手国が資源を豊富な持つことを認め「長期に亘る」と分析していることは興味深い。そのうえで、日本が不利だとせず、日本は「安易に腰を折つてはいけない」と説く姿勢からは当時の世論がうかがえる。

一方で、教授から学生への切実な思いを読み取ることができる記事もあった。41年11月、舟岡省五・医学部教授は、卒業生は学業の研鑽を積む間もなく「第一弾雨の間に赴く」と述べたうえで「無理なこととは知りながら幸ひ多少たりとも読書の余暇もあらばと希つている」との卒業生たちへの率直な思いをつづっている。

「模範」として先頭に


学生の娯楽には制限が課され、外部からは厳しい目が向けられていたようだ。40年8月には文部省が京大へ「学生生徒新生活四カ条」を通達し、2キロ以内の移動での乗り物使用や、休日以外の映画館への入場を制限したほか、麻雀、撞球(ビリヤード)などの遊技場・享楽的飲食店への出入りを禁じた。学生課長は「学外に於ける諸種の実践運動に馳せ参ずるが如きは厳に戒むべき」と述べた。41年にも、学生課長は「近頃本学学生の行動について学外から時々兎角の批評を耳にする」としたうえで、「急迫した国際情勢のもとにあつて、諸君が青年学徒の模範として日本青年の先頭に立たねばならない」と注意した。

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最後に


戦時中、物価高による食品や燃料の不足を扱い、配給物資が手に入らない状態を大々的ではないにしろ報じていたことがわかった。一方で、戦争への参加を促したり、後押ししたりするものも多く見られた。メディアとして戦争を支える立場となっていたことを自覚する必要がある。

一編集員としては、戦争を支持する姿勢と身近な生活苦を伝える立場が同時に存在していたことを知って、当時の紙面作りの苦労を思った。また、学生がノートすらも十分に手に入らないほど紙不足であったにもかかわらず、よく新聞の発行が続いたものだと驚いた。

これまでは無意識に戦時下を「特殊な状況」だと捉えていたが、当時の学生生活を知り、むしろ「いつもの日常」の地続きに戦争があったのだと感じた。終戦から80年が経ち、語り手が減少する中、記憶の継承のために史料の重要性が高まっていると聞く。実際に紙面と向き合うことで、新しい視点を持つことができた。

過去の紙面は京大リポジトリサイトから閲覧可能だ。興味を持った方は、ぜひ一度目を通してみてほしい。

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