コーカサス諸国紀行 文明の十字路を駆け抜けて
2025.06.16
信徒にご加護を授けるカトリコス
そんな背景を抱えながらも、コーカサスの街角には人の温もりと素朴な営みが息づき、香辛料の効いた料理や乾いた空気、雪解けの光が、旅人の五感をたっぷりと刺激してくれる。日本とはまるで違うこの世界を、ぜひ一緒に味わってみたいと思う。(唐)
目次
「え?コーカサスってどこ?」アゼルバイジャン──バクーの石畳とケバブの香り
ジョージア──歴史と料理に酔う
アルメニア──聖性と庶民の優しさに包まれ
戦争の足跡
旅を締めくくって
用語集
「え?コーカサスってどこ?」
高校時代の友人から届いた1通のメッセージ──「コーカサスに行こうぜ」。戸惑いながら、スマホで調べ始めたのは読者の皆さんと同じだろう。
調べてみると、コーカサスとは、黒海とカスピ海に挟まれた同名の山脈とその周辺地域を指し、旧ソ連領に属していた。古来より文明の十字路として知られ、様々な民族と文化が交錯してきたのだという。
この地域は南北に分かれる。ロシア連邦に属する北コーカサスにはチェチェンなどの少数民族が住み、南コーカサスには独立国家としてジョージア、アルメニア、アゼルバイジャン(以下、旅程順に紹介)が並ぶ。アゼルバイジャンはトルコ系アゼリー人によるイスラーム国家、ジョージアはジョージア語を母語とする正教会の国。そして筆者が最も長く滞在したアルメニアは、アルメニア語を話すキリスト教国家であり、古くから交易ディアスポラとして世界に広がってきた民族である。
この地域は国際関係が不安定であることでも知られる。アゼルバイジャンとアルメニアは、ソ連崩壊後のナゴルノ=カラバフを巡る領土紛争で対立しており、数度の戦争が起きている。アルメニアは、オスマン帝国期のアルメニア人虐殺を理由に、トルコとの関係も冷え込んでいる。ジョージアでは最近、親ロシア政権に対する大規模なデモが起きたばかりだ。そんな情報ばかりが飛び交う中、筆者は不安を抱えつつ、渡航を決意した。
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アゼルバイジャン──バクーの石畳とケバブの香り
アゼルバイジャンの旅は実に駆け足であった。関空から乗り継ぎ先の北京にたどり着いたが、飛行機が遅延し、夜遅くの便でようやく首都・バクーに到着した。その足で、翌日のジョージア行きの夜行電車のチケットを買いに中央駅に赴くが、コロナ以降国境は閉鎖されているらしく、飛行機に変更せざるを得なくなった。そこで宿に戻り航空券を取る。観光の時間は実質丸1日に減ってしまった。
翌朝は早朝に起きて、小雨の中、観光を敢行。まずは世界遺産「城塞都市(「内城」=イチェリシャヘル」)の石の街並みを駆け抜けた。白眉とされる乙女の塔やシルヴァン宮殿はもちろん、この街のすべての建物は亜麻色の石一色である。巷は入り込み迷路のようで、千夜一夜物語のようなエキゾチックな世界だった。しかしその無機質な感じが、灰色がかった空と相まって、あまり鮮やかに映えないのが残念である。
反対側の出口から出ると、バクーの象徴・フレームタワーを遠くから望んだ。アゼルバイジャン(「火の国」という意味)は石油マネーのおかげで目まぐるしく発展中のようで、2024年には世界各国が環境問題について議論する「COP29」が開催された。そんなバクーの目抜き通りを進むと、フレームタワーをはじめとして、近代的で、流線的なフォルムが美しいガラスの建物がいくつも見られ、バクーの繁栄が窺える。そして「せっかく来たからにはカスピ海を見ないと!」と、大路の垂直方向に少し進むと海岸公園にたどり着く。世界最大の内海は琵琶湖よりもはるかに大きいが、小雨か朝靄のかかる中、景色はよく見えなかった。これが人生で最もカスピ海の近くにいる瞬間になるだろう。踵を返して海の反対側に20分ほど進むと、小高い丘に「殉教者の小道」と呼ばれる戦没者墓地がある。1990年のソ連軍の侵攻、及び 91〜94年のナゴルノ=カラバフ紛争の犠牲者の追悼モニュメントと墓地があり、大きなモニュメントに続く道には、肖像の刻まれた墓標が並んでいる。
相当のスピードで早朝散歩を終え、ホテルに戻って朝食をとった。パンも、紅茶も美味しいが、何よりサワークリームはパンにもソーセージにも合う万能調味料で、危険なほど箸(いやフォーク)が止まらない。もちろんおかわりを何度もした。その後は歴史博物館やスーパー、現地のモスクを手早く見学して、夜はかつてキャラバンサライ(隊商宿)だったという石造りのレストランで、ケバブなどを堪能した。ここのケバブはパンに挟んだ形ではなく、肉を塩と胡椒で味付けして炭火で焼いたもので肉そのものを堪能できる。
これでバクーは終わりだ。その夜、雪がしんしんと降り始めた。急いで宿で荷造りをし、雪が積もるのを見ながらタクシーで空港に赴き、夜明け前には搭乗口でパンをかじっていた。「これぞ弾丸旅行」と苦笑いした。
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ジョージア──歴史と料理に酔う
・古都トビリシを歩く
ジョージアのメインは首都のトビリシである。4世紀に成立したこの街は、ジョージア史上名だたる王都だった。5世紀のジョージア人の王・ヴァフタング1世が鷹狩りの時に温泉を見つけたことから、この地は「Tpili」(=暖かい)の名を得たという。ペルシャやイスラームの外国勢力が支配した時期を挟み、12~13世紀の「建設王」ダヴィト4世や女王タマルの時代に最盛期を迎えた。帝政ロシアに編入後はコーカサスの総督府が置かれ統治の中心であった。
宿は街の中心、クラ川の程近く。宿までの道は石畳とバルコニーが織りなす迷路だった。石造りの教会やカラフルな建築、さらには源泉の湯けむりを見ると、まるで時を遡ったような感覚に陥る。が、正直疲れたので、宿に即時チェックインして、昼時までひと休み。そして町並みを楽しみながら、歩いて20分かかる目当てのレストランに急いだ。
・「炭水化物×乳製品」のジョージア料理
文明の交差点であるジョージアの料理は、どれも豊かで個性的だが、一言で言うと「粉とチーズ」の祝祭だ。「茹で小籠包」のキンカリは、ひと噛みすればスープの洪水。舟の形をしたパンにチーズがたっぷり入っているハチャプリはチーズの湖で、鶏肉のチーズソース煮込みのシュクメリもある。日本ではパンとチーズがここまで大量に同時にテーブルに載ることはないので、まずは目を見開いた。そしてパンをちぎりチーズに浸してガブリとすれば、「罪深い」幸福感が湧き上がる。
午後に訪れた教会はちょっと後にして、夜な夜な通っていた地下ワインバーを先に紹介したい。観光シーズンではなかったから、独り占め状態のカウンターに陣取り、ロシア人店主の解説付きで様々な国産ワインに挑戦した。ジョージアは「世界最古のワイン生産国」と自負しており、「クヴェヴリ」という甕を使った伝統製法がある。レッドからロゼ、ホワイトまで、ドライからスイートまで。連日飲み比べしていくと、だんだん違いがわかってくるから楽しい。クヴェヴリ製法の赤ワインは、渋みが強く、これだけはなかなか常飲できないと思った。
グラスが進むほどワイン通に近づいた気がするが、足取りも怪しくなったので、酔い覚ましに近くの公衆浴場に入った。日本の銭湯と大して違わないが、壁に飾られている鎌と斧の紋章とキリル文字がソ連以来の歴史を物語る(ジョージアは現在、ジョージア文字が公用)。さすがトビリシで、熱々の源泉で肌もスベスベだ。だんだんのぼせてきたのに、「源泉がもったいない」と粘っていると、意識が怪しくなり、気づいたら頭が重たくなり浴槽の横に寝転がっていた。「大丈夫か」とおじさんにロシア語で話しかけられていたが、なんとそのおじさんの手はイケナイところを触ろうとしているのではないか……無理に身を起こして「スパシーバ!バルショーイスパシーバ!」(=ああどうも!ありがとうございます)を絞り出し、一目散に逃げ出した。「飲酒後の入浴は非推奨」と身をもって学んだ。
・政情と人々
ジョージアの観光のメインは教会である。銭湯事件の翌日、事前情報なしで教会を巡っていたが、どの教会でも人々が集まり、聖歌がうたわれ、ろうそくが燃やされていた。特におばさんからおばあさんあたりを中心に、人々はパンやその他の食料を携えて、祈ったりおしゃべりしたりしていた。不思議に思っていると(珍しく)英語を流暢に話せるおばさんに話しかけられ、今日は死者を弔う特別な「メモリアル・デー」であると教えられた。これらの食べ物は、法要の後、貧者に分けられるのだと言う。なるほど、これでは東洋の「施餓鬼」と一緒ではないか、とすごく納得した。しばらく殿内に立たせてもらうと、法要が始まり、聖職者が聖書を読み、香合で清めを始めた。お香の煙、聖像に額付く人々、天井に描かれた神々の世界、全てが燭光に照らされて、大変感動的な経験ができた。
観光地からはなれ、町の目抜き通りに進むと現代的な街並みが見えて、現実に戻された気分がした。しかし少しでも裏道に入ると、反ロシアのグラフィティがそこかしこに描かれ、現在の政情不安を物語っている。ちょうどその日はアジアの味を求めて中心地にひっそり佇む中華料理屋に入ったが、中国人女将は「デモはもう見たかい?見物するなら今が旬よ!」と笑いながら話しかけてくれた。曰く市役所の前に行けば、かなりの確率で見られるとのこと。デモを観光地であるかのように語る、異郷の地に生きる彼らの逞しさに脱帽した。一方で、我々から見た「不安定」が、「日常」である生活は少し不思議だった。
ジョージアでの日々も、あっという間に過ぎ、次はアルメニアに赴く。ショッピングモールと一体化しているジョージア中央駅で列車の切符を入手すると、あとは列車に乗るだけである。
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アルメニア──聖性と庶民の優しさに包まれ
・首都エレバンにて
夜が来た。古めかしい寝台列車に乗ってアルメニアに向かう。2人一部屋の寝台列車は意外と快適だった。室内全体が緑っぽく、壁からベッドを解き放つと人が寝られる大きさになる。そこに横たわりながらよもやまの話をしたり、スマホをいじったりするとさすがに眠くなったが、これからの国境超えのワクワク感によくは寝れない。ジョージア国境では全員降りてパスポートチェックを受けるが、アルメニア国境では、職員が車内にやってきてチェックをする。立派な制服を着たお兄さんに「アゼルバイジャンに行った理由は?」と尋ねられるので、この時は「ツーリズム」と微笑むのがお約束である。
早朝に首都エレバンについた。朝ごはんを食べると、街全体を一望できる「カスカート」(=大階段)に登った。首都エレバンはソ連期に整備された計画都市で、ピンク色の石造建築が立ち並ぶロマンチックな街並みが広がる。そして京都のようなコンパクトな街で、宿は下町にとってあるが、観光地にもすぐ歩いていける。民宿のような宿だったので、近くのスーパー(「エレバンシティ」)で食材を買って自炊したり、雪の積もる庭を見ながら暖房のある屋内で休む贅沢の時間を過ごしたりした。旅の疲れが溜まる頃なので、この絶妙な安心感がとても心地よかった。
エレバンシティでコニャックの「アララト」を入手した(アララトの名は後述の霊峰に由来する)。フランスのコニャック地方で作られていないので本当はブランデーと言うべきらしいが、ロシア語圏では「コニャック」として流通している。アルメニアの白ブドウと湧き水で作られたこのコニャックは、無類の酒好きとして知られるイギリスのチャーチル首相にも好まれ、スターリンに勧められて以来、毎年送ってもらっていたという。度数は確かに強いが、甘い香りも強く、口当たりも柔らかい。何口か飲むと、これ以上もういらないくらいとても満足する。
・総本山エチミアジンで法要体験
世界最古のキリスト教国であるアルメニア。その信仰の中心・エチミアジン大聖堂では、偶然にも法要の現場に立ち会った。祭日と知らず建築を見学をしていると、厳かな聖歌が響くやいなや、異様なヒゲ率を誇り、紫の法衣をまとった聖職者たちが列をなして入ってきた。その後ろには多くの一般信徒庶民も集まった。最後にカトリコス(アルメニア使徒教会の「総主教」)が内陣に入り、荘厳に法要が営まれた。聖歌は神々しく奏でられ、歌うように経文が読まれる。信徒や聖職者たちは胸元に十字を描く。あまりの神々しさに、異邦人の私でも手を合わせるほかなかった。
法要が終わると、総主教が従者を従えて堂内を回り、信者たちを祝福した。自分も真似て手を合わせると、総主教が十字架を差し伸べてくれて、額に触れてくれた──ありがたやありがたや…。
ちなみにこの教会の宝物館には、ノアの方舟の破片やら、磔にされたイエスを突いた槍やらが所蔵されている。確かにこの目で見てきたことを報告する。
・霊峰アララトと「神隠し」の財布
アルメニア人の心のふるさと──霊峰・アララト山。聖書によればノアの方舟が着陸した場所だ。今やトルコ国内にあるが、コニャックの名前にも使われているし、アルメニア国章にも刻まれており、紛れもなくアルメニア人の心のふるさとである。歴史的には、アララト山の麓がアルメニア人の原郷だったらしい。
その山は、国境ほど近いところにあるホルウィラップ修道院からよく見えるという。小高い丘に登り、教会を背にアララト山を見ると、キリッとした空気の中、真っ青の空に浮かぶダイアモンドのような雪化粧のアララト山と対峙できる。これに勝る感動は無かろう。
さて感動冷めやらぬまま売店でビールを買おうとポケットを探ると、財布が無い!普段物を無くしがちな性格ではあるが、さすがに異国の地で財布を無くすのは初めてで、背筋が凍った。日本に帰れない可能性があるからだ。青ざめて教会を逆走し、「コーシェレク、プロパル!」(=財布、消えた!)と翻訳アプリで叫ぶ。
そこに、地元のおじさん4人組がやってきて、その口ぶりから、「君、財布無くしたの?」と言っているように思えた。「ダー!(ロシア語でイエス!)」と答えると、「こっちだ」と小さな礼拝堂へ。暗がりのキリスト像の前に、財布がぽつん……現金こそ消えたがカード類は無傷だった。本当の神の前で「Oh My God」と声が漏れてしまった。おじさんらは「まあ、よかったね」と言って去った。ありがたや神の冥利である。後にも先にも、こんなにスケールの大きい財布エピソードは人生にはないだろう。
・バレエとオペラ三昧
ロシア語圏を訪れた目的の一つは、舞台芸術の鑑賞だった。目ぼしい演目を探すためエレバンのオペラ座に赴くと、着物をきた女性が描かれた『蝶々夫人』のポスターが目を引いた。調べると、舞台は幕末の長崎で、現地妻として若い少女を買ったアメリカ人提督と、彼に本気で恋する蝶々夫人の悲恋の物語である。これに決めた。
本場の歌唱力と音楽には圧倒された。提督は男らしく、蝶々夫人は柔らかく、美しい歌声によって感情を表す腕前はすごい。2人の幸せを歌う「愛の二重奏」には聞き入ってしまった。それ以外にも、「さくらさくら」「君が代」を取り入れた曲が流れ、親近感を抱いた。
が、舞台芸術は不思議だ。舞台の真ん中には大きな鳥居があるのに、着物はチャイナ服。神主とされる人物は、完全に中国の文人の格好をしていた。なるほど、これが「異国趣味」なのかと。周りを見回して、唯一の肌の黄色い東洋人として不思議な気分になって苦笑するほかなかった。
その足で翌日の『白鳥の湖』のチケットも買った。バレエの世界は初めてだったが、軽やかな舞と美しい舞台装飾、そして力強い跳躍が夢見心地だった。ちなみに、愛が悪を討つ「ソ連版ハッピーエンド」もご当地ならでは。
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戦争の足跡
これまで、人々の営みや感動的な体験を中心に紹介したが、最後にこの地で触れた戦争・紛争の痕跡に触れておきたい。もっともこの地の国際政治は複雑で門外漢には厳しいので、実際に経験したことを中心に語りたい。
まずはナゴルノ=カラバフをめぐる紛争は文字通り避けて通れないものである。ナゴルノ=カラバフとは、旧ソ連下ではアゼルバイジャン内の自治州であった、アルメニア人の多く居住する地域である。しかしアルメニアとは直接接しておらず、アルメニアとの間の「ラチン回廊」で往来がなされた。ソ連末期の「ペレストロイカ(改革)」の中、旧ソ連各地で民族意識が高揚すると、ナゴルノ=カラバフのアルメニア系住民もアルメニアへの移管を求める運動を始め、両国の独立後は主権国家同士の戦争に発展した。結果1991年~94年の「第1次ナゴルノ=カラバフ戦争」(アゼルバイジャンの敗北により停戦)後にも小競り合いが続き、2016年には「4日間戦争」、2020年には「第2次」が起き、つい最近には2023年に「第3次」の戦争が起きた。これによりアルメニアはカラバフを失うに至った。しかし、不安の種は完全に除かれたわけではないし、戦争によって失われた人や財産は戻らない。ちなみに直訳するならば「山岳地帯の・黒い庭」の意味だが、カラバフはアゼルバイジャン語で、ナゴルノはロシア語である。名前からも、この地の複雑な歴史がよくわかる。
アゼルバイジャンでは、カラバフをめぐる紛争の犠牲者の墓は前述のとおりである。そして、アゼルバイジャン首都の歴史博物館でも、カラバフ紛争に多くのスペースを費やしていた。なお、アルメニア国家博物館の近代史の展示は「準備中」とのことで、アゼルバイジャンと見比べられず、残念だった。
そしてもう1つの火種「アルメニア人ジェノサイド」とは、1915年にオスマン帝国の政権を握っていた「統一と進歩委員会」(通称「青年トルコ党」)の主導の下、帝国の東部のアルメニア系住民を迫害した事件である。アルメニア側は、150万人のアルメニア人が殺害されたと訴える一方、トルコは否定している。エレバンのアルメニア人虐殺博物館では、痛々しい写真が展示され、コンクリートの重厚に作られた施設には人をその悲しい時代に誘い込む魔力があった。
さらにカラバフ紛争においてトルコがアゼルバイジャンに味方していたこともあって、トルコとアルメニアの関係も険悪で、陸路の通行が不可能となっている。なお最近は、関係改善に向かって前に進んでいるようだ。
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旅を締めくくって
観光客の姿はまばら、言葉も文化も未知数の地に身を置いた2週間。多くの場合筆者は傍観者だったが、その距離感こそ面白かった。
そしてこの地にあったのは戦争の痕跡が日常に溶け込む現実だ。陸続きであることが密接に関わっている戦争は、海に囲まれた日本ではなかなか味わえないものだ。平和を語るにも、まず歩き、見て、笑い、驚く──このようなことができた充実した旅を振り返りつつ、再び長い飛行機に乗って、日本への帰途についた。
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用語集
ジョージア正教会
「光照者」聖ニノにより、当時のイベリア王国ミリアン3世は327年にキリスト教を国教とした。聖ニノはまさにジョージアのキリスト教徒の憧れであり、多くの教会で彼女の肖像画が置かれ、彼女が布教で使用していたというなで肩の十字架が飾られていた。
アルメニア使徒教会
アルメニア王国は、313年のミラノ勅令に先駆けて、301年にキリスト教を初めて公認した。イエス・キリストの使徒タダイとバルトロマイ両人によりキリスト教がもたらされたと伝わるから、「使徒教会」を自称としている。実際には、3世紀末から4世紀前半に活動した「啓蒙者」グレゴリオスはアルメニア王ティリダテス3世に洗礼を授け、エチミアジンに教会を建てたという。グレゴリオスは最初迫害され、彼を13年間閉じ込めた地下牢がホルウィラップ修道院にある。
アララト山
現在トルコ国境内にあり、イラン、アルメニアとの境界にある山。2峰にわかれ、「大アララト」は標高5165㍍で万年雪を頂く。「小アララト山」は3925㍍。聖書によれば、ノアの方舟が「七月十七日にアララテの山にとどまった」(《創世記》8:4)。この山はアルメニア正教会を信じるアルメニア人にとってはまさに団結を象徴する聖なる山である。ちなみに、「ノア」の名を冠するコニャックもあるが、こちらはやや強い口当たり。
交易ディアスポラ(交易離散共同体)
「一定地域や国内に定留せず、国と国をまたぐ遠隔地を巡回移動しながら広範囲に交易活動を行ってきた商人集団」(重松)とされる。アルメニア語を話す人々は、ユーラシア大陸や海をわたって交易し、現在アルメニア本国外のアルメニア語話者の数は本国以上と言われている。
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【参考文献】
松井真之介「オスマン帝国の 1915 年『アルメニア人ジェノサイド』におけるフランスの認知問題──EU、トルコ、フランス」『ヨーロッパにおける多民族共存――多民族共存への多視点的・メタ視点的アプローチ』 (2010)国問研戦略コメント(2023-10) ナゴルノ・カラバフ問題〜戦略的見地から国交樹立へ一歩、トルコとアルメニアが協議 歴史認識では対立根深く
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