文化

【特集】追悼・森毅 鶴見俊輔 評論家 「森毅の思い出」

2010.10.04

おなじ不良少年でも、中学校二年になったところで、私は退校し、森さんは中学校、高等学校、大学とつとめあげたのはなぜか。

「鶴見さんに愛嬌がなかったからだよ」と、森さんは言う。

たしかに、森さんには愛嬌があった。そこは、名誉教授として京大を退官し、フリーの評論家になってからも、かわらなかった。

森さんには愛嬌ではなく、親切があった。ラプラスの魔について、原典はどういうものかとたずねたところ、原典のその箇所をさがしてコピーを送ってくれた。

そういうつきあいのはじまりは、朝日新聞の書評委員をつとめたころだった。おなじ宿に戻って、それから雑談するくせがついた。この仕事は長く続いたので、雑談やおたがいの体の習慣に刻みこまれた。十年ほど続いて、もはや定期の雑談をやめた後で、あれがなくなってから調子が悪いと言っていたが、筑摩書房の『哲学の森』で、もっと大がかりに、長く雑談を続けることになった。

森さんは、とんでもない本を読んでいた。イタロ・カルヴィーノの『まっぷたつの子爵』など。戯曲にもくわしい。これは、こどものころ宝塚の近くに住んで、歌劇学校の生徒たちがよく遊びに来たからではないか。

本を読むのが速く、住まいの八幡市から京都市に京阪電鉄に来るのに、学生が見ていると、科学史の本でもページをひるがえして斜めに読んでゆくのでおどろいたという。

ただ、おなじ日に詩集を七冊送られてきたときは、おなじ速さで読み進むわけにゆかず、めずらしく困っていた。

自分の家は代々、高学歴、無産者と称して、知性一筋で世を渡る気組みをもっていた。その気組みを包んでいるものが、森さんの愛嬌だった。

その愛嬌と気迫によって、森さんはとげとげしい学園闘争をやわらげる力として働いた。私は一九五四年に京大を退いたので、京大の内部で助けを受けることはなかったが、学外で、桑原武夫を代表とする京都市主催の市民講座で、森さんに助けられたことがある。三年間続いたこの講座で、私は塾頭をつとめていた。京大学長岡本道雄の講演を要約することになったとき、岡本さんの著作を読んで自分なりにまとめるのに困り果てて、森さんに相談すると、学園闘争で各派にはさまれて団交に坐った体験から、岡本学長が体力のゆとりから、どの党派に対しても話をきくという姿勢を貫いたということを実話として教えられて、その人柄から考えてゆくことができた。

雑談の中できいた話。きのこの菌糸は、土の中に長くあって、そこにたまたま動物が小便をかけると、キノコが地上に出てくる。これは、京大の教授の発見したことで、その教授の家は、きいてみると、私の家の数軒先だった。森さんは詩集を読むのは苦手だったが、この話は詩趣に富む。ひとつの寓話となって、私の中に長く残っている。

私が一年で退校となった東京都立高等学校尋常科のおなじ教室で、雨宮一郎がいた。そのことにふれると、森さんは、日本ですぐれた数学者を十人あげろと言われたら、あるいは入らないかもしれないが、十一人あげろといわれたら、彼は入る、自分は入れる、と言った。それほどの人が私と同じ教室で、私とおっつかっつの成績で静かに坐っていたとは。

やがて森さんは雨宮に連絡して、私の家につれてきた。彼は、二年生の夏休みになる前の日に、学校から私と一緒に、東横線で帰ったそうだ。明日から夏休みだねと、なにげなく彼が言うと、私は、「ぼくにとっては永遠の休みだ。もう学校には行かない」と言ったそうだ。私の退校は決まっていた。

そんなことばかり話していたわけではなく、雨宮一郎が調べていた修道女のこと、宗教哲学についての話もまじえた。数学のことは判定できないが、好もしい男だった。

彼の弟の雨宮健も私のところにきて、兄(すでに亡くなっていた)の思い出を話した。弟も数学者で、カナダの大学教授だった。同僚が解けなくて困っている問題を、では兄にきいてみようと言って問い合わせると、数日で解答を送ってきたそうだ。弟にとって、ずぬけた力をもつ数学者だったという。兄と弟の共通しているところは、ふたりとも自慢しないことだった。弟は、アリストテレスのニコマコス倫理学についての本を訳して出し、ここでは私と共通の話題があった。

もうひとつ、雨宮の弟がこのとき私に話してくれたこと。兄が重病にかかり、見舞いに行くと、彼は今読んでいる哲学の本について語り、つと立って便所に行き、戻ってくると、前の話の続きを話したそうだ。死の前のことだった。

雨宮の弟はと私とは、一九四二年夏、おなじ日米交換船で戦中の米国から日本に戻ってきた。彼は七歳だったので、当時のことはあまり憶えていなかった。

日米戦争の年月、また、それ以前の、戦争に向かう年月を、私は森毅の同時代人として生きた。森毅は、少女歌劇、三高と入ってからは長唄と三味線を習って、その時代を切り抜けた。私は不良少年として、同じ時代とまともにぶつかって放校された。

二つの道は、敗戦後に出会い、平行し、少なくとも私にとっては生涯で最も長い、愉快な雑談の時間をもたらした。その雑談の流れは、今も私と共にある。


つるみ・しゅんすけ 評論家