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【第4回京都大学新聞文学賞 審査員特別賞受賞作】河野純一『クズどもの口跡』

2025.06.01



我が社の船が島根県G港を離れると同時に魚雷が命中して轟沈する夢を見た。正夢であったらどんなによかろうと溜め息を付きながら制服に袖を通し、自宅を出た。車のフロントガラスに少し積もった雪を手で払って、わずか五分で着く職場へと向かった。

始業二〇分前にも関わらず、私を除くすべての労務員がすでに仕事をしていた。荷捌き台でせわしなく動く同僚らに挨拶したが、誰からも返事はなかった。

私は誰もいない事務室に入った。タイムカードを切り、抗不安薬をポケット瓶のウィスキーで胃に流し込み、マスクを着けた。荷捌き台に上がり、再度、同僚らに挨拶した。数人から返事があったが、福田だけは「もっと大きな声で言えよ」と文句を垂れた。こいつは自分からは挨拶しないが、他の者に対してはそれを求める面倒なやつだ。いつか殺してやると憤怒の目で福田を見ていたら、「さっさと荷物をトラックに積めや!」と怒鳴られた。私はわざと大きな声で了とする旨を伝え、山のように積み上げられた新聞や雑誌をトラックに運び入れた。一月とはいえ、重い荷物を運んでいるうち、汗が流れてくる。抗不安薬と酒の浸透も早い気がした。少し休もうと荷台の壁にもたれかかっていたら、福田が寄ってきて「小野! おまえ仕事をなめてんのか! 行先のカード取って来いや!」とまた怒鳴った。気分が良くなりつつあった私は言葉も返さず、この貨物センターから少し離れた船乗り場の営業所へカードを取りに行った。

船は、松江市のG港を午前九時に出港し、隠岐島の三港を巡って午後六時に帰港する。「S港行き」「U港行き」「V港行き」。カードの行先を確認して手に取ると、のろのろと貨物センターに戻った。福田に何か言われるかと思ったが、やつは喫煙所で煙草を吸っていた。私はカードを三台あるトラックのフロントガラスにそれぞれ差し込むと、腹立ちまぎれに足でドアを蹴って閉めた。事務室に行こうとしたら、背後から「小野君、大丈夫かいね?」と声をかけられた。振り返ると、浜村さんが心配そうな面持ちで立っていた。浜村さんは「福田さんは気難しい人だけん、気にせんでいいけん」とだけ言って事務室に入って行った。

私は喫煙所に福田がいないことを確認すると、またウィスキーで抗不安薬を飲んだ。そして、酒の臭いがばれないよう、煙草を立て続けに三本吸った。その間に船に載るであろう、大中小のトラックが目の前を通り過ぎて行った。

しばらくすると、事務室から同僚たちが出てきた。時刻は八時になっていた。ヘルメットと防寒着を身に着け、トラックに分乗し、全員で乗り場のほうへ向かった。私は、へべれけ寸前になっていたので、運転を免れたことを内心喜んだ。

港での仕事は三つ。船に載せる車両の誘導、自社トラックの船への積載、係留ロープを係留杭から外すことだった。私は三十七歳だが、同僚は全員、私より年長で勤続年数も長い。必然的に年齢、経験ともに若輩である私が三つの仕事を積極的に取り組むよう、半ば強制される。係留ロープを外す作業は一人では困難なため、浜村さんが一緒にやってくれた。福田はというと、船の甲板員や船長らと談笑しているだけだった。

船が出港し、貨物センターへと歩を進めているうち、気分が悪くなってきた。私は非力だったため、筋肉を早く付けようとステロイドも服用していた。まだ、昼の便と夕方に帰港する船の係船作業が残っている。残りの九時間、とてもじゃないが仕事ができる状態ではなかった。

私は体調がすぐれないことをセンター長に伝え、早退させてもらうことにした。車の運転は危険だったが、職場から近距離だったことが幸いし、何とか帰宅できた。部屋に入るとベッドに横になるなり、すぐに眠ってしまった。

翌日は公休だったので、私はかかりつけの心療内科に行くことにした。現状をあらかた話すと、医者は「ステロイドはいますぐやめてください!」と声を荒げた。鬼のような形相だった。

「小野さん、そもそもあなたには双極性障害の薬をかなり出しているんですよ? ステロイドは絶対にやめてください! ボロボロになりますよ!」

私は真剣に話を聞いて反省するふりをしながら、上の空だった。光輝く医者の禿げ頭に目線が行ったとたん、診断書をもらって休職することを思いついた。私は、手練手管で医者を納得させ、「鬱状態により一ケ月の療養加養を要する」との診断書を手に入れた。帰りしなに断酒会への参加を勧められたが、うまくはぐらかした。

帰宅してすぐに隠岐島の本社へ診断書を郵送した。有頂天になっていた私は、福田のパワハラの度が過ぎているとの上申書も同封した。晴れて自由の身になった私は、自宅前の波止場で釣りバカたちをからかってやろうと家を飛び出した。そこは釣りバカのメッカだが、まったく釣れないことを地元の人から聞いていた。案の定、釣りバカどもがたくさん竿を垂らしていた。私は煙草に火を付け、一人の中年男に「釣れてますかいね?」と訊ねた。「まったく釣れんわ。ダメダメ」と理想的な答えが返ってきた。私はその足でコンビニに寄り、やや値が張るウィスキーと炭酸水、弁当を買って帰り、一人で宴会を催した。

翌朝はひどい二日酔いだった。年齢を重ねるにつれ、アルコールの分解速度が遅くなっていることは自覚していたが、一口飲みだすと酔いつぶれるまで止まらない。水を大量に飲んで排尿し、二回入浴した。十二時間後にようやく酒が抜けた。夜もいい時分になっていたので、市街地の歓楽街に行くことにした。

多少の貯蓄はあったので、キャバクラに入店した。Mという店だった。美人ではないが、愛嬌のある子が横に座った。渡された名刺には「ルナ」と書いてあった。酔いつぶれたので記憶が定かではないが、ルナが一月末に店を辞めるというので、シャンパンを三本空けた気がする。

その後、ルナに情が移ったのか、私は折を見てはMへ通うようになった。何度か通っているうち、ルナがまだ一度もナンバーワンになったことがないこと、三〇〇万円を売り上げれば、ナンバーワンになれるというようなことを聞いた。私は、方々の銀行から金を借りて三〇〇万円を工面した。ルナはナンバーワンになった。後日、ラインで『小野さんしか指名してくれた人がいなかったので、感謝しています』と通知が来た。自分のことのように嬉しかった。

二月は仕事に復帰しようと考えていたので、医者から先月と同様の診断書が出されるに至っては随分参ってしまった。医者は後先考えない金の使いぶりから、私が躁状態になっているのではないかと指摘したが、まったく別のことで憤慨していた。

「小野さん、三〇〇万円も出しといて、なんでセックスしないんですか!」

「純粋に応援して、ナンバーワンにしてあげたかったので……」

事実、私にはそんな発想はもとよりなかった。長年にわたる薬の副作用で性欲はなく、勃起不全にもなっていた。

「それから、深夜に酔っぱらって電話してくるのをやめてください! まったく記憶にないでしょうけど。『法然だ、法然だ』と意味のわからないことを連呼されて、非常に迷惑です!」

医者の言う通り、まったく記憶にはなかったが、最近の酒量は以前にも増して度を越えていたので、深夜に架電してもおかしくはなかった。素直に謝罪した。

帰宅後、酒を飲みながら、「法然だ」の意味を考えていた。大学の卒業論文で浄土真宗を扱ったが、浄土宗はほとんど勉強していない。さっぱりわからなかったので、ネットで検索した。検索結果を見て思わず笑ってしまった。「法然」ではなく「豊年」だったようだ。志賀直哉の『暗夜行路』前篇のラストシーンで、女の乳房を触りながら、主人公が「豊年だ! 豊年だ!」と叫ぶところがある。そういえば、学生の時分に同書を読んだが、この謎の一節だけ強烈なインパクトを放っていた。泥酔中に何らかの深層心理が働いたのだと合点して床に就いた。

二月も半ばになったころ、ようやく本社の総務部長から上申書の件について連絡があった。総務部長は見舞いの言葉を述べてから、福田には指導をしたが、安全第一の仕事だから口調が強くなってしまうことは理解してほしいと話した。いつごろ復帰できそうかと訊かれたので、三月から復帰する予定だと答えた。ほどなく、センター長からも連絡があった。総務部長と同様のやりとりだった。これで少しは働きやすくなるだろうと安堵した私は、個人輸入禁止になる前に貯えていた、とっておきの抗不安薬「ボンバー」を一錠服用してみた。通常は心が落ち着くが、私の場合はハイテンションになる。三〇分ほど天井を仰いでいたら、じんわりと気分が良くなってきた。落ち着かなくなって自宅中をウロウロしていたら、意味もなく「豊年だ! 豊年だ!」と叫びたくなった。隣室の人に奇人だと思われたくないので、ぐっと衝動をこらえて、ベッドに仰向けになった。心中でその一節を叫んでいるうち、次第に瞼が閉じていった。

三月になり、私は仕事に復帰した。医者も特段、何も言わなかった。復帰初日、福田の対応は変わっていた。出勤して「おはようございます」と言ったら、ぼそっと「おはよう」と返してきた。荷捌き台でも怒鳴ることはなかった。荷物をトラックに積み、乗り場へ出発した。この日は私が運転した。助手席には浜村さんが座った。

「小野君、久しぶり。ダックスおとなしくなったね」

「ダックス?」

「福田さんのことだよ。みんな裏ではダックスって呼んどるよ」

私は「なんスか? それ」と笑った。浜村さんも笑った。彼は私が休職中も逐一、ラインで励ましのメッセージを送ってきていた。私は礼を言おうとしたが、恥ずかしくなって言わなかった。

乗り場に着くと、浜村さんは「よっしゃ。頑張ろう、小野君!」と軽い足取りでトラックから降りた。私も所定の位置にトラックを停めると、座席から飛び降りた。調子に乗り過ぎたのか、勢いづいて転びかけた。

車両の誘導は福田に最も近い位置に陣取った。福田は相変わらず船の連中と話していたが、数分後にあさっての方向を指さした。私が困惑していると、福田の隣にいた船長が「S港行きの、うちのトラックよこせ!」と叫んだ。私はフロントガラスに「S港行き」とのカードが挟んであるトラックに乗り込み、発車させようとした。が、なかなかギアが入らない。もたついているうちに福田がドアを開け、「車も運転できねえのか。代われ!」と怒鳴った。私は「できます!」と譲らなかった。どうやら、クラッチをしっかり踏んでいなかったらしい。トラックは動き出した。そのまま船内を前進すると甲板員が手を左にぐるぐると回している。私はハンドルを左に切った。すると、今度は右にぐるぐる。ハンドルを右に切った。甲板員は私を睨め付けると「曲がっとる! 下がって、もう一回前進しろ!」と叫んだ。二回目もうまくいかなかった。三回目でようやく真っ直ぐ駐車できた。甲板員は車止めのチェーンを叩きつけて怒りをあらわにした。私は恐ろしさのあまり、サイドブレーキを引くのも忘れて、船外へと走って逃げた。

外に出ると福田が嫌味を言ってきたが、無視した。すべてどうでもよくなった。私は防寒着から「ボンバー」を取り出すと、五錠を噛み砕き、悔しさと怒りとともに飲み込んだ。すでに脳内は雑然とした興奮で満たされていた。私はその場にうずくまった。周囲に目をやると、先ほどの甲板員と福田がこっちを見て何か話していた。

そのうち、浜村さんが近づいてきて腰を下ろした。彼は優しい眼差しをしていた。ゆっくりと何か言ったように聞こえたが、冬の浦風にかき消された。

《続きは『京都大学新聞』2025年6月1日号の紙面でご覧ください》