文化

【再掲】複眼時評「オキモノへの道」 森毅

2010.10.04

このところ、人生20年説が受けている。人生80年、1つのコンセプトで生きるには長すぎる。20年ずつ、四つの人生を生きればよい。

とくにぼくは、もう第四の人生、第2や第三の人生を引きずっていては暗くなる。体を作ってる物質はいれかわってくるし、頭の敗戦だって変わっている。あれは、他人の人生ということにしよう。昔話は好きなほうだが、それは物語として作っているにきまっている。本人だって、どこまで本当にあったことか、信じているわけじゃない。

そのうち、それなりに、4つの人生のストーリーができてきた。

第一の人生を、第二の人生の準備としてだけ生きるのは暗い。昆虫少年が銀行家になったっていいし、文学少女がただのオバサンになったってよい。約にたたぬことをしておいたほうが、第一の人生として輝きやすい。

第二の人生では、第一の人生を引きずらぬようにしよう。どこの学校で、どんな成績をとったかなんて、きっぱり忘れるのがよい。それに、この時代は社会に出て、こどもっぽさが抑圧されやすい。おとなという心理がある。おとなという強迫がある。しかし、ひそかに、こども心は隠しもっておいたほうがよい。第一の人生を輝いた思い出は、そのためだけにある。

第三の人生は、けっこう重要である。そのときに社会というのはこうしたものだとか、家庭というのはこうしたものだとか、妙に説教好きのオジサンやオバサンになりやすい。個人差もあろうが、第二の人生の生き方を保とうとするのはつらい。そのつらさの裏返しとして、第二の人生を絶対視しかねないのだ。だから、第二の人生を相対化できることが第三の人生の決め手。そのために、隠しておいたこども心が役にたつ。ここで切りかえておかぬと、第四の人生があやうい。

さてぼくは、第四の人生。うまくオジイサンになろう。いつまでもオジサンしていてオジイサンになれないとか、いつまでもオバサンしていてオバアサンになれないとかは、人生最大の不幸である。

究極の理想は、古い気や苔むした石だ。そばへ寄るとゲジゲジがいたりするかもしれぬが、たまに若者が眺めて、いい風格だなどと楽しんでくれればよい。それでいて、その存在が風景をきめていれば最上。つまりはオキモノ。

例を過去の京大総長からあげてみようか。岡本道雄さんは、いつまでもオジサンしていたようだが、妙にこどもっぽい愛嬌のあるところがよかった。奥田東さんは、うまいことオジイサンになった、そして、平沢興さんはもうオキモノの理想、ただ座っているだけでよかった。

今のところはまだ、オキモノへの道は遠い。そのうえに、本物のオキモノになる前に、おしゃべりなオキモノという悲惨な道をたどるのではないかなどと、悪い予言をする奴がいる。だから、さしあたりはオジイサン修行。

社会とか家庭、つながりの糸は薄れていくのが当然。自分ひとりのふくらみで生きるのが、老人の自律というものだ。考えてみれば第一の人生だって、最初のころは自分ひとりで生きていた。第二や第三の人生のような生産と効率の論理はもうけっこう。

そして、だんだんと風景にとけこんでいって、うまくオキモノになれるかな。

(1991年3月16日号掲載)