企画

サイクリング紀行 下鴨・一乗寺・岩倉・上賀茂

2025.04.16

漱石の『三四郎』にはこんな一節がある。1週間に40時間の授業を受けていた三四郎に、友人の与次郎は言う。

「生きてる頭を、死んだ講義で封じ込めちゃ、助からない。外へ出て風を入れるさ。」

与次郎は「電車に乗るがいい」と勧めるが、ここで本紙は新入生に「自転車に乗るがいい」と勧める。例えば遠方から京都に越してきて自転車を新調したのなら、ぜひともその自転車で京都盆地の縁から淵まで走り回ってほしい。本企画では、下鴨神社から上賀茂神社まで6つの寺社をめぐり、御朱印を収集した。本紙を参考にサイクリングを嗜んで欲しい。(編集部)

今回の紀行のルート(太線が経路)

目次

下鴨神社
詩仙堂・八大神社
狸谷山不動院
三宅八幡宮
岩倉具視旧宅
上賀茂神社
帰路


下鴨神社


春らんまんの4月上旬、午前10時過ぎ。うららかな陽の光が射す絶好のサイクリング日和だ。京大からペダルを漕ぎ出し、まずは下鴨神社に向かう。百万遍、出町柳、鴨川デルタと慣れ親しんだ場所を通り過ぎ、河原町通より続く下鴨本通を北上して駐輪場へ自転車を止めた。

紀元前創建と伝わる下鴨神社の参道には、ケヤキなどが林立する「糺の森」がある。本殿へ向けて青々としたトンネルを歩いていると、鳥居より先に茶屋が現れた。アイスクリームの写真に吸い寄せられていった(燕)に連れられ、筆者も「申餅」なるものを注文した。餅とほうじ茶を受け取り、外の椅子に腰掛ける。桃色の小さな餅を口に含むと、力強いがくどすぎない甘さが広がった。「粒あん」ですらない、粒のままのあずきの感触が実にいい。ほうじ茶でほっと一息つき、本殿へ向かう。下鴨神社名物といえる婚礼の一幕を見やり、二礼二拍手一礼を済ませ、正式名称の「賀茂御祖神社」がしたためられた御朱印もいただいた。実に快調なスタートである。次の目的地である詩仙堂方面に向け、再びペダルを漕ぎだした。

申餅とほうじ茶(500円)



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詩仙堂・八大神社


葵祭なら、斎王代の行列は洛北高校手前で左折して北大路通を西進し、植物園の辺りから加茂街道を進んで上賀茂神社に至る。が、寄り道せずにたどってもつまらない。筆者たちは遠回りして上賀茂を目指すことにし、洛北高校手前を右折した。高野橋東詰で左折して川端通へ、更にすぐ右折して曼殊院道に入る。そのまま東大路通を渡ると、途端に往来が増え始めた。叡電一乗寺駅を中心として、この近辺には道の左右に幾つもの店が軒を構える。北大路通より南のスーパーユーザーからすると、百万遍では見かけない「鮮魚店」や「とうふ」の文字が新鮮に思えた。北大路通の南北では街の雰囲気が全く異なるのが、左京区に住み始めて感じることだ。

細道を抜けて白川通を渡ると、途端に急な坂道が現れた。白川通は平地と斜面の際に引かれた道で、ここより東側は急斜面が続く。坂に負けまいと必死にペダルを漕ぐが、愛車はなかなか前に進んでくれない。体が熱くなり、思わず服の袖をまくる。すると1台の電動キックボードが、唸り声を上げる筆者たちの横を軽やかに通り過ぎていった。意地で愛車に跨り続けるのが馬鹿らしくなり、大人しく自転車を押して歩いていくことにした。

坂道を上っていくと、詩仙堂の小さな門が姿を見せた。徳川家康に仕えた武士・詩人の石川丈山が江戸時代に創建したため、「丈山寺」とも呼ばれる。門をくぐって小さな森の中を進み、味のある日本家屋に入る。鴬張りの通路を少し進むと、庭園を備えた書院にたどり着いた。紅葉でもサツキの季節でもないが、瑞々しい新緑を湛えた木々と、無機質な砂のコントラストが映える。縁側に腰を据えると、ししおどしの音が静謐な境内に響いた。ぼんやり景色を眺めていると、日頃の疲れや悩みが束の間頭の中から抜け出ていく気がする。が、クマバチが近寄ってきた途端に飛び退いてしまった筆者たちは、悟りの境地からはまだ遠そうだ。

書き置きの御朱印をいただいて退出すると、右側に「八大神社」の文字。13世紀末に建立されたこの神社には、剣豪・宮本武蔵と吉岡一門が決闘した「一乗寺下り松」の古木が残っている。ここでも御朱印をいただいた。

詩仙堂の庭



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狸谷山不動院


次に向かうのは狸谷山不動院。八大神社から更に東進し、えっちらおっちらと坂を上る。それにしてもきつい勾配だ。普段平らかな土地で過ごしている分、じわじわと足に疲労がたまる。全然サイクリングしてないじゃないか、と(燕)と毒づきあううち、目を大きく開いてこちらを見据える不気味な狸の置物たちと共に、鳥居と山中へ続く階段が見えた。やっとスタートかと嘆息し、階段を上り始める。ふと踊り場で足を止め、何気なく下の看板を見ると、「50/250」の文字。流石に心が折れかけたが、今更戻るわけにもいかない。すれ違ったおじいさんの「あと少しだよ」という励ましを信じ、ひいひい言ううちに本殿に到着した。木に遮られ、本堂からの眺望は限られていたが、先ほど通過した一乗寺の町並みが遠くに見える。それだけで達成感に包まれた。

狸谷山の開山は江戸時代初期の1718年。修験道の修行場として整備された。本堂は急斜面の上に柱を巡らせて建立されており、清水寺の舞台が想起される。本堂には不動明王像が安置されており、普段は像の手前までしか立ち入れないが、取材時は特別公開の期間で、不動明王像の真前まで向かうことができた。苦労して上ったのに「洞窟」の真相が岩のくぼみなのは肩透かしだったが、修験道の一端を体験できたと思えば儲けものか。社務所で書き置きの御朱印をいただき、苦戦した階段を今度は下っていく。欲を言えば、御朱印は書き置きでなく書き下ろしであってほしい。全て同じデザインだとしても、住職や神職の方に直々に書いていただいた方がご利益を感じられる。そんなことを思いながら麓へ至り、1時間ぶりに愛車に乗る。重力に任せ、風を感じながら坂を下っていく。春の大地を吹くそよ風とひとつになったような感覚。やはりサイクリングはこうでなくちゃ。次は曼殊院へ向け北上する予定だったが、腹の虫をいなすことはかなわず、エネルギー補給のため一乗寺駅界隈へ引き返した。

不動院から一乗寺方面を望む



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三宅八幡宮


一乗寺駅界隈の定食屋に入り、筆者は白身フライを、(燕)はチキン南蛮を注文した。タルタルソースをつけてかじりつくと、ふわりとした白身の食感に驚かされた。某ハンバーガーショップのフィレオ何某とは一線を画する旨さだ。向かい側の相方もご満悦のようで、大量にあったチキンを恐ろしい速さで口に運んでいる。エネルギーをチャージし、もう1度白川通を渡った。

先ほど右に曲がったY字路を左に進み、「曼殊院→」の看板を追いかける。家々の間に田畑も現れ、せわしない市街地の喧騒から離れたことが実感できる。田園と少しの坂を抜け、やがて曼殊院門跡に到着したが、この後の予定も鑑み、やむなく訪問を断念。そのまま北へ、三宅八幡宮を目指すことにした。

川沿いの坂を下ったり、小さな峠道を上ったりとアップダウンを繰り返すうち、京都市北部の岩倉に出た。道路にまたがる朱の鳥居をくぐり、しばらくペダルを漕ぐと三宅八幡宮に到着した。

遣隋使・小野妹子が開いた三宅八幡宮。鳥居へ向かうと、横には「狛犬」ならぬ「狛鳩」の姿があった。神域の中でも、多数の鳩が羽を休めている。宇佐八幡宮からこの地へ八幡神を迎えた際、白い鳩が道案内したとの伝説があり、今でも鳩が神の使者として愛護されているそうだ。社務所を訪ねると、神職の方が鳩の絵を描いた御朱印をくださった。鉛筆での下書きを経たかわいらしい鳩の絵からは、人の温かみが感じられる。これぞ御朱印のあるべき姿、と偉そうな考えを抱えつつ、次の目的地に向けペダルを漕ぎ出した。(晴)

御朱印の上部には鳩の絵が躍る



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岩倉具視旧宅


三宅八幡宮を後にした筆者らは1本の道を北上した。この道は白川通の延長線にあたる。京大近くとは印象の変わった通りには、あまりに凡庸な街並みが続く。ずいぶん遠くに来たような気分になるが、時折現れる下野した政治家のポスターが、まだ左京区を出ていないことを知らせてくれる。そして時折現れるY字路の存在が、その道が大きく西に弧を描いていることを知らせてくれる。目的地は実相院。天台宗寺門派の門跡寺院だ。ある丁字路に「実相院」の案内標識があった。ハンドルを右に切って、しばらく行ってからまた左に曲がる。緩やかな坂の頂上に石壁と門があった。ラストスパートに向けてギアを変えたところで、ふと看板に目が移った。岩倉具視幽棲旧宅。日本近現代史好きの筆者にとってはたまらない。すぐにハンドルを切り旧宅を訪ねることにした。

岩倉具視幽棲旧宅は、江戸末期に失脚し下野した政治家・岩倉具視が3年間暮らした旧宅だ。坂本龍馬や大久保利通も訪れ討幕に火焔をあげたという。京都の大学に通う大学生(大学コンソーシアム京都の加盟校に限る)であれば、アプリ「KYO-DENT」を用いて100円で入館できる。旧宅は木造で茅葺屋根が特徴の日本家屋だ。縁側に腰を下ろし一息つく。快晴の空から吹き込む風が心地よい。無礼にも、うたた寝をしてみる。苦境に佇む中流貴族とは境遇があまりに異なる。悔しさもなければ気概もない。岩倉が苦渋を呑んで暮らした和室で春風を浴びていると、「ほら、行くよ」と(晴)。筆者は仕方なく腰を上げた。敷地内には小さな洋館もあった。対岳文庫と名付けられ、中には岩倉関連の史料が並ぶ。岩倉具視は「比叡山に対う」という意で「対岳」と号した。洋館の設計者は武田五一。驚いたことに、京大の時計台を設計した人物である。京大との意外な縁も感じられる幽棲旧宅。100円玉と学生証を携えて是非訪れて欲しい。

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上賀茂神社


旧宅を後にした筆者らは来た道を戻り、実相院の門までペダルを漕いだ。しかしここでタイムキーパーの(晴)が地図アプリを見ながら眉間に皺を寄せる。次の目的地である上賀茂神社の閉門時間は17時。どうやら実相院を参観する時間はないようだ。仕方なくサドルに腰を下ろし、南に進路をとった。

実相院から上賀茂神社への道は約5㌔。そのほとんどが下り坂であった。半日かけて貯めた位置エネルギーを消化する。ところが気持ちの良い思いでいると事故発生。車道から歩道に進路を変えた(晴)がその段差に車輪をとられて転倒してしまった。幸い頭部を打つことはなく軽傷で済んだものの、緩んでいた2人の気持ちを引き締めるアクシデントとなった。

途中、岩倉自動車教習所の廃墟の横を通る檜峠に差し掛かった。高さ20㍍を下る400㍍の急な下り坂である。自転車道はなく、片道1車線の細い道だ。先ほどの事故が頭をよぎる。後ろから車が来ないタイミングを見計らい、この長い長い下り坂を、筆者らはブレーキをいっぱいに握りしめて下った。ブレーキを握っていてもスピードが出る。どこか柑橘の香りがする坂の下に広がっていた景色は「大きな5時半の夕焼け」ではなく、寂寞とした深泥池だった。植物学に暗い筆者にとってはアシだかヨシだか分からない単子葉植物が方々に生えている。後で調べてみると多くの生き物が住む天然記念物のようだが、筆者にはただ陰鬱とした沼地にしか見えなかった。風情のないことを考える足でペダルを漕ぎ続けた。

深泥池をすぎると2台の自転車は鴨本通を辿った。突然、堂々たるクスノキが枝を広げ葉をたくわえて筆者らを待ち受けていた。京大の時計台前に植わるクスノキとは印象が異なる。クスノキの横を掠めるように走ると、気づけば道沿いを小川が流れ、それに沿って瓦屋根の趣深い屋敷が並んでいた。どこか神聖さを感じられる。この辺りは上賀茂神社に世襲制で支えた社家が古くから屋敷を構えてきた。その情緒が、上賀茂神社の近づきを際立たせる。

上賀茂神社、正式名称は賀茂別雷神社。下鴨神社と同じく世界文化遺産である。下鴨の原生林と比べてみると、上賀茂は見晴らしがよく長閑な雰囲気が漂う。ゆっくりと散歩したい気持ちではあったが、閉門時間までに御朱印をゲットしなければならない。慌てて駐輪場に自転車を止めて境内に入った。無事にこの旅で6個目の御朱印をゲット。私物の御朱印帳にコレクションが増えて(晴)もご満悦。二礼二拍手一礼をし、おみくじを引くと中吉。「学業」「旅行」「待人」などの項目は高調子だったが「ただし過信は禁物」とのご忠告。相変わらず歯切れの悪い「恋愛」の項目には目は伏せた。さて旅も終盤。二人は賀茂川の河川敷に下り、風に乗って南に向かった。

上賀茂神社の鳥居



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帰路


賀茂川は高野川と交わり鴨川と名前を変える。その合流点は「デルタ」として親しまれている。上賀茂神社とデルタの高低差は実に30㍍。その高さを3㌔ほどかけて下るので、道のりは常になだらかな下り坂であった。京都市中心部の桜は散り始めているが、上賀茂の桜はまだ健在だった。多くの人が河川敷で、桜や水鳥を愛でたり、むしろ団子を頬張ったりして春を堪能していた。とはいえ、信号もなければ車も通らない河川敷は自転車にとっては恰好のハイウェイである。花粉症の(晴)が何度か鼻をかむために止まったのを除けば、ほとんど止まることなく川辺を滑走できた。いよいよ下鴨の雰囲気が見て取れるようになると、旅の終わりが感じられる。いつもよりも賑やかなデルタを横目に橋を渡り、百万遍に戻ってきた。まるで遠出をしたような達成感があるが、ほとんど左京区を出ない旅となった。左京区は狭いようで意外に広い。その足をペダルに乗せて、京都の風を感じて欲しい。(燕)

到着時の「デルタ」。新歓期だからか賑やかだった



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