文化

【特集】梅棹忠夫を偲ぶ 瀬戸口烈司 総合博物館元館長 「若手育生の装置の継承」

2010.08.06

梅棹忠夫さんが亡くなった。まさに、巨星墜つ、である。梅棹さんは、その生涯を通じて、いろんな局面で若手を育てる装置をこしらえて来られた。そこから輩出した人材は莫大な数にのぼり、軍団というにふさわしいひろがりを持つ。その装置の代表例が「梅棹サロン」であり、「近衛ロンド」であった。それらは、いわゆる私塾であった。あまり知られていないエピソードなども交えて、その実態を紹介したいと思う。

本多勝一さんたちが京大に学生団体の探検部をつくったのが1956年である。そのころ梅棹さんは大阪市大の助教授であったが、北白川の自宅にはしょっちゅう探検部の学生がおじゃましていた。そこで金曜日の夜に自宅を開放し、誰でも訪ねてきてもいいようにと「梅棹サロン」をはじめられた。梅棹さんが1955年の京大カラコルム・ヒンズークシ学術探検隊からもどって来られたばかりのころである。梅棹さんは若手を扇動された。たきつけられた若手の代表が本多さんと高谷好一さんである。本多さんは探検部としては最初の海外遠征隊の「東ヒンズークシ学術調査隊」を、高谷さんは「イラン学術調査隊」を成立させて、海外調査におもむいた。彼らは、現役の学生のときに、海外調査に出かけたのである。その後、本多さんは朝日新聞の記者となり、高谷さんは東南アジア研究センターの教授として活躍する。彼ら2人は、いわば、梅棹軍団の初期のメンバーである。

梅棹さんの若手を鼓舞する活動を語るには、今西錦司さんの存在を無視することはできない。第三高等学校(三高)で山岳部を創設し、京大では旅行部を拠点に活躍された今西さんは、卒業後に京大学士山岳会を設立した。ヒマラヤ遠征をもくろんだ団体である。手はじめに、朝鮮―満州国境の白頭山(中国名は長白山)を極地法によって登頂しようとこころみた。この遠征は朝日新聞社の後援を得て、随行記者が克明に報道した。今西さんは母校の京都一中(いまの洛北高校)に記録映画をたずさえて講演におとずれた。梅棹少年は在校生としてこの講演を聴いて、感動している。後年に、私が「梅棹サロン」で梅棹さんから直接聞いた話であるが、白頭山遠征の報告書が出版されたときそれを読んで梅棹さんは「ひゃー、登山の報告書に微分方程式が出たぁーる」と血がさわいだそうだ。高い山を征服しただけではない。学術的なレベルの高さに感動したのである。三高に進学すると、梅棹さんはすぐに山岳部に入部した。同期の川喜田二郎、吉良竜夫、藤田和夫、伴豊さんらと、梅棹さんは今西さんとの接触に成功する。この六名は、「団結は鉄よりも固く、人情は紙よりも薄い」ことを標語に結束を固め、ベンゼン核と呼ばれた。

梅棹さんたちは、今西さんが創設した別の団体「京都探検地理学会」の学生メンバーとして遇された。この会の主催した「ポナペ島」の遠征に梅棹さんも参加し、現場で今西さんにきたえられる。京大に進学してから、1942年の「大興安嶺探検」にも参加の機会を得ている。双方ともに、隊長は今西さんであった。梅棹さんは、行動派 の学生として学問分野でもきたえぬかれていった。そして、今西さんが中国内蒙古の張家口の西北研究所の所長として赴任されるとき、梅棹さんも嘱託として同行した。終戦後に帰国した今西さんは、『自然と文化』という学術雑誌を創刊し、梅棹さんたち若手の研究者の成果を論文として発表する場を設定した。『自然と文化』に梅棹さんは、「乳をめぐるモンゴルの生態」などの論文を次々と発表してゆく。

第二次大戦後、新設された大阪市大の理学部の助教授の職を得た梅棹さんは、前述のカラコルムの遠征に参加し、その体験をベースに有名な「文明の生態史観序説」を執筆した。そして自分が学生時代に今西さんから薫陶を受けた経験をそのまま次代の学生に伝授されていった。その装置が「梅棹サロン」だった。幾多の探検部学生が「梅棹サロン」で育っていった。梅棹さんは、若手の活動の結果を本にして出版する場を設定した。それが「アサヒ・アドベンチュア・シリーズ」である。探検部の高橋徹さんの『忘れられた南の島』、吉村文成・嶋津洋二さんの『アメリカ大陸・縦と横』はこのようにして生まれた。

1964年に今西さんの後任として京大人文科学研究所の教授に赴任すると、私的なグループ「京大人類学研究会」を組織した。この研究会は毎週水曜日、近衛通りにあった「楽友会館」で例会を開催したから、「近衛ロンド」と呼ばれた。1969年から70年にかけて吹き荒れた大学紛争のさなかにあっても、「近衛ロンド」は自主講座を欠かさず開催し、これもまた、幾多の若手を育てることに貢献した。

梅棹さんは、「近衛ロンド」で育った若手の研究発表の場として、『季刊人類学』を創刊した。自分がかつて『自然と文化』で研究成果を発表してきたのと同じ場を次代の若手に提供されたのであった。京都大学の多数の教官群は、それぞれの立場で研究会を主催し、若手の指導にあたっている。しかし学術雑誌を創刊し、その研究会における活動結果を発表する場を提供した実例を、私は知らない。「近衛ロンド」で育った若手は、『季刊人類学』に論文を執筆することで、研究者としてさらにきびしくきたえられていった。

若手を育てる装置として梅棹さんがかかわってこられた「梅棹サロン」、「アサヒ・アドベンチュア・シリーズ」、「近衛ロンド」、『季刊人類学』はすべて私的な存在である。公的機関の大学、学会が関与する組織ではない。「梅棹サロン」、「近衛ロンド」は私塾なのである。この私塾を拠点に梅棹さんは軍団を作り上げた。

国立民族学博物館(民博)を設立してからは、梅棹さんは公的機関の場を利用して、さらに軍団を成長させていった。「近衛ロンド」できたえられた探検部の若手研究者の幾人かは、民博に職を得て、「文化人類学で飯が食える」ようになった。その代表が石毛直道さん、松原正毅さん、端信行さん、吉田集而さんである。

梅棹さんは、まさに巨星であった。


せとぐち・たけし
前探検部長、元総合博物館長・名誉教授