複眼時評

喜多一 国際高等教育院教授「教科書を考える」

2024.12.16

もうすぐ定年を迎えるので、半世紀近く前のことで恐縮だが、大学に入学して驚いたことの一つが授業を担当している先生ご自身が執筆・出版されている教科書をお使いになるということである。高等学校まではおよそ考えられないことで、大学の先生は偉いんだなぁ、と単純に感心した。他方で、大学の教科書は高価である。専門性から発行部数が少ないことに起因するのだろうが、学生や親にとっては家計を圧迫する要因でもある。

その後、教員になり、やがて自分自身が担当授業の教材を作らなければならなくなった。20年ほど前あたりから大学改革とかで、教育改善のためのファカルティ・デベロップメント(FD、教員の能力開発)が叫ばれるようになった。しかしながら、大学での教科書はどうあるべきで、どう書けばいいのか、ということを学ぶ機会はなかった。書店との付き合いでも、編集者は、採算の取れるページ数を示し、用語や言い回しの校閲をしてくれるだけでどうもそれ以上のことは言わないようである。

目から鱗だったのは、2002年に前職の用務で英国のオープン・ユニバーシティ(OU)へ訪問調査に行ったときのこと。多様な学生を受け入れての遠隔教育で実績のある大学である。

そこで教えられたのが遠隔で学ぶ学習者を組織的に支援しているということ。「OUには教員(ファカルティ・メンバー)は居るが教師(ティーチャー)は居ない」と言われた。教員の責務は、学習内容の決定と学習者の学習成果の審査だとのこと。学習内容を教材として表現するのは編集者の仕事、そこで参照されている資料をオンラインで提供することは図書館の仕事、そして学習者の学習ペースづくりはチューターの仕事として組織化されている。「OUの教師は教科書そのものだ」と言われた。

大学設置基準という大学の授業を規定しているルールでは、多くの半期の授業で発給される2単位は90時間の学修時間を要する内容だとされている。15回程度の授業はそのうちの30時間にあたり、残りの60時間は学生自身による自学自習に委ねられている。しかしながら教員の中には教科書は15回の授業でその先生が紹介できる(講義で話せる)内容かどうかで判断する人もいる。

制度から考えて教科書は教員が30時間の授業で口述するためのものではなく、学生が90時間をかけて学ぶことを支えるツールであるべきである。最近は反転授業といって、予習を前提に教員と学生が時間を共有できる貴重な授業時間は議論などに充てる教授法も注目されている。「教科書が教師」という考え方に立つ方が自然である。

国際高等教育院による全学共通科目の見直しの中で、18年度からプログラミング演習(Python)という科目を担当することになった。手探りで実施した18年度はスライド教材を作成して用いたが、授業実施の経験を踏まえて19年度には教科書を作成し、電子版を学生に無償で提供するとともに京都大学の学術情報リポジトリKURENAIで公開した。知人のツイートを契機に学びやすいとの評価を頂き、数多くダウンロードされた。

授業で扱うプログラミング言語Pythonについては、すでに数多くの本が出版されている。ただ、この種の本は、「何かの目的にためにプログラミングすること」を学ぶのではなく、Pythonというプログラミング言語の、それもしばしばその文法の紹介に終始しがちであり、目的に沿ったプログラムの設計、実装、テストをすることまで紹介されることは少ない。これについては、少し大きめのプログラムを開発する他大学との共同研究の中でその必要性や手法を学んだ。

また、市販されている教科書では実際に学ぶ学生諸君が直面する多くの躓きへの配慮もされないことが多い。

あるプロジェクトでマイケル・ポランニーが言う暗黙知という言葉を教えてもらった。暗黙知は言葉で明示化されない知のありようを指すが、これを把握するにはフィールドワークやエスノグラフィーと呼ばれる人類学や社会学の手法が有用である。そして、その暗黙知を文章などで明示化した形式知にし、それを用いた実践の中で新たな暗黙知を形成する、このような知識循環のサイクルは野中郁次郎と竹内弘高両氏が提唱された組織における知識経営のSECIモデルとして知られている。

学生諸君のプログラミングの学習での躓きについて、教室での授業や課題の採点で学生への指導は往々にして、その場限りの対応に留まり暗黙知として存在している。これを観察対象として気づき、書き留め、教科書として形式知にする。共著者の岡本雅子氏は大学院生として私の研究室でこのことをテーマに学位を取得された。

その形式知を前提に授業を行いレベルアップした学びの中で新たな暗黙知が生まれる。このようにして、教科書を毎年改訂し、大きく構成を変えた21、23年版はKURENAIで公開している。

ただ、教科書を授業する教員自身が書いているというのは授業としては今一つなのかもしれない。

仏典にしろ、論語にしろ、聖書にしろ、釈迦や孔子、キリストは執筆していない。ソシュールの言語学も授業で学んだ人たちが講義録をまとめた。全学共通科目の授業で今でも使用されている授業がある小針晛宏先生の「確率・統計入門」は素敵な教科書であるが、これは小針先生が若くして亡くなった後、友人の数学者たちが著者の原稿を整理して出版したものだとのことである。

喜多一(きた・はじめ) 国際高等教育院教授。専門はシステム工学・情報教育