南山城村紀行 ~「京都の最果て」を訪ねて~
2024.12.16
京大生の多くが住む京都府、その「最果て」はどこだろう。地図を開いてみると、その答えになりそうな自治体を見つけた。南山城村――京都府東南端に位置する、府内唯一の村である。この地はいかなる伝統や産業、そして人々を擁するのか。村のイマを発信する道の駅、踊りを次の世代へと伝承する保存会、地域の人々と支え合いながら営むカフェ……。現地で目にしたのは、避けられぬ過疎化の波と向き合いながら、各々の立場で村を盛り上げようとする、色彩豊かな人々の姿だった。(晴)
京都府の東南端に位置し、三方を滋賀・三重・奈良県に囲まれた、府内唯一の村。人口は2384人(11月時点、村発表)で、京都市のおよそ600分の1。
村の主産業は農業で、お茶や椎茸の栽培が盛ん。大規模商業施設やコンビニはなく、道の駅や個人商店、三重県伊賀市での買い物が主流。
村内には関西本線の大河原駅・月ケ瀬口駅があり、1時間に1~2本程度の間隔で東西を結ぶ。国道163号で木津川市や伊賀市へ抜けることもできるので、京都市からも比較的アクセスしやすい。平日は予約制交通「村タク」も利用でき、村内であれば1回300円の均一料金で移動可能。村民でなくても、前日までに予約すれば利用できる。
今回は中央部の北大河原地区、ならびに南部の田山地区を訪問した。取材は11月3日(日・祝)、編集員3名(晴・燕・雲)で実施した。道の駅運営会社・森本さんへの取材は同月28日(木)、オンラインで実施した。
朝7時前に出町柳駅を出発し、2時間弱で北大河原地区の月ケ瀬口駅へ。道の駅を訪問後、月ヶ瀬ニュータウンに立ち寄った。10時に4㌔先の田山地区へ徒歩移動を始めたが、急勾配に苦戦し、到着まで1時間強を要した。旧田山小で保存会の方々のお話を伺ったのち、13時から15時まで「田山の花踊り」を観覧。その後は旧田山小にてカフェの取材を行ったが、取材中の17時に日没。カフェの方のご厚意で月ケ瀬口駅まで送っていただき、再び電車を乗り継いで京都市内へ戻った。
村の玄関口・道の駅
道の駅は「村のダイジェスト版」 運営会社社長・森本さんにインタビュー
茶畑の上のニュータウン
歩いても歩いても…
祈りの花踊り
過去から未来へ踊りを繋ぐ 保存会会長・久保さんにインタビュー
ノスタルジア漂う廃校カフェ
南山城は「混ざり合った色」 カフェ店長・永尾さんにインタビュー
帰るまでが紀行
取材後記
日の出間もない朝6時45分頃、京大に近い京阪出町柳駅を出発した。深草、藤森などの住宅密集地を抜け、あっという間に丹波橋駅に到着。近鉄線へ乗り換えて南下を続けているうち、木津川を渡ると田畑がまばらに現れてくる。新祝園駅からJRの祝園駅へ乗り換え、学研都市線で木津駅へ。更に大阪から8両でやって来た大和路線に乗り換え、1駅先の終点・加茂駅で下車した。向かいに停まる乗り換え列車に目をやれば、そこにいたのは1両の気動車。ここから先の沿線人口の少なさを感じさせる。
ディーゼルエンジンの唸り声と共に、加茂を出発。ものの3分もすると、平らかだった車窓の風景は木津川沿いの急峻な渓谷に変わり、列車は崖と川の僅かな隙間を縫うように走っていく。折しも取材前日は近畿一帯に豪雨が降り注ぎ、この区間も運転見合わせになっていた。雨の激しさを示すように、木津川の水は茶色く濁っていた。
列車は村役場に近い大河原駅を通り、8時40分頃に月ケ瀬口駅へ到着。出町柳から2時間弱、5本の電車を乗り継いだ。
村に降り立ったが、気温は京都市とそう変わらない。改札を出るといきなり目に入るのは、瓦屋根の和風建築と、車1台がやっと通れるほどの細い道路。その背後には幾多もの山がそびえる。長野県の農村で育った筆者には、その風景が祖父母の住む山あいの集落と重なって、懐かしい感じがした。
煉瓦造の隧道で鉄路の下をくぐり、東西の幹線である国道163号を渡って、最初に訪れたのは「道の駅お茶の京都みなみやましろ村」。駅から徒歩10分の場所に、2017年に開業した施設だ。今年5月に出版された『道の駅最強ランキング』では、全国千以上の道の駅の中で1位に輝いた。
まずは腹ごしらえのために食堂に入り、茶粥御膳を注文した。しばらくして運ばれてきたのは、茶粥のほかに焼き魚や卵焼き、切り干し大根などが並んだ彩り豊かな御膳。ほうじ茶で粥を作れば渋みが出そうなものだが、茶粥は優しい甘味とほのかな塩味をたたえており、おかずにもよく合う。お茶の懐の深さを体感する機会となった。
続いて物販コーナーに足を運ぶと、所狭しと並ぶ農産物に目が向く。お茶や椎茸のほか、米や大根、ネギにしし唐と、村の農作物の豊饒さが感じられる。土産物コーナーでは村産の抹茶に加え、道の駅のオリジナル菓子「むらちゃプリン」なども販売されている。取材日は祝日ということもあり、ブースは多くの観光客であふれていた。加えて店内には、即席麺やスナック菓子、文房具などの日用品を売る地元民向けのスペースも設置されている。地元民も観光客も立ち寄るこの道の駅は、まさに南山城村の玄関にして一大拠点といえよう。
物販コーナーの営業時間は9時から18時。食堂の営業時間は平日8時から17時、休日7時30分から17時。6月第3水曜日・12月第2水曜日は休業。
村おこしの拠点として開駅した道の駅。その特色や取り組みについて、株式会社南山城の社長・森本健次さんにお話を伺った。
―2017年に開駅。そこまでの経緯を。
計画が動き出したのは「地域活性化」が話題になっていた2010年頃です。当時の村長の「道の駅を作って賑わいを生み出そう」という思いつきが発端で、旧田山小の活用など、役場で公共事業を担当していた私が抜擢されました。理想はただ土産物を売る「ハコモノ」ではなく、村おこしの拠点。最終的には地域の農産物を加工販売する、6次産業モデルを基にした地域商社を目指すことになり、同様のモデルで成功していた道の駅「四万十とおわ」を運営していた株式会社四万十ドラマにノウハウを教わりながら準備を進めました。その時先方の社長に覚悟を問われ、役場を辞めて運営会社の社長になる決心をしました。
―この道の駅独自の理念や施策は。
今は外部企業に運営委託する「道の駅ビジネス」もありますが、「それだとよその道の駅みたい」と村の方に言われたことがありました。村が出資する第三セクターとして運営会社を設立し、テナントも入れず、全て自社で運営することにこだわりました。地元の人の手で、地元の資源に付加価値をつける地域振興を目指しています。村の人の営みを推したいので、道の駅のテーマカラーは絣の着物やもんぺなど、農家さんの作業着の色である藍色にしました。
道の駅のコンセプトは「村のダイジェスト版」です。その一環として、南山城村の「お茶」のイメージの醸成に努めています。南山城村は京都で2番目の宇治茶の産地ですが、宇治茶の主生産地は宇治市だと思っている人が多く、「宇治茶と南山城村が繋がらない」といつも言われていました。「むらちゃプリン」などの自社製品の製造や、公務員時代にお茶農家さんと作り上げた「南山城紅茶」の取り組みで気づくことになる商品開発に力を入れています。
また高齢化が進む中、企業理念の「村で暮らし続けることを実現する」ために、インフラ面でも道の駅が担える役割があります。日用品を揃え、要望があれば宅配もするなど、買い物弱者対策を行っています。更に収穫祭を開いて農家さんの発表の場を作ったほか、地元の方を60人ほど雇うなど、雇用対策もしています。
―開駅して8年目。村おこしの手応えは。
村の知名度の向上に貢献できていると思います。開駅前は村の誰もが失敗すると思っていて、「3ヶ月で潰れるぞ」と言われもしました。でも今では「南山城村って知ってる?」と外の人に尋ねると「ああ、道の駅の」と返してくれることが多いと聞きます。百貨店の催事で首都圏に商品が行くこともあり、村の名前が色んなところに広がっています。10年前では考えられなかったことですね。
―成功の要因は。
立地が大きいと思います。確かに南山城村は山間地域ですが、地図で見れば近畿のど真ん中にあるんです。大阪や京都、神戸や名古屋から2時間前後で来られる、ちょうどいい距離。また、百貨店や代理店に繋いでくれた四万十ドラマの力も大きいですね。
―道の駅の今後の展望は。
加工場での自社生産を行ってきましたが、最近は製造が追いついていないため、より大きな工場を作って生産能力を拡大したいですね。京都市内の土産物店などに置いてもらえるよう、保存期間の長い商品づくりも進めたいです。
―南山城村に対するイメージは。
「人の魅力」が出てきたなと思います。例えばお茶でも、生産者さんの理念が共感を呼び、それが購買に繋がることもあります。これまで眠っていた「人の暮らしから生まれる魅力」という資源に皆が気づき始めて、そこから波及効果が生まれてきていると思います。
―ありがとうございました。
次の予定まで時間があったため、道の駅から見えた茶畑に足を運ぶことにした。西進して坂を上り、見渡す限り広がる茶畑の中を進む。お茶の葉に日光が降り注ぎ、瑞々しい緑がいっそう引き立つ。大学の食堂で出ている緑茶も、遡ればここから来ているのかもしれない。
15分ほど歩いていると、整然とした住宅街に出た。「月ヶ瀬ニュータウン」だ。1976年より入居が始まり、ピーク時には人口が千人を超えた。2020年時点での人口は792人で、今も村民の約3分の1がここに居住している。
ニュータウンの中は近代的な洋風建築が立ち並び、月ケ瀬口駅周辺とは異なる趣だ。だが歩き始めて数分、(雲)がふと「なんだか静かだね」と口にする。確かに今日は休日だというのに、子供の遊び声も車のエンジン音も聞こえない。加えて、すれ違った住民が皆お年寄りであることも気にかかった。月ヶ瀬ニュータウンにおいて65歳以上の住民が占める割合は約45%。この山中でも、都市近郊で問題になっている「ニュータウンの高齢化」が進行しているのだ。
街の中央部、店舗が集積するエリアに歩を進める。日曜日ということもあるのだろうが、ほとんどの店はシャッターを下ろしており、お世辞にも活気は感じられない。駄菓子屋を経営する50代の方にお話を伺ったが、「人口は減少傾向にあるし、高齢化も進んでいる。昔に比べたら寂しい、活気がない」と寂しげだった。
家々の間には、まだ家屋が建ちそうな空き地が点在する。土地が売れなかったのか、それとも住人が引っ越して家を壊してしまったのか。本当のところは分からないが、そこに人が住んでいないという事実は確かだ。少子高齢化と過疎化、山間地域の厳しい現実が垣間見えた。
10時過ぎ、山あいの田山地区へ向かうためにニュータウンを発った。土休日は「村タク」が利用できないため、4㌔強を徒歩で向かう。ところが、この山道が想定外に険しい。まず坂の手前までの1㌔は道幅が狭く、前から後ろから高速でやって来る車にヒヤヒヤしながら歩かねばならない。続いて坂を上り始めたが、進んでも進んでもきつい上り坂が続くばかりで、一向に終わる気配がない。目に映るのも緑色の木々や茶畑、そして灰色のアスファルトと代わり映えがしない上、11月だというのに厳しい日差しが照り付ける。息が上がり、額には大粒の汗が浮かぶ。まだか、まだかと愚痴をこぼす(燕)に付き合っているうち、3㌔過ぎでようやく下り坂に変わったものの、結局1時間以上を費やして田山に到着した。約100㍍の標高差を上る厳しい道のりで、否応なく村の山岳環境を実感した。
今日は年に1度の「花踊り」が行われる日だ。地区の中心に位置し、クライマックスの踊りが披露される諏訪神社には大勢の人が集まり、神社から旧田山小学校に繋がる道にはのぼり旗が立つ。祭りに似た高揚感に、田山地区全体が包まれていた。
13時、花踊りが始まった。まずは旧田山小の校庭で、12ある踊りの1つ「愛宕踊」が披露される。歌い手の歌と、太鼓や法螺貝の音が響く中、体感で10㌕はあるという竹刀を背負い、中踊りはまず大きく腕を広げる。次いで左足を大きく踏み出し、その足を軸にして半回転、片足立ちする。両手に持っている太鼓ばちを右、左、右と振りかぶると、再び腕を大きく広げ、今度は右足を大きく踏み出して半回転、右足で片足立ちする。ばちを右、左、右と振りかぶり、そしてまた左足を踏み出し……。これが一連の動作だ。大きく、赤と緑が鮮やかな竹刀の飾りが踊るたびに揺れ、青空に映えて美しい。中踊りの周囲には天狗と「ひょっとこ」の面を被った手練れの師匠がおり、振付を間違えた中踊りに正しい動作を教えているのだが、その姿勢や仕草があまりに道化らしくて、滑稽だった。
この演舞が終わると、「いりは」と呼ばれる行列に移る。行列に参加するのは中踊りや歌い手に加え、田山地区の子供たち。少年たちは白衣黒袴に身を包み、凛々しい顔つきで勇壮な棒振りを披露する。整然と揃った美しい演舞に見とれていると、今度は先ほどよりも小さな子たちがやってきた。棒ささらを鳴らし、太鼓や法螺貝のリズムに合わせて「ヤー、ハー!」と掛け声を上げながら進んでいく。隣の子とおしゃべりしたり、列から外れたりと不揃いながらも、精一杯の声を張り上げて演舞する少年少女の姿は微笑ましかった。
行列が諏訪神社に到着すると、神主が大幣で来訪者を清め、境内での踊りが幕を開ける。「神夫知」と呼ばれる小学生が太鼓の上に乗り、花踊りの歴史を概説した後、「御庭踊」が始まった。中踊りが膝を地面につけたかと思うと、体を大きく揺すって花飾りを地面にこすりつけ、豪快な動きで観客を魅了する。振り付けが変わっても、中踊りたちは躍動感あふれる踊りを披露し続け、観客はその姿をじっと見つめていた。
踊りが終わり、最後は毎年恒例の餅投げだ。神社の一段高くなった場所から、来賓が観覧者に包装付きの餅を投げる。ところが投げられた餅は勢いがあって、体に当たれば痛そうだ。首から下げたカメラに当たらないよう、落ちてきた餅を前傾姿勢で慎重に拾う。幸い怪我も物損もなく、餅も3つ拾うことができた。餅投げを終え、今年の花踊りは盛況のうちに幕を閉じた。
雨乞いとの関連は薄れているといえど、前日の豪雨は踊りを受け継いだ人々への、神からの贈り物だったのかもしれない。人口減少にも負けず、次の世代へ伝統を繋ごうとする人々の姿は美しかった。
踊りの支度が行われていた旧田山小にて、「田山花踊保存会」会長の久保憲司さんに、花踊りの歴史や現状についてお聞きした。
―花踊りの内容について。
元々花踊りは「願済ましの踊り」でした。山間部の田山地区は少雨に悩まされていたので、雨降りの願掛けを家々で諏訪神社に行い、全戸がし終えると花踊りを奉納しました。降雨の有無に関わらず、願掛けを受け止めてくれた神への感謝を花踊りで表現するわけです。現在は雨乞いの関連儀式という側面は薄れ、五穀豊穣や家内安全を願う踊りに変わっています。「花踊り」という名前は、踊り手の「中踊り」が背負う飾り付きの竹刀の最上部に、花びらを模した切り抜きを配することに由来します。
花踊りは、旧田山小での踊り、旧田山小から諏訪神社にかけての行列「いりは」と、神社での踊りの3部構成です。全12曲ある踊りの歌のうち、毎年2~3曲披露します。
―花踊りの歴史や変遷について。
踊りや歌の内容を鑑みると、鎌倉時代が起源とみられます。奈良市柳生地区の花踊りを下敷きに生まれたようです。長らく奉納を続けていたものの、1924年を最後に1度途絶えてしまいました。
63年初め、断絶していた花踊りを復活させるため、地区の有志により「田山花踊保存会」が設立されました。その年の10月に奉納を再開してからは、今日まで60年近く踊りを続け、70年の大阪万博、94年の平安建都千二百年祭でも踊りを披露しました。しかしコロナ禍の時期は中止せざるを得ず、昨年ようやく踊りが再開できました。
―資料も十分にない中、どうやって踊りを復活させたのか。
歌は寛政期の古い資料がありましたが、踊りの資料はありませんでした。そこで大正期の花踊りを知る方々を師匠として迎え、口伝えで踊り方を指南してもらったそうです。40年途絶えていた花踊りを復活させた、先輩方のエネルギーはものすごいですね。
―次の世代へ踊りを受け継ぐ取り組みは。
現在の会員は約100名。今年は2名の青年が入会してくれましたが、それでも若い人たちの数がどんどん減っていて、踊りの伝統を守っていくのも大変な状態です。昔は踊りに参加する子供も男子のみでしたが、今は女子にも参加してもらっています。
保存会への入会は18歳以上の男性に限っていますが、小さい頃から踊りを知ってもらうことも大切です。最近は南山城小学校へ出向き、児童へ向けて花踊りのことを説明しています。田山以外の地区の児童にも広報活動をすることで、大きくなったら踊りに参加してもらいたいと思っています。
―踊りを迎えるにあたっての思いを。
コロナ禍の3年ほどは踊りが披露できず、今年は再開後2度目の花踊り。昨年は会員の士気が低く苦労しました。今年の最初も会員の士気が上がらず、開催が危ぶまれましたが、各方面からご支援をいただき、機材や衣装を新たに購入しました。踊りに取り組める体制を作ったことで、会員一同が一生懸命稽古してくれました。精一杯の踊りを披露したいですね。ただ昨日は大雨で、踊りを披露できるか気を揉んでいましたから、今までの困難も含めて「やれやれ」といった気持ちもあります(笑)。
―ありがとうございました。
お話を伺った後、支度の様子を見学した。男性だけが身支度をしているのが気になり、手伝う女性にわけを伺うと、祭りの演舞は女人禁制なのだという。しかし演舞する男性の支度を手伝うことで、女性も踊りの一翼を担っている。「花踊りは田山の人にとって最も重要な行事。踊りを見るのが待ち遠しい」と、女性は顔をほころばせた。
続いて話を聞いたのは、田山地区に住んでいるという13歳の少年。昔は太鼓を、今は棒振りを担当しているという。祭りには保存会の会員に加え、田山地区の子供たちも参加する。少年は「面倒くさいと思う年もあったが、コロナ禍が明けた去年の踊りは懐かしい気持ちになった。今年もワクワクしている」と、目を輝かせながら意気込みを話してくれた。
時刻は15時、神社から旧田山小へと戻る。昼食を取っていなかったため、腹ペコの(雲)が道中で餅を口にしたが、「硬い!」と一言。どうやらこの餅は焼いて食べるものだったらしい。
気を取り直し、3分ほど歩いて旧田山小に到着。明治時代に開校し、田山地区の子供たちが多く通っていたこの学校は、2003年に廃校となった。その後は複合施設「は・ど・る」として生まれ変わり、喫茶店や木工作品の制作を行う工房が設置されている。
木造の校舎へ足を踏み入れると、目に飛び込んでくるのはかつての教室。掲示物の跡が残る掲示ボードなどがそのままの姿で残され、横の廊下には「右がわをあるこう」の看板が立つ。時が止まったようにかつての姿を留め続ける備品類が、昔日の学び舎を偲ばせる。
教室の1つを改装した喫茶店「cafeねこぱん」は、部屋の壁や床全体に手入れが施されているものの、廃校舎が持つノスタルジックな雰囲気をうまく残した内装は見事だ。
注文したのはベーグルランチ。主菜は蜂蜜とマスタードソースがかかったローストポークで、口に入れると蜂蜜の甘み、マスタードや肉の塩気が絡み合い、重層的な和音を奏でる。ターメリック風味のベーグルも主菜によく合う。付け合わせの野菜でターメリックや豚のずっしりとした後味が中和され、飽きることなく楽しめた。
続いていただいたのはほうじ茶ラテとチーズケーキ。ほうじ茶は南山城村産の茶葉を「砂煎り製法」という特殊な製法で焙じたもので、通常のほうじ茶よりもいっそう香り高い味が楽しめる。チーズケーキの濃厚な味との相性がよく、ほっと一息つくことができた。
カフェ・工房ともに、営業日は第1〜3土日の11時から17時。
喫茶店と木工工房を運営している永尾さんに、南山城の地でカフェと工房を開いた理由や、村の印象について伺った。
―南山城村に工房を開いた理由は。
元々は大阪や兵庫の大学等で空間デザインを教えており、後に木工を勉強しました。工房を開く場所を探していたら、「南山城村に廃校がある」と木工職人の方が教えてくれたんです。当時は田山小が廃校になって3年で、ご厚意により、この場所に工房を開設することが出来ました。
―工房を開いたのち、カフェも開店した。
Uターンや移住・観光など、村に人を呼び込むための魅力を作っていく一環として、工房を開いてから1年後にカフェを併設しました。
工房やギャラリーを訪れた方がゆっくりできる場所を作りたい、という思いもありました。「できるだけここにあるものを生かしたい」という考えをもとに内装をデザインし、傷んでいた天井や壁を塗り替えて、店内には里山の花や木々を飾っています。店名の「ねこぱん」は、オープン前にパンを試作で焼いた際、猫が扉の前に座っていて、「猫も買いに来るパン屋みたい」と話したのが由来です。
―おすすめのメニューは。
南山城村の茶葉で作られた和紅茶「南山城紅茶」です。今年の紅茶の全国コンペでは3つの賞を受賞されました。日々作業工程に工夫が加えられ、香りや味が収穫年によって変化していくところも魅力です。
料理にはお茶をはじめ、蜂蜜やブルーベリー、椎茸、お米など村の食材を使っています。近所の方から季節の果物や野菜をいただくこともあり、豊かな食材に恵まれるという幸せをしばしば経験しています。
―村民との関係は。
支えていただくことがとても多いです。校舎にお花を飾ってくださったり、昔ながらの生活の知恵を教わったりしています。また村内のイベントなどに参加しつつ、外からのお客様にも村を知ってもらうため、役場や道の駅と協力して観光客を招いた体験ツアーなどにも取り組んでいます。
一方、移住してきた方とも交流しています。やりたいことは皆違いますが、お互いに切磋琢磨を重ねていきたいです。
―南山城村に対するイメージは。
20年前と比べて、お茶の生産地ということもあり茶農家や茶業関連の方が多いイメージでしたが、村民の暮らしを楽しむ生き方に惹かれて、新しい移住者が徐々に増えてきたように思います。その新しい移住者の多彩な暮らしぶりが、さらにまた新しい人を集めていくという、良い連鎖が続いている感覚です。モノトーンではなく、沢山の色が混ざり合うイメージです。
―今後の展望や目標を。
村の良さを伝えていきたい。それぞれの専門を活かして村がより良い方向へ変化していくのが楽しみです。
―ありがとうございました。
時刻は18時。こうして全ての取材を終えたが、最後の最後に思わぬピンチが訪れた。永尾さんとのお話が盛り上がり、取材中に外が真っ暗になってしまったのだ。街灯のない夜道を歩くわけにもいかず困り果てていると、永尾さんのご厚意により駅まで送っていただくことに。見ず知らずの大学生に親切にしてくださる心暖かさに感激し、月ケ瀬口駅でお別れした。
ここからは往路と異なり、東に進んでJR線を乗り継いでいく。まずは柘植駅まで関西本線に乗り、草津線へ乗り換え。疲れがたまっていたのか、筆者と(燕)が舟を漕いでいるうちに電車は草津駅に到着し、琵琶湖線で山科へ、そこからは地下鉄東西線で東山駅へと家路をたどった。「帰るまでが遠足」という先達の言葉の重みを改めて感じる旅だった。
以上、南山城村の過去・現在・未来に繋がる様々なスポットを巡り、多くの方々にお会いした。「最果て」は得てして「辺境」と同一視され、停滞的なイメージとも容易に結びつく。だが、南山城村は決してそのような場所ではない。ルート地図で示したように、広域交通網の中に組み込まれ、京都市や他の都市からもアクセスしやすい。人々の往来も活発であり、移住者も年々増加しているという。その意味で南山城村は「最果て」ではなく、発展の可能性を秘めた「フロンティア」と呼べるのかもしれない。
取材の最中に感じたのは、村の人々の関わりの強さだ。お会いした人々の活動が、別の方の活動と関わってくる。「狭い田舎だから」と自虐的に語る方もいたが、離散的な共同体が形成されがちな都市部とは良くも悪くも異なる、距離感の近いコミュニティの姿があった。
何より印象に残ったのは、それぞれの立場から村に貢献しようとする、出会った方々の情熱、そしてひたむきさだ。十人十色の領域で活躍し、鮮やかに輝く人々が、南山城村にはいた。
末筆ながら、道の駅の皆様、花踊り保存会の皆様、カフェの皆様、そして取材にご協力いただいた村の方々に御礼申し上げ、この紀行文を閉じることにする。
南山城村とは?
京都府の東南端に位置し、三方を滋賀・三重・奈良県に囲まれた、府内唯一の村。人口は2384人(11月時点、村発表)で、京都市のおよそ600分の1。
村の主産業は農業で、お茶や椎茸の栽培が盛ん。大規模商業施設やコンビニはなく、道の駅や個人商店、三重県伊賀市での買い物が主流。
村内には関西本線の大河原駅・月ケ瀬口駅があり、1時間に1~2本程度の間隔で東西を結ぶ。国道163号で木津川市や伊賀市へ抜けることもできるので、京都市からも比較的アクセスしやすい。平日は予約制交通「村タク」も利用でき、村内であれば1回300円の均一料金で移動可能。村民でなくても、前日までに予約すれば利用できる。
今回は中央部の北大河原地区、ならびに南部の田山地区を訪問した。取材は11月3日(日・祝)、編集員3名(晴・燕・雲)で実施した。道の駅運営会社・森本さんへの取材は同月28日(木)、オンラインで実施した。
今回のルート
朝7時前に出町柳駅を出発し、2時間弱で北大河原地区の月ケ瀬口駅へ。道の駅を訪問後、月ヶ瀬ニュータウンに立ち寄った。10時に4㌔先の田山地区へ徒歩移動を始めたが、急勾配に苦戦し、到着まで1時間強を要した。旧田山小で保存会の方々のお話を伺ったのち、13時から15時まで「田山の花踊り」を観覧。その後は旧田山小にてカフェの取材を行ったが、取材中の17時に日没。カフェの方のご厚意で月ケ瀬口駅まで送っていただき、再び電車を乗り継いで京都市内へ戻った。
目次
いざ、最果ての村へ村の玄関口・道の駅
道の駅は「村のダイジェスト版」 運営会社社長・森本さんにインタビュー
茶畑の上のニュータウン
歩いても歩いても…
祈りの花踊り
過去から未来へ踊りを繋ぐ 保存会会長・久保さんにインタビュー
ノスタルジア漂う廃校カフェ
南山城は「混ざり合った色」 カフェ店長・永尾さんにインタビュー
帰るまでが紀行
取材後記
いざ、最果ての村へ
日の出間もない朝6時45分頃、京大に近い京阪出町柳駅を出発した。深草、藤森などの住宅密集地を抜け、あっという間に丹波橋駅に到着。近鉄線へ乗り換えて南下を続けているうち、木津川を渡ると田畑がまばらに現れてくる。新祝園駅からJRの祝園駅へ乗り換え、学研都市線で木津駅へ。更に大阪から8両でやって来た大和路線に乗り換え、1駅先の終点・加茂駅で下車した。向かいに停まる乗り換え列車に目をやれば、そこにいたのは1両の気動車。ここから先の沿線人口の少なさを感じさせる。
ディーゼルエンジンの唸り声と共に、加茂を出発。ものの3分もすると、平らかだった車窓の風景は木津川沿いの急峻な渓谷に変わり、列車は崖と川の僅かな隙間を縫うように走っていく。折しも取材前日は近畿一帯に豪雨が降り注ぎ、この区間も運転見合わせになっていた。雨の激しさを示すように、木津川の水は茶色く濁っていた。
列車は村役場に近い大河原駅を通り、8時40分頃に月ケ瀬口駅へ到着。出町柳から2時間弱、5本の電車を乗り継いだ。
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村の玄関口・道の駅
村に降り立ったが、気温は京都市とそう変わらない。改札を出るといきなり目に入るのは、瓦屋根の和風建築と、車1台がやっと通れるほどの細い道路。その背後には幾多もの山がそびえる。長野県の農村で育った筆者には、その風景が祖父母の住む山あいの集落と重なって、懐かしい感じがした。
煉瓦造の隧道で鉄路の下をくぐり、東西の幹線である国道163号を渡って、最初に訪れたのは「道の駅お茶の京都みなみやましろ村」。駅から徒歩10分の場所に、2017年に開業した施設だ。今年5月に出版された『道の駅最強ランキング』では、全国千以上の道の駅の中で1位に輝いた。
まずは腹ごしらえのために食堂に入り、茶粥御膳を注文した。しばらくして運ばれてきたのは、茶粥のほかに焼き魚や卵焼き、切り干し大根などが並んだ彩り豊かな御膳。ほうじ茶で粥を作れば渋みが出そうなものだが、茶粥は優しい甘味とほのかな塩味をたたえており、おかずにもよく合う。お茶の懐の深さを体感する機会となった。
続いて物販コーナーに足を運ぶと、所狭しと並ぶ農産物に目が向く。お茶や椎茸のほか、米や大根、ネギにしし唐と、村の農作物の豊饒さが感じられる。土産物コーナーでは村産の抹茶に加え、道の駅のオリジナル菓子「むらちゃプリン」なども販売されている。取材日は祝日ということもあり、ブースは多くの観光客であふれていた。加えて店内には、即席麺やスナック菓子、文房具などの日用品を売る地元民向けのスペースも設置されている。地元民も観光客も立ち寄るこの道の駅は、まさに南山城村の玄関にして一大拠点といえよう。
物販コーナーの営業時間は9時から18時。食堂の営業時間は平日8時から17時、休日7時30分から17時。6月第3水曜日・12月第2水曜日は休業。
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道の駅は「村のダイジェスト版」 運営会社社長・森本さんにインタビュー
村おこしの拠点として開駅した道の駅。その特色や取り組みについて、株式会社南山城の社長・森本健次さんにお話を伺った。
―2017年に開駅。そこまでの経緯を。
計画が動き出したのは「地域活性化」が話題になっていた2010年頃です。当時の村長の「道の駅を作って賑わいを生み出そう」という思いつきが発端で、旧田山小の活用など、役場で公共事業を担当していた私が抜擢されました。理想はただ土産物を売る「ハコモノ」ではなく、村おこしの拠点。最終的には地域の農産物を加工販売する、6次産業モデルを基にした地域商社を目指すことになり、同様のモデルで成功していた道の駅「四万十とおわ」を運営していた株式会社四万十ドラマにノウハウを教わりながら準備を進めました。その時先方の社長に覚悟を問われ、役場を辞めて運営会社の社長になる決心をしました。
―この道の駅独自の理念や施策は。
今は外部企業に運営委託する「道の駅ビジネス」もありますが、「それだとよその道の駅みたい」と村の方に言われたことがありました。村が出資する第三セクターとして運営会社を設立し、テナントも入れず、全て自社で運営することにこだわりました。地元の人の手で、地元の資源に付加価値をつける地域振興を目指しています。村の人の営みを推したいので、道の駅のテーマカラーは絣の着物やもんぺなど、農家さんの作業着の色である藍色にしました。
道の駅のコンセプトは「村のダイジェスト版」です。その一環として、南山城村の「お茶」のイメージの醸成に努めています。南山城村は京都で2番目の宇治茶の産地ですが、宇治茶の主生産地は宇治市だと思っている人が多く、「宇治茶と南山城村が繋がらない」といつも言われていました。「むらちゃプリン」などの自社製品の製造や、公務員時代にお茶農家さんと作り上げた「南山城紅茶」の取り組みで気づくことになる商品開発に力を入れています。
また高齢化が進む中、企業理念の「村で暮らし続けることを実現する」ために、インフラ面でも道の駅が担える役割があります。日用品を揃え、要望があれば宅配もするなど、買い物弱者対策を行っています。更に収穫祭を開いて農家さんの発表の場を作ったほか、地元の方を60人ほど雇うなど、雇用対策もしています。
―開駅して8年目。村おこしの手応えは。
村の知名度の向上に貢献できていると思います。開駅前は村の誰もが失敗すると思っていて、「3ヶ月で潰れるぞ」と言われもしました。でも今では「南山城村って知ってる?」と外の人に尋ねると「ああ、道の駅の」と返してくれることが多いと聞きます。百貨店の催事で首都圏に商品が行くこともあり、村の名前が色んなところに広がっています。10年前では考えられなかったことですね。
―成功の要因は。
立地が大きいと思います。確かに南山城村は山間地域ですが、地図で見れば近畿のど真ん中にあるんです。大阪や京都、神戸や名古屋から2時間前後で来られる、ちょうどいい距離。また、百貨店や代理店に繋いでくれた四万十ドラマの力も大きいですね。
―道の駅の今後の展望は。
加工場での自社生産を行ってきましたが、最近は製造が追いついていないため、より大きな工場を作って生産能力を拡大したいですね。京都市内の土産物店などに置いてもらえるよう、保存期間の長い商品づくりも進めたいです。
―南山城村に対するイメージは。
「人の魅力」が出てきたなと思います。例えばお茶でも、生産者さんの理念が共感を呼び、それが購買に繋がることもあります。これまで眠っていた「人の暮らしから生まれる魅力」という資源に皆が気づき始めて、そこから波及効果が生まれてきていると思います。
―ありがとうございました。
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茶畑の上のニュータウン
次の予定まで時間があったため、道の駅から見えた茶畑に足を運ぶことにした。西進して坂を上り、見渡す限り広がる茶畑の中を進む。お茶の葉に日光が降り注ぎ、瑞々しい緑がいっそう引き立つ。大学の食堂で出ている緑茶も、遡ればここから来ているのかもしれない。
15分ほど歩いていると、整然とした住宅街に出た。「月ヶ瀬ニュータウン」だ。1976年より入居が始まり、ピーク時には人口が千人を超えた。2020年時点での人口は792人で、今も村民の約3分の1がここに居住している。
ニュータウンの中は近代的な洋風建築が立ち並び、月ケ瀬口駅周辺とは異なる趣だ。だが歩き始めて数分、(雲)がふと「なんだか静かだね」と口にする。確かに今日は休日だというのに、子供の遊び声も車のエンジン音も聞こえない。加えて、すれ違った住民が皆お年寄りであることも気にかかった。月ヶ瀬ニュータウンにおいて65歳以上の住民が占める割合は約45%。この山中でも、都市近郊で問題になっている「ニュータウンの高齢化」が進行しているのだ。
街の中央部、店舗が集積するエリアに歩を進める。日曜日ということもあるのだろうが、ほとんどの店はシャッターを下ろしており、お世辞にも活気は感じられない。駄菓子屋を経営する50代の方にお話を伺ったが、「人口は減少傾向にあるし、高齢化も進んでいる。昔に比べたら寂しい、活気がない」と寂しげだった。
家々の間には、まだ家屋が建ちそうな空き地が点在する。土地が売れなかったのか、それとも住人が引っ越して家を壊してしまったのか。本当のところは分からないが、そこに人が住んでいないという事実は確かだ。少子高齢化と過疎化、山間地域の厳しい現実が垣間見えた。
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歩いても歩いても…
10時過ぎ、山あいの田山地区へ向かうためにニュータウンを発った。土休日は「村タク」が利用できないため、4㌔強を徒歩で向かう。ところが、この山道が想定外に険しい。まず坂の手前までの1㌔は道幅が狭く、前から後ろから高速でやって来る車にヒヤヒヤしながら歩かねばならない。続いて坂を上り始めたが、進んでも進んでもきつい上り坂が続くばかりで、一向に終わる気配がない。目に映るのも緑色の木々や茶畑、そして灰色のアスファルトと代わり映えがしない上、11月だというのに厳しい日差しが照り付ける。息が上がり、額には大粒の汗が浮かぶ。まだか、まだかと愚痴をこぼす(燕)に付き合っているうち、3㌔過ぎでようやく下り坂に変わったものの、結局1時間以上を費やして田山に到着した。約100㍍の標高差を上る厳しい道のりで、否応なく村の山岳環境を実感した。
今日は年に1度の「花踊り」が行われる日だ。地区の中心に位置し、クライマックスの踊りが披露される諏訪神社には大勢の人が集まり、神社から旧田山小学校に繋がる道にはのぼり旗が立つ。祭りに似た高揚感に、田山地区全体が包まれていた。
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祈りの花踊り
13時、花踊りが始まった。まずは旧田山小の校庭で、12ある踊りの1つ「愛宕踊」が披露される。歌い手の歌と、太鼓や法螺貝の音が響く中、体感で10㌕はあるという竹刀を背負い、中踊りはまず大きく腕を広げる。次いで左足を大きく踏み出し、その足を軸にして半回転、片足立ちする。両手に持っている太鼓ばちを右、左、右と振りかぶると、再び腕を大きく広げ、今度は右足を大きく踏み出して半回転、右足で片足立ちする。ばちを右、左、右と振りかぶり、そしてまた左足を踏み出し……。これが一連の動作だ。大きく、赤と緑が鮮やかな竹刀の飾りが踊るたびに揺れ、青空に映えて美しい。中踊りの周囲には天狗と「ひょっとこ」の面を被った手練れの師匠がおり、振付を間違えた中踊りに正しい動作を教えているのだが、その姿勢や仕草があまりに道化らしくて、滑稽だった。
この演舞が終わると、「いりは」と呼ばれる行列に移る。行列に参加するのは中踊りや歌い手に加え、田山地区の子供たち。少年たちは白衣黒袴に身を包み、凛々しい顔つきで勇壮な棒振りを披露する。整然と揃った美しい演舞に見とれていると、今度は先ほどよりも小さな子たちがやってきた。棒ささらを鳴らし、太鼓や法螺貝のリズムに合わせて「ヤー、ハー!」と掛け声を上げながら進んでいく。隣の子とおしゃべりしたり、列から外れたりと不揃いながらも、精一杯の声を張り上げて演舞する少年少女の姿は微笑ましかった。
行列が諏訪神社に到着すると、神主が大幣で来訪者を清め、境内での踊りが幕を開ける。「神夫知」と呼ばれる小学生が太鼓の上に乗り、花踊りの歴史を概説した後、「御庭踊」が始まった。中踊りが膝を地面につけたかと思うと、体を大きく揺すって花飾りを地面にこすりつけ、豪快な動きで観客を魅了する。振り付けが変わっても、中踊りたちは躍動感あふれる踊りを披露し続け、観客はその姿をじっと見つめていた。
踊りが終わり、最後は毎年恒例の餅投げだ。神社の一段高くなった場所から、来賓が観覧者に包装付きの餅を投げる。ところが投げられた餅は勢いがあって、体に当たれば痛そうだ。首から下げたカメラに当たらないよう、落ちてきた餅を前傾姿勢で慎重に拾う。幸い怪我も物損もなく、餅も3つ拾うことができた。餅投げを終え、今年の花踊りは盛況のうちに幕を閉じた。
雨乞いとの関連は薄れているといえど、前日の豪雨は踊りを受け継いだ人々への、神からの贈り物だったのかもしれない。人口減少にも負けず、次の世代へ伝統を繋ごうとする人々の姿は美しかった。
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過去から未来へ踊りを繋ぐ 保存会会長・久保さんにインタビュー
踊りの支度が行われていた旧田山小にて、「田山花踊保存会」会長の久保憲司さんに、花踊りの歴史や現状についてお聞きした。
―花踊りの内容について。
元々花踊りは「願済ましの踊り」でした。山間部の田山地区は少雨に悩まされていたので、雨降りの願掛けを家々で諏訪神社に行い、全戸がし終えると花踊りを奉納しました。降雨の有無に関わらず、願掛けを受け止めてくれた神への感謝を花踊りで表現するわけです。現在は雨乞いの関連儀式という側面は薄れ、五穀豊穣や家内安全を願う踊りに変わっています。「花踊り」という名前は、踊り手の「中踊り」が背負う飾り付きの竹刀の最上部に、花びらを模した切り抜きを配することに由来します。
花踊りは、旧田山小での踊り、旧田山小から諏訪神社にかけての行列「いりは」と、神社での踊りの3部構成です。全12曲ある踊りの歌のうち、毎年2~3曲披露します。
―花踊りの歴史や変遷について。
踊りや歌の内容を鑑みると、鎌倉時代が起源とみられます。奈良市柳生地区の花踊りを下敷きに生まれたようです。長らく奉納を続けていたものの、1924年を最後に1度途絶えてしまいました。
63年初め、断絶していた花踊りを復活させるため、地区の有志により「田山花踊保存会」が設立されました。その年の10月に奉納を再開してからは、今日まで60年近く踊りを続け、70年の大阪万博、94年の平安建都千二百年祭でも踊りを披露しました。しかしコロナ禍の時期は中止せざるを得ず、昨年ようやく踊りが再開できました。
―資料も十分にない中、どうやって踊りを復活させたのか。
歌は寛政期の古い資料がありましたが、踊りの資料はありませんでした。そこで大正期の花踊りを知る方々を師匠として迎え、口伝えで踊り方を指南してもらったそうです。40年途絶えていた花踊りを復活させた、先輩方のエネルギーはものすごいですね。
―次の世代へ踊りを受け継ぐ取り組みは。
現在の会員は約100名。今年は2名の青年が入会してくれましたが、それでも若い人たちの数がどんどん減っていて、踊りの伝統を守っていくのも大変な状態です。昔は踊りに参加する子供も男子のみでしたが、今は女子にも参加してもらっています。
保存会への入会は18歳以上の男性に限っていますが、小さい頃から踊りを知ってもらうことも大切です。最近は南山城小学校へ出向き、児童へ向けて花踊りのことを説明しています。田山以外の地区の児童にも広報活動をすることで、大きくなったら踊りに参加してもらいたいと思っています。
―踊りを迎えるにあたっての思いを。
コロナ禍の3年ほどは踊りが披露できず、今年は再開後2度目の花踊り。昨年は会員の士気が低く苦労しました。今年の最初も会員の士気が上がらず、開催が危ぶまれましたが、各方面からご支援をいただき、機材や衣装を新たに購入しました。踊りに取り組める体制を作ったことで、会員一同が一生懸命稽古してくれました。精一杯の踊りを披露したいですね。ただ昨日は大雨で、踊りを披露できるか気を揉んでいましたから、今までの困難も含めて「やれやれ」といった気持ちもあります(笑)。
―ありがとうございました。
お話を伺った後、支度の様子を見学した。男性だけが身支度をしているのが気になり、手伝う女性にわけを伺うと、祭りの演舞は女人禁制なのだという。しかし演舞する男性の支度を手伝うことで、女性も踊りの一翼を担っている。「花踊りは田山の人にとって最も重要な行事。踊りを見るのが待ち遠しい」と、女性は顔をほころばせた。
続いて話を聞いたのは、田山地区に住んでいるという13歳の少年。昔は太鼓を、今は棒振りを担当しているという。祭りには保存会の会員に加え、田山地区の子供たちも参加する。少年は「面倒くさいと思う年もあったが、コロナ禍が明けた去年の踊りは懐かしい気持ちになった。今年もワクワクしている」と、目を輝かせながら意気込みを話してくれた。
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ノスタルジア漂う廃校カフェ
時刻は15時、神社から旧田山小へと戻る。昼食を取っていなかったため、腹ペコの(雲)が道中で餅を口にしたが、「硬い!」と一言。どうやらこの餅は焼いて食べるものだったらしい。
気を取り直し、3分ほど歩いて旧田山小に到着。明治時代に開校し、田山地区の子供たちが多く通っていたこの学校は、2003年に廃校となった。その後は複合施設「は・ど・る」として生まれ変わり、喫茶店や木工作品の制作を行う工房が設置されている。
木造の校舎へ足を踏み入れると、目に飛び込んでくるのはかつての教室。掲示物の跡が残る掲示ボードなどがそのままの姿で残され、横の廊下には「右がわをあるこう」の看板が立つ。時が止まったようにかつての姿を留め続ける備品類が、昔日の学び舎を偲ばせる。
教室の1つを改装した喫茶店「cafeねこぱん」は、部屋の壁や床全体に手入れが施されているものの、廃校舎が持つノスタルジックな雰囲気をうまく残した内装は見事だ。
注文したのはベーグルランチ。主菜は蜂蜜とマスタードソースがかかったローストポークで、口に入れると蜂蜜の甘み、マスタードや肉の塩気が絡み合い、重層的な和音を奏でる。ターメリック風味のベーグルも主菜によく合う。付け合わせの野菜でターメリックや豚のずっしりとした後味が中和され、飽きることなく楽しめた。
続いていただいたのはほうじ茶ラテとチーズケーキ。ほうじ茶は南山城村産の茶葉を「砂煎り製法」という特殊な製法で焙じたもので、通常のほうじ茶よりもいっそう香り高い味が楽しめる。チーズケーキの濃厚な味との相性がよく、ほっと一息つくことができた。
カフェ・工房ともに、営業日は第1〜3土日の11時から17時。
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南山城は「混ざり合った色」 カフェ店長・永尾さんにインタビュー
喫茶店と木工工房を運営している永尾さんに、南山城の地でカフェと工房を開いた理由や、村の印象について伺った。
―南山城村に工房を開いた理由は。
元々は大阪や兵庫の大学等で空間デザインを教えており、後に木工を勉強しました。工房を開く場所を探していたら、「南山城村に廃校がある」と木工職人の方が教えてくれたんです。当時は田山小が廃校になって3年で、ご厚意により、この場所に工房を開設することが出来ました。
―工房を開いたのち、カフェも開店した。
Uターンや移住・観光など、村に人を呼び込むための魅力を作っていく一環として、工房を開いてから1年後にカフェを併設しました。
工房やギャラリーを訪れた方がゆっくりできる場所を作りたい、という思いもありました。「できるだけここにあるものを生かしたい」という考えをもとに内装をデザインし、傷んでいた天井や壁を塗り替えて、店内には里山の花や木々を飾っています。店名の「ねこぱん」は、オープン前にパンを試作で焼いた際、猫が扉の前に座っていて、「猫も買いに来るパン屋みたい」と話したのが由来です。
―おすすめのメニューは。
南山城村の茶葉で作られた和紅茶「南山城紅茶」です。今年の紅茶の全国コンペでは3つの賞を受賞されました。日々作業工程に工夫が加えられ、香りや味が収穫年によって変化していくところも魅力です。
料理にはお茶をはじめ、蜂蜜やブルーベリー、椎茸、お米など村の食材を使っています。近所の方から季節の果物や野菜をいただくこともあり、豊かな食材に恵まれるという幸せをしばしば経験しています。
―村民との関係は。
支えていただくことがとても多いです。校舎にお花を飾ってくださったり、昔ながらの生活の知恵を教わったりしています。また村内のイベントなどに参加しつつ、外からのお客様にも村を知ってもらうため、役場や道の駅と協力して観光客を招いた体験ツアーなどにも取り組んでいます。
一方、移住してきた方とも交流しています。やりたいことは皆違いますが、お互いに切磋琢磨を重ねていきたいです。
―南山城村に対するイメージは。
20年前と比べて、お茶の生産地ということもあり茶農家や茶業関連の方が多いイメージでしたが、村民の暮らしを楽しむ生き方に惹かれて、新しい移住者が徐々に増えてきたように思います。その新しい移住者の多彩な暮らしぶりが、さらにまた新しい人を集めていくという、良い連鎖が続いている感覚です。モノトーンではなく、沢山の色が混ざり合うイメージです。
―今後の展望や目標を。
村の良さを伝えていきたい。それぞれの専門を活かして村がより良い方向へ変化していくのが楽しみです。
―ありがとうございました。
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帰るまでが紀行
時刻は18時。こうして全ての取材を終えたが、最後の最後に思わぬピンチが訪れた。永尾さんとのお話が盛り上がり、取材中に外が真っ暗になってしまったのだ。街灯のない夜道を歩くわけにもいかず困り果てていると、永尾さんのご厚意により駅まで送っていただくことに。見ず知らずの大学生に親切にしてくださる心暖かさに感激し、月ケ瀬口駅でお別れした。
ここからは往路と異なり、東に進んでJR線を乗り継いでいく。まずは柘植駅まで関西本線に乗り、草津線へ乗り換え。疲れがたまっていたのか、筆者と(燕)が舟を漕いでいるうちに電車は草津駅に到着し、琵琶湖線で山科へ、そこからは地下鉄東西線で東山駅へと家路をたどった。「帰るまでが遠足」という先達の言葉の重みを改めて感じる旅だった。
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取材後記
以上、南山城村の過去・現在・未来に繋がる様々なスポットを巡り、多くの方々にお会いした。「最果て」は得てして「辺境」と同一視され、停滞的なイメージとも容易に結びつく。だが、南山城村は決してそのような場所ではない。ルート地図で示したように、広域交通網の中に組み込まれ、京都市や他の都市からもアクセスしやすい。人々の往来も活発であり、移住者も年々増加しているという。その意味で南山城村は「最果て」ではなく、発展の可能性を秘めた「フロンティア」と呼べるのかもしれない。
取材の最中に感じたのは、村の人々の関わりの強さだ。お会いした人々の活動が、別の方の活動と関わってくる。「狭い田舎だから」と自虐的に語る方もいたが、離散的な共同体が形成されがちな都市部とは良くも悪くも異なる、距離感の近いコミュニティの姿があった。
何より印象に残ったのは、それぞれの立場から村に貢献しようとする、出会った方々の情熱、そしてひたむきさだ。十人十色の領域で活躍し、鮮やかに輝く人々が、南山城村にはいた。
末筆ながら、道の駅の皆様、花踊り保存会の皆様、カフェの皆様、そして取材にご協力いただいた村の方々に御礼申し上げ、この紀行文を閉じることにする。