広瀬浩二郎 国立民族学博物館准教授 「さわれば、見えてくる」(2010.02.16)

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◆ 京都との出会い ◆

生まれたときは普通に視力があったのですね。ただ1歳半で病気になって、それから弱視になりました。小学校は一般の学校で、最初は教室の一番前に座るなどしていたのが、だんだん視力が悪くなってきて、先生からは点字を勉強した方が良い、と言われていたのだけれども、周りの人と違う文字に抵抗があって、ノートもマジックで大きく書くとか騙し騙しやっていたのですが、ついに見えない状態になって、中学校からは盲学校に通いました。

単純に比べると、墨字(目で見る文字)はひらがな、カタカナ、漢字の3種類あるわけで、1種類しかない、しかも6つの点の組み合わせである点字よりよっぽど複雑です。だから客観的にどちらが難しいかといえば墨字だと思います。ただ触覚はあまり使わない器官ですから、大人になってから、30代、40代で中途失明された方などは苦労されるようですね。僕は失明したのが13歳でしたが、初めはやはりこれ(点字)を読めるのだろうかという感じでした。毎日触っているうちに、ある日急に意味がわかるようになりましたね。

歴史が好きで、司馬遼太郎なんかの歴史小説をよく読んでいました。それで漠然と大学では日本史を勉強したいなあ、と思っていました。高校2年のとき修学旅行で関西を周って、京都の街をウロウロする経験をしました。それで京都っていいなあ、やはり歴史を勉強するなら京都だなと思ったのがきっかけですね。物心ついたときからずっと東京で親と暮らしていたのもあり、そこを一度出てみたかったというのもありました。


◆ 点訳、京大入試 ◆

当時は教科書こそ点字でしたが、参考書は殆ど無く、自分でボランティアの人に点訳を頼んだりしていました。予備校のテキストなんかも、ゲラの段階でもらって、それを速達でボランティアに出すとか。ただ当時はもう日本社会全体がある程度豊かになっていたので、ボランティアの方も増えていましたが、少し上の世代、60年代、70年代に大学を受験された様な方は点訳を依頼するボランティア自体がいない、さらに上の世代になると点字の教科書自体が無い環境だったので、大変だったと思います。

京大の入試を点字で受けたのは僕が初めてだと思います。もともと戦前は盲学校出身者に大学受験資格がありませんでした。戦後GHQの改革によって資格こそ認められましたが、大学としてもそんな手のかかる学生は来て欲しくない、というのが本音で、いろいろと困難があったようです。試験の方法も大学によってバラバラで、50~60年代には、試験官が問題を読み上げて、それに受験生が口頭で答える、という形式のところもあったようです。

1979年に共通一次試験が始まり、その時に初めて点字試験が制度化され、試験時間も通常の1・5倍という風に決まったんですね。ただ、点字を読むスピードは失明した時期などでかなりの個人差があります。だから例えばセンター試験の国語なんかは、余程点字慣れした人でないと1・5倍の時間では足りないでしょう。一方で京大の数学みたいに問題文が異様に短い試験なんかは、他の人の1・5倍考える時間が与えられたようなものです。だから科目によって柔軟にできないものかなあとは思います。

もうひとつ言うと2時間の試験時間が1・5倍になると3時間ですよね。これが1日3科目あると、体力のある10代の人間でもかなりしんどい。まあ、何が公平な試験か、というのは難しい問題ですね。


◆ 暗中模索の大学生活 ◆

京大のサポート体制は今振り返ってみると、良いものだったと思います。当時も障碍学生の支援を考える委員会があって、その時は形骸化していたのですけど、障碍学生用の体育を教えていた熊本先生という方がそこのトップをしていたのですが、この方が、僕が入ってくるときに、基本的にはすべて当事者と話し合った上で決める、という姿勢をとってくれた。マイノリティーへのサービスはつい良かれと思って支援する側が一方的に決めてしまうところがあるのですが、僕と話をし、何が必要なのかを逐一聞いたうえで、物事を進めてくださったのが非常に良かったですね。

板書やレジュメが多い授業の場合は、あらかじめ先生と打ち合わせをして、配布する予定の資料が出来た時点ですぐに僕に渡すという取り決めをしたり、あと京大は4月のうちは人が多いので、その間は教室に指定席を設けたりしました。この指定席というのが、先生が広瀬がいる、と気付くように最前列の真ん中でした。でも次第に友達も出来て、一緒に座るようになると、他の人は前に座りたがらないので、後ろのほうに座るようになりました。

中学、高校と過ごした盲学校は、日本でも最大規模だったのですが、それでも高校で1学年20人しかいませんでした。だから3年間クラス替えも無し。それが大学に入ると1学年3000人もいる、せっかくこんなにたくさんの人がいる所に来たのだから、とにかく友達を作りたいな、と思いました。でも同じ高校から来た人はいない、文学部のクラスも集まるのは英語の授業だけだったので、なかなか人と仲良くなるきっかけが無い。それでクラブに入りました。

1つは点訳サークルで、その時は教育学部の地下で活動していました。このサークルは、1970年代の初めに、自分たちと同じ大学生が目が見えないという理由だけで、自由に学習が出来ないのはおかしいじゃないか、と考えた学生が、国立大学に、視覚障碍者(=触常者)学生に対する支援制度の拡充を求める運動をするのと同時に、支援体制が実現されるまでの間は、自分たち自身で肩代わりするんだ、と作られた団体で、仏和辞典の点訳化を実現させるなど、かなり実力のあるサークルだったのですが、お膝元の京大に入学する触常者学生がいなかったので、他の私大に通う学生を支援していました。点訳しましょうかとの話を受けて、僕の方も英語の教科書とかは必要だろうなと思って、点訳をしてもらうことになりました。もともと障碍関係の分野に興味を持っている学生が多かったので、そこで知り合いも出来たりしました。

もうすこし趣味的なものもやりたいな、と思い、居合道部にも入りました。その頃は本当に小さな部で、4回生が抜けると2,3回生がそれぞれ一人ずつという状態。対外試合なども全員が頭数に入るので、僕も出たりしました。


◆ 「古文書が読めない!」 ◆

その当時の点訳事情を言うと、京都大学の場合、教科書の点訳は公費保証でやってくれました。それ以外の本は、点訳サークルや京都ライトハウスに点訳を依頼したり、音訳してもらったりしていました。同志社大学だと、臨時職員で点訳が出来る人を雇ったりしたみたいです。

大学に入ったときは、あまり将来のことは考えていませんでした。誰でも大学に入った時って自分には無限の可能性があるんだ!とか感じるでしょう?初めは歴史小説家になりたいな、と思いましたがどう頑張っても司馬遼太郎を超えるのは無理だな、とあきらめました。1回生のとき赤報隊事件があり、その追悼文を読んで、ペンで権力に立ち向かうのもいいなあ、と記者を考えたこともありました。

歴史が好きだった、と先ほどいいましたが、大学で日本史を勉強した触常者学生は僕が初めてでした。京大を受けるとき併願した私大は「日本史専攻はダメ」と言ったところもありました。大学での日本史の勉強は一次資料、つまり古文書を読まなくてはいけない。そこから更に歴史を再解釈、再構成する作業が求められるんですね。

それで3回生から古文書演習が始まったのですが、くずし字に手も足も出ないわけです。周りの学生はだんだん読めるようになっていく中、自分ひとりだけが読めない。遅ればせながら、受験拒否も仕方が無いのかなあ、という気持ちになったりしました。

高校のとき日本史の授業で障碍者の歴史について「障碍者は今の時代以上に、医療技術の未発達などで昔の方がもっと多かった筈です。でもその人たちは歴史の教科書に出てこない。それは点字が出来たのが明治以降で、それ以前は記録する手段を持たなかったというのが大きな原因です。また、教科書は誰が書いているのかといえば、東大の先生にしろ、京大の先生にしろ、いわゆる健常者です。こういう人たちは普段から障碍者に接していないので、障碍者のことに意識が向かわないのです。教科書に出なくても、いなかった訳ではない。これは当事者、同じ立場の人間が関わって発掘をしなければならない、」という話を聴き、ずっとそれが印象に残っていました。

大学に入ってから「障碍者の歴史」という類の文献も何冊かは読みましたが、刊行数自体が少ないのと、あと事例の羅列ばかりで地味なものが多く、あまり面白くないなというのが正直なところでした。


◆ フィールドワークへの転換 ◆

その頃山伏に興味を持っていました。高校までの歴史教科書には書かれていない、素朴にこんな面白い人たちが活躍していたのか、という好奇心から、夏休みに山形の山中で山伏の修行を体験しました。深く考えずにとりあえずやって見るのは僕の癖です。9日間の体験だったのですが、目が見えないと必然的に目立つので、他の人たちに助けてもらったりしました。そうしている内に話が盛り上がったりして、本に書いていない「生きた知識」を思いがけずそこで知ったり、といった経験をしました。それで聞き取りの重要性ということに気付いて、フィールドワーク、現地に行って聞き取り調査を中心に残っている古い伝承を調べる、という方法なら目の見えない僕に適しているとの確信を得たのはこの体験が大きかったですね。

学部時代から障碍者の歴史、民俗宗教的なものと2つやりたいことがあったのですが、子供がハンバーグとカレーどっちとも食べたくて「ハンバーグカレー」をねだるように、僕も2つのテーマを両方出来る分野は何だろう、と考えた。そして「これだ!」と思ったのが琵琶法師だったんです。歴史的に視覚障碍者の間で受け継がれてきた芸能であると言うのと、まだ九州に現役の琵琶法師がいて、宗教的な役割も担っていたんです。はじめはこういういい加減な動機でしたね。琵琶法師を学部の卒論テーマにして、今度は九州の反対、東北のイタコに興味が出てきて、就職は修士課程を出てからでもまだ出来るだろうと、もう少し勉強しようかな、という感じで進学しました。まあそうしているうちにどんどん研究が楽しくなって、どうせ目が見えないと何やっても大変なのだから好きなことをやろうと、博士課程に進むことにして、今に至るという感じです。


◆ 見常者と触常者 ◆

障碍者と健常者という呼び方が一般的であるけれども、誰もこれが良い呼び方だとは思っていませんよね。最近だと「障がい者」と表記する取り組みもありますが、僕もどういう呼び方なら良いのかを考えてきたんです。僕がまず気になったのは健常者という呼び方で、これって健康が常な人ということですよね、じゃあ僕は健康ではないのかなあと。同世代の人に比べたら良く食べるし、風邪もそんなに引かないし、僕はすごく健康じゃないかと。じゃあ健常者とは何なのだろうと考えたときに、少なくとも視覚障碍者との対比でみると、前者は視覚を主な感覚器として使っている人、後者は触覚を主な感覚器として使っている人、という違いがあるな、と思ったんです。それで、視覚に依拠して生活している人「見常者」と、触覚に依拠している人「触常者」というのを新たな定義として提唱しています。目が見える、目が見えないと考えると、そこに優劣があるように思ってしまうでしょう。でもそれは単に使っている感覚器の違いに過ぎないということですね。

これは言い出した僕自身がもう少し研究して理論化しなければならないことですね。2006年に民族学博物館で「さわる展覧会」というのを開きまして、従来触常者関連のワークショップといえば、点字1日体験だとかの類が多かったのですが、もっと面白いこと、日ごろ余り使っていない触覚を活かすため、目をふさいだ状態で博物館の展示に触れて質感を感じ取る、といったようなことをしました。

それが好評で、2007年に慶応大学からワークショップの依頼を受けました。僕、慶応とは浅からぬ縁があったのですが、受験を拒否した大学に20年たって講師として呼ばれるとは……と日本社会の変化を感じましたね。それで何か旨いワークショップのタイトルは無いかなあと考えて、慶応大学といえば福沢諭吉「学問のすゝめ」じゃないかと、それで「手学問のすゝめ」と銘打ったのが始まりです。

手で触ること、身体の中にその感触を取り込むという営みを通して、事物の再解釈をするというのを創造していただければよいと思います。確かに摂取できる情報量で言えば視覚の方が圧倒的ですが、その足りない部分を補うために身体をフルに用いるというか……近代の学問は目で見て耳で聞いて、という方法だった。それに対して全身の感覚で得た情報を活かす学問、ということでしょうか、これ以上の理論化は僕の研究の今後の課題です。

ここ数年は触常者関連のワークショップに力点を置かざるを得なかったため、余り時間を割くことは出来ていないのですが、細々と民俗宗教の方の研究も続けていまして、今はアメリカにおける日本の新宗教を調べています。ニューヨークなんかの大都市だと、天理教だとかの、日本の宗教団体が何とか現地在住の日本人を足がかりにしながらアメリカ人に布教しようとしている。当然日本の宗教、というか東洋の宗教自体が向こうには定着していないわけですから、布教も一苦労です。アメリカでは圧倒的なマイノリティーである日本宗教が頑張っている姿が、健常者と障碍者の関係にダブるというか……まあこじつけですね(笑)。


◆ 終わりに ◆

僕は京都大学に学部から博士課程まで通算12年お世話になりました。自分のやりたいことが何でも出来る自由があって、とても素晴らしい大学だと思います。僕自身この「自由の学風」にどっぷりと漬かっているうちに今の道を見つけられたので。ですから受験生の皆さんには是非合格して、色々な体験をして欲しいな、と思います。



ひろせ こうじろう
国立民族学博物館民族文化研究部准教授。1967年、東京都生まれ。13歳のときに失明。筑波大学附属盲学校から京都大学に進学。2000年、同大学院にて文学博士号取得。専門は日本宗教史、障碍者文化論。

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