複眼時評

菅原和孝 人間・環境学研究科教授 「生のハリウッド化に抗えるのか?」

2009.12.20

2009年8月28日の朝、私は、27年来の知己であったマーホの埋葬の場にいた。再定住村コエンシャケネの端にある広大な墓地の一画に掘られた穴に棺は降ろされた。四人の男女がスコップを持ち、砂を穴に放りこんだ。めかしこんだ女たちの一団が賛美歌を歌い続けた。私はビデオカメラを回しながら、そのメロディを美しいと感じ、同時に、そう感じたことが悔しかった。

1982年8月に、南部アフリカのボツワナに住む狩猟採集民グイ/ガナの調査を始めて間もなく、私はマーホを調査助手として雇った。彼にまつわる幾つかの大切な記憶はあるが、この小文はそれを語る場ではない。あの葬儀の朝、賛美歌が歌われるのを聞き、地球上の数えきれない場所で、これに類した歌によって人の死が弔われていることを思い、私は暗澹とした気分になった。以下の論述は、この気分を出発点としている。

人類学者が母国の民衆に対して帯びているもっとも重い責任は、「人間には別の生きかたもあるんだ」と伝えることである。言いかえれば、「文化の多様性」こそが、人類学的な思考の依って立つ土台だ。だが、私が敬愛してやまないグイ/ガナの人たちを含めて、人類の生の形は恐ろしい勢いで均質化しつつある。地球上のキリスト教徒の総数を私は知らないが、西欧から遠く離れたカラハリの大地で、西欧由来の旋律が歌われるのを聞きながら死者と別れを告げることに、やりきれなさを感じる。村の政治的リーダーがガナ語で追悼演説をしたが、彼はキリスト教の神を〈ガマ〉と呼んでいた。私にはその翻訳が納得できなかった。〈ガマ〉は造物主であると同時に人に災いや病をもたらす悪霊でもある。さらに、それは神話のなかでは猥雑な悪行を繰り返すトリックスターにほかならないのだ。

生のハリウッド化。グローバリゼーションなどという小難しい用語よりも、こちらのほうが、私にはずっとしっくりくる。私はいわゆる「特撮」(SFX)のファンなので、ハリウッド映画のDVDを片っぱしから借りて見るという悪癖にしばしば耽る。そして、そのことに自分でも飽き飽きしている。いっぽう、フィールドでの最大の娯楽は、夜、テントの中でウィスキーを啜りながら文庫版の小説を読むことだ。しかし今回は、期待をもって読んだアメリカ現代ミステリーにうんざりしてしまった。登場人物の造形やその恋愛感情が類型的で、まさにハリウッド映画で何度となく見せられたパターンと同じなのだ。

ある社会に生まれ落ち、文化を内面化して生きる以上、私たちの生の形がある程度パターン化することは避けられない。認知人類学では、思考・情動・行為の全域でこうしたパターンを生成させる心的な機制を文化的スキーマ(図式)と呼ぶ。こうしたスキーマなしに白紙状態で生きることは原理的に不可能だ。だが、スキーマへの過度の従属(または無自覚)は、生の感覚を鈍らせ、貧しくする。

私は、この日本社会に蔓延するスキーマの多くが、マスコミと呼ばれる強大な権力によって量産され、醜い言葉として流通することに、違和感を抱き続けてきた。無節操なまでの省略語の横行と外来語の濫用によって、自らの経験を「自分の言葉で」語る民衆の能力は痩せ衰えている。私は別に若い世代を詰っているわけではない。大江健三郎から引用すれば、われわれ人文系の研究者はそれぞれに「言葉の専門家」であるはずだ(『洪水はわが魂におよび』)。だが、学者のなかにも、その意味の曖昧さによって思考を濁らせる言葉の用法に無自覚な人はたくさんいる。以下、性愛に焦点を絞って批判する。

〈男性/女性〉。なぜわざわざ「性」をつけると、丁寧な響きをもつのか、論理的な根拠はないが、この用法はいつのまにか、私たちの感性を規定する語用論的な慣習になった。「三十歳の女を逮捕しました。」アナウンサーが「男/女」という語を堂々と発するのは、犯罪の被疑者を報じるときだけだ。さらに「オンナ」という語自体が有標化される。「女体」という言葉はあるが、山の名前以外で「男体」という語が使われることはない。

〈不倫〉。もともとは「人倫に反する」こと一般を意味していたはずだ。二十代半ばの頃、過激な飲み会から逃げようとする私を、大学院の後輩が「不倫だなあ」と慨嘆した用例をハッキリ記憶している。それが、いつのまにか、「婚外性交」の婉曲表現になってしまった。

〈愛人〉。既婚者が婚外性交をしているとき、その相手をこう呼ぶそうだ。私がこの言葉をキライだと洩らすと、多様な性関係を実践してきた二十代前半の女は、「『愛する人』って読めるから、あたしは好きだヨ」と、のたもうた。これなどは、スキーマの押しつける暗黙の意味に対するささやかなレジスタンスである。

最後の例は、私たちの性愛の経験をもっとも根源的に支配する〈恋愛〉と〈結婚〉というスキーマを逆向きに照らす。明治「維新」以来、日本人を呪縛してきた〈恋愛〉スキーマは、西欧の〈ロマンティック・ラブ〉の輸入である。後者のモデルは「騎士の貴婦人への愛」であり、唯一性・永続性・無償性を特徴とする。だが、近・現代の〈恋愛結婚〉は、前者二項を保持しつつ、無償性という究極の理想は反古にした。「純愛」が生殖(再生産)の要請に抵触することは本質的な矛盾ではない。配偶ペアによって担われる生活実践の総体が〈相互利益〉(ギブ・アンド・テイク)という経済スキーマと結合しやすいことは、おそらく人類に共通した特徴である。狩猟採集民の「性的分業」はもっともわかりやすい例だ。「結婚は恋愛の終わりだ」という世間知が一定の説得力をもつ理由はここにある。

『週刊現代』(十一月二八日号)の特集によれば、日本人の性交頻度は世界の「主要国」のなかでも最低ランクに位置するという。統計的にどれほど信頼できる調査なのか不明だが、こうした特集が組まれること自体が、私たちの社会に瀰漫している性愛に対する白けた気分を反映している。一夫一妻制と癒合した〈恋愛〉スキーマの当否について「自分の言葉で」議論し、考えなおす機会など、ほとんどない。それと裏腹に、〈婚活〉という新造語に代表されるように、〈結婚〉は、標準とされるライフサイクルを実現するために必須な経済活動へと限りなく近づく。

それでは、私が営々とその語りを分析してきたグイの人たちはどうなのか。もっとも重要なことは、グイの社会では、結婚と相互補完的な性愛のありかたとして、婚外性交が強く希求されていることである。さらに、かれらの「誘惑のシナリオ」は、欲望の相称性への憧れと、即物的な見返りの追求という二つの同等な比重をもった軸によって組織されている。ある男は、自分のおずおずとした接触が初潮前の少女の好意を引き出したときの歓喜を生き生きと語った。騎馬猟の名手である別の男は、多くの女たちが彼のもたらす獲物の肉に魅惑されて彼の求愛を受け入れたことを得々と語った。ある既婚の女は、スワッピングを提案した別の夫婦の誘惑に負けて相手の男に身を任せたが、彼女の夫のほうは相手の女に拒まれた。落胆した夫は、生まれてきた女児に「だます」という名をつけた。この夫婦は、右の経緯を、かけ合い漫才よろしく、おもしろおかしく語ってくれた。

私たちの社会に戻ろう。現代の私たちの性愛を色濃く規定しているのは〈セクハラ〉というスキーマである。〈セクシュアル・ハラスメント〉という言葉は、1970年代のアメリカで発明され、1980年代に日本に輸入された。アメリカの女人類学者シュトラウスとクインは、こうした新しい「命名」はそれまで意識されなかった多様な記憶や想定のあいだに新たな連結を確立し、曖昧だった感情経験から重要な洞察を獲得することを可能にする、と指摘している。つまり新しく造られたスキーマは、抑圧されていた人びとが自らの経験を組織しなおすための手がかりを与えるのである。

〈セクシャル・ハラスメント〉という語を初めて知ったとき、私はとっさに、大きくあくびをして犬歯をむき出すヒヒの雄の姿を思い出した。大学院生時代に私は霊長類学を専攻し、エチオピアでヒヒの調査をしていた。雄が別の雄に対して行なう犬歯を誇示する示威行動は、先行研究で〈ハラスメント〉と名づけられていたのである。私は自分のこの連想を重要だと思う。このスキーマのもとの意味は、強いストレスを相手に与える「嫌がらせ」なのである。だが、それは日本に輸入された途端、〈セクハラ〉という言葉に化けた。日本特有の語の省略こそ、精神を弛緩させ、曖昧な意味の蔓延を助長するのである。

私は、この十数年のあいだに、自分にとって大切な友人が〈セクハラ〉加害者として非難または告発された事例に四件遭遇した(本学で公的な処分がなされた事例を除外する)。それらを抽象化すれば次のようになる。PとQは権力関係のなかに位置しつつも、〈恋愛〉状態にあった。社会的地位はPのほうが上位である。別離のあとある程度の歳月が経過し、Qは自分が幸せでないことに気づく。その原因をPとの過去の関係に帰属させる、云々。

これが現代のわが国において珍しくない〈セクハラ〉スキーマの実践的活用法なのだとしたら、私は、それこそが、私たちの性愛の貧困化の端的な現われであると思う。二つの身体が性器を介して接触することは、文化的スキーマを超えて、希有な特権性を帯びた経験領域であり、他に類を見ない歓喜の源である。少なくとも、私はこの確信をグイの人びとと共有している。性愛の深淵は断じて〈ロマンティック・ラブ〉のスキーマに回収されるものではない。習慣的反復から区別されるような「出来事」の本質は、その時間性である。恋愛という出来事も、いつか終わらざるをえないかもしれない。しかし、二つの離在した主観のあいだに偶発性を乗り超えて欲望の相称的な一致が成立したその「瞬間」を、永遠の現在として肯定しないかぎり、生の総体は虚無に呑みこまれる。恋愛はときに反社会的だが、永遠の現在を遡及的に否定したり改竄したりすることは反倫理的である。

最後に次のような反論を想定せねばならない。われわれの性愛が、ハリウッド化と経済スキーマの支配下で瀕死の状態にあるというおまえの診断が正しいのだとしたら、それへの対抗策を提示するのが人類学者の責務ではないか。現在の私にその力はないが、最後に一つの小説を例に引きたい。数年前、わが国でも評判になった、スペインの作家が書いた『風の影』という作品である。性愛がもし男女間の関わりにおいて実現するなら、妊娠・出産という帰結は高い蓋然性をもつ。そのことがむごたらしく罰せられることこそ胸を抉る悲劇である。だから私は、あらゆる妊娠と出産が、ことさら祝福されないまでも、(婚内/婚外を問わず)性愛のアタリマエの帰結として受け容れられる、そんな社会を希求する。


すがわら・かずよし 人間・環境学研究科教授