インタビュー

出口康夫 文学研究科准教授 「レヴィ=ストロースを悼む 理性を超える究極の理性」

2009.12.20

先号、先々号と続いたクロード・レヴィ=ストロース追悼企画。最終回の今回は、文学研究科の出口康夫・准教授(下写真)から、科学哲学の見地から見たレヴィ=ストロースのあり方を示していただくことにした。ポスト構造主義の流行を経て「哲学の低迷」が言及される現代において、レヴィ=ストロースをどのように見直すべきか。自然科学の発展が著しい現代にあっては、人文・社会科学にも自然科学との適切な距離のとり方が必要とされるだろう。その端緒をレヴィ=ストロースに見出せないか。そのような見地より、お話を伺った。(編集部)

レヴィ=ストロースの「構造主義」とはなんだったのか。数理科学の哲学から、それをどのように位置づけ、評価することができるのか。これらの問題を考える手がかりとして、そもそも「構造主義」という場合の「構造」とは何か、そこで語られる「主義」とは何についての「主義」なのかを考えてみたいと思います。その上で、「構造主義」の枠には納まりきらない彼の「哲学」を見ていきましょう。

「構造」とは何か―二重の抽象化― 「構造」とは何かを、ここでは、「構造」と「体系」-それぞれフランス語のstructureとsystemeに当たります-の違いという観点から考えましょう。これらは互いによく似た概念で、専門用語としても、同じ意味で用いられることもあります。しかしレヴィ=ストロースは、それぞれに一定の意味を与えた上で、二つの概念を明確に区別します。

具体的な様々な現象が、目の前にあったとします。今、それらの間に成り立っている特定の関係のみに着目し、その他の側面を捨象して得られたのが、ここで言う「体系」です。つまり「体系」とは、具体的な事物からある種の関係のみを抽出した一種の抽象物なのです。例えば、西オーストラリアのカリエラ族の社会を取り上げましょう。この社会は、大自然の中で営まれる日々の暮らし、個人の喜びや悲しみ、集団間の対立や和解といった様々な側面を持っていました。でも、これらの側面を無視し、カリエラ族の四つの氏族の間の「婚姻関係」、即ち、どの氏族とどの氏族の間の婚姻が許され、生まれた子供はどの氏族に属することになるのかといった関係のみに着目すると、両側交叉イトコ婚という婚姻関係の「体系」が得られます。自然環境や文化や成員が異なった他の社会が同じ婚姻関係の体系を共有するという事態も、もちろん可能です。つまり婚姻関係の「体系」は、具体的な複数の社会によって共有されている抽象的な共通性質なのです。

ここで四つの氏族の間に成り立つ両側交叉イトコ婚という婚姻関係の「体系」と、(1, -1, i, -i )という四つの数(i は二乗したら -1 になる虚数)と、その間に設定された「掛け算」によって生み出される「体系」を比べてみましょう。一方は社会現象から抽出された婚姻関係の体系、他方は概念的な数の間の関係からなる体系。一見、全く異なります。でも、レヴィ=ストロースは、これら二つの体系が、「婚姻」と「掛け算」というそれぞれの演算(婚姻の演算とは、例えばA⊗B=Cのようなもの。これは「A族とB族との結婚によって生まれた子供はC族に属する」ことを意味します。)が、結合法則や交換法則に従ったり、単位元(例えば、積の単位元は1)や逆元(積に関する i の逆元は-i )を持ったりといった―代数学の用語で「クライン群」と呼ばれる―一定の性質を共有していることを「発見」しました。この「クライン群」という「抽象的な関係」からなる、「より高次の関係の体系」、それが「構造」なのです。このように「構造」とは、互いに異なった関係を持つ複数の「体系」から抽出されたもの、具体的な現象を二重の意味で抽象した、いわば「二次抽象物」なのです。

ではなぜ二重の抽象を行う必要があったのか。カリエラ族の社会を「体系」のレベルで捉え、そこに成り立つ婚姻関係を両側交叉イトコ婚として定式化するだけでなく、なぜそこにクライン群というより抽象的な関係からなる「構造」を読み取る必要があったのでしょうか。二重の抽象によって初めて、具体的な意味が全く異なった複数の「関係」の間、言い換えると、表面上は無関係に見える二つの社会現象の間に、思いがけない「対応関係」を見出すことができる。これが一つの理由です。その顕著な成果としては、レヴィ=ストロースによる、「トーテミズム」の意味の解明があります。トーテミズムとは、氏族間の関係を動物など自然物の間の謎めいた神話的関係として捉え、トーテムポールなど様々な手段でそれを表現する無文字社会(レヴィ=ストロースたちは、文化人類学の研究対象となる社会を―「原始社会」という呼び名にかえて―0こう呼びます)に広く見られる慣習です。このトーテミズムの中で事物の間に設定される神話的「関係」と、氏族間に成り立つ婚姻「関係」の間に、レヴィ=ストロースは同一の「構造」を見出し、そのことで、原始的で幼稚な思考の現れに過ぎないとされてきたトーテミズムが、実は、氏族間の婚姻関係の見事な表現になっていることを明らかにしたのです。婚姻関係を、単に「両側交叉イトコ婚」と定式化するだけでなく、より抽象的なレベルでクライン群として捉え、同様に抽象的なレベルで捉え直されたトーテミズム的関係との類似性(この関係同士の高次の類似性を、数学の言葉で「同型性(isomorphism)」と言います)を見出す。「体系」から「構造」へと抽象化を進め、「構造」レベルでの同型性を発見することで、トーテミズムと親族関係という全く異なった二つの「関係」の間に、「象徴」とその「意味」という対応関係が設定されたわけです。

二つの構造「主義」―科学方法論と思想― 構造「主義」とは、社会現象に対して以上のような「二重の抽象化」を施し、「抽象的な関係」のレベルで見て取れる同型性や規則性を明らかにしようという、社会科学の方法に関する一種の提案です。それは「社会科学の方法論」なのです。逆に言うと、それは「世界のあり方」とか「人間の生き方」とか「望ましい社会のあり方」についての一定の見通しという意味での「哲学」や「思想」―例えばサルトルやマルクス主義のそれ―ではありません。レヴィ=ストロースは、自らの構造主義を、それらの「哲学」や「思想」を批判し、それに肩を並べる新たな「哲学・思想」だとは決して主張しませんでした。ただ、50年代のフランスで一世を風靡していたサルトルやマルクス主義から導かれる社会科学に対する方法論―それは社会における個人の主体的自由を強調し、社会現象を歴史的に説明することを目指すというものです―に対する、一つの対抗策・代替案として、自らの構造主義を位置づけたにすぎません。

しかし当時のフランス思想界は、レヴィ=ストロースをアンチ・サルトルの哲学的ヒーローに祭り上げ、精神分析や文芸評論さらには経済学といった他の分野で、それぞれ独自の仕方で「主体」や「歴史」に焦点を当てない仕方で研究を展開していた人々と一括りにすることで、「哲学・思想」としての構造「主義」なる立場を作り上げました。この意味での構造主義には、「アンチ~」というネガティブな特徴づけで纏め上げられていたという側面が多分にあり、例えば京都「学派」やマルクス「主義」に比べても、学派的・思想的統一性は希薄です。このような「~主義」のノミナルな傾向は、「ポスト構造主義」に到れば一層明白になります。この場合の「アンチ~」の対象となる構造主義が、サルトルやマルクス主義に比べてもはるかに緩やかなまとまりしか持たなかったことを考えれば、それも当然と言えるでしょう。

「二重の抽象化によって社会現象から「構造」を取り出す」という方法論としての構造主義の特徴をここでもう一度確認しておきましょう。上で「クライン群」という数学用語が出てきたことからも分るように、このような「構造」概念は数学に由来します。具体的には19世紀の初め、ガロワとアーベルによって発案され、その後、ケーリー・クロネッカー・フロベニウスといった19世紀の数学者たちによって発展させられた代数学における「群構造」が、その概念の出所です。このような「群構造」の研究においては、「群」の特殊な具体例にすぎない実数(ないし複素数)の「体系」の中で展開される17・18世紀以来の物理数学に比べても、より一層抽象的な思索が展開されています。ちなみに物理数学では、物理量の時間変化を表わす方程式(特に微分方程式)を立て、その解を求めるといった操作が中心となります。群構造の研究は、「抽象数学」という19世紀数学の知的冒険の代表選手なのです。

レヴィ=ストロースの構造主義は、数学ないしそれ由来の概念を用いて現象を解明しようとする点で、近代以降の数理科学の方法論に属すると言えます。ただ、物理数学を用いて力学法則の解明を試みたニュートン力学に比べても、より抽象的な数学の道具立てを用いている点に、彼の方法論の特徴があります。彼は力学的世界観に比べても、より抽象的なレベルで社会現象を捉えようとしたわけです。19世紀以来の抽象数学を用いることで、人間の認知活動や社会現象を、物理的プロセスをあえて捨象することで初めて姿を現す「高次の現象」と捉え、研究する。20世紀には、このような知的冒険が様々な分野で行われました。数理論理学由来の道具立てを使ったチョムスキーの生成文法や認知科学、グラフ理論を用いた社会学のパス解析、ゲーム理論を応用した経済学の応用などなど。その中にあって、レヴィ=ストロースの構造主義は、目に見える成果を挙げた、最初の事例の一つだったのです。

「思想家」としてのレヴィ=ストロース―知の多元主義へ― レヴィ=ストロースは、「社会科学の方法論」としての構造「主義」以外に、哲学・思想は持たなかったのでしょうか。そうではない、と私は思います。彼の著作には、構造主義という狭い枠を超えた、二重の意味での「知の多元主義」とも呼ぶべき哲学が読み取れます。第一の意味の多元主義は、再び社会科学の方法論に関わるものです。彼は、歴史主義的なアプローチや、抽象化を施さない具体的な記述が持つ重要さを決して否定しません。構造主義は、数ある方法論のうちの一つでしかない。これが彼の真意なのです。

第二の意味での多元主義は、より広い、文明論的な色彩を持つ考えです。近代科学に結実した西洋的思考法は、例えば伝統的な東アジア思想に比べても、抽象的な概念を多用します。その西洋的な抽象的な思考法を、「二重の抽象による構造の発見」という仕方で極端に推し進めたのがレヴィ=ストロースでした。一方彼は、文化人類学者として、西洋中心主義を強く批判します。その一環として、彼は、婚姻関係を抽象的に捉える自らの構造主義的な知の対極にある、トーテミズムに代表される無文字社会の「象徴の体系」を「具体の科学」と位置づけました。「具体の科学」は、抽象的な科学知と対等なもの、両者の間には優劣はない。これが彼の考えです。このように、西洋文明と無文字社会を、その「知」のあり方において徹底して多元的に捉える哲学。これこそ、20世紀の数理科学の建設者の中にあって、レヴィ=ストロースを際立たせている姿勢だと思います。文理の垣根を越えた冒険精神に加え、このような他者への自己抑制的な眼差しこそ、今日、我々が彼から学ぶべき知的態度なのです。