複眼時評

小山哲 文学研究科教授「大学と街のあいだ」

2018.04.16

ヤギェウォ大学は、ポーランドの古都クラクフにある、ポーランドで最も古い大学である。創設は1364年で、東ヨーロッパではプラハのカレル大学に次いで長い歴史をもっている。16世紀前半に、当時の定説をくつがえして地動説を提唱したコペルニクスも、若き日にこの大学で学んだ一人である。学生時代に、月の軌道が楕円であることをはじめて指摘したヴォイチェフ・ブルゼフスキ教授の講義に接したことが、彼が天文学に目覚めるきっかけとなったとも言われる。

コペルニクスから四半世紀ほど遅れて、1517年、まだ10代半ばの少年が、ヤギェウォ大学に入学した。この若者、アンジェイ・フリチ=モジェフスキは、のちに革新的な国家論を著して、ポーランド・ルネサンスを代表する人文主義者となる。後年、フリチ=モジェフスキは、学生時代をふり返って、「泉よりも、むしろ濁った小川から神学を汲みとった」と回想している。これは、大学の講義よりも、教室の外での議論から神学について多くを学んだ、ということを意味する。ちょうど彼が入学したころ、ドイツでは、ルターがカトリック教会の堕落を批判する95か条の提題を発表して、騒然たる議論が巻き起こっていた。ヤギェウォ大学の教師も学生も、ドイツから送られてくるルターの最新の著作を競って読み、討論した。しかし、そうした熱い議論は、しばしば大学の敷地の外で行われたのである。歴史家のなかには、この証言を引いて、これはヤギェウォ大学が学問的に衰退しはじめた徴候のあらわれである、と指摘する人もいる。

しかし、こうした見方は、大学とその外側の都市空間とを形式的に区別し過ぎているのではないかと私は考えている。カトリック教会の問題点を鋭く指摘したルターの著作は、ヤギェウォ大学の教師にとっても学生にとっても無視することのできないものだったが、スコラ学が支配する大学の授業でとりあげるには刺激が強すぎた。時代の大きな岐路にさしかかって、教師も学生も、制度化された学問の限界に突き当たっていたのである。そんなとき、彼らは、制約の多い教室から外に出て、街頭でルターの改革について議論をした。そこには、クラクフの市民も加わっていたかもしれない。彼らは、街の自由な空気のなかで議論することによって壁を突破する方法を模索し、そこから新たな知の潮流が生みだされていった。いわば、大学が敷地の境界を越えて街に溢れだし、市民が行き交う広場が演習室となったのである。その意味では、大学を包みこみ、教師や学生が市民と交わるクラクフの街の空間にこそ、新しい学知を育む力が潜んでいたといえるかもしれない。



京都大学は、昨年12月に、「立看板規程」を制定した。この規程によれば、立看板の設置は「京都大学学内団体規定により総長が承認した団体が行うもの」に限られ、看板を立てることができる空間も、大学が指定した構内の設置場所に限定される。立看板の前面に「設置する団体名、責任者の氏名、連絡先あるいは学生番号、設置期間」を明記しなければならず、立看板の大きさも「縦200センチメートル、横200センチメートル以内」に規制される。

私たちが知っている、そして、数10年にわたって百万遍や東一条の景観の一部を形づくってきた立看板は、大学の敷地の境界に、外側に向けて立てられた、街の空間へと開かれたメディアである。それは、サイズやデザインについての規制なしに、発信したい者が自由に自己表現できる、便利で手ごろな媒体であった。他方で、台風が来るときには一時的に撤去するなど共有されたルールがあり、それは比較的よく守られてきたと思う。しかし、新たな規程が施行されると、京都大学の立看板は、都市空間に背を向けて、大学の構内の決められた一画に、同じような背丈で、名札を付けて行儀よく並んだ、内向きのメディアとなる。それは、大学の壁の外側に、街のほうを向いて、おもいおもいの装いで、いろんなポーズをして、道行く人びとに自由に問いを投げかけ、メッセージを発信していたこれまでの立看板とは、まったく異なる媒体である。

「立看板規程」が施行される5月1日に、京都大学は、世代を越えて大学と街とを結んできた手作りの自由なメディアを失うことになる。街の側からみれば、京都大学の外壁の石垣は、この日から単なる「壁」となる。そのことがもつ意味について、京都大学の学生・教職員と周辺地域の市民とが十分に議論をつくす機会をもちえないまま、異例の早さで規程が制定され施行されるにいたったことは、大学にとっても、京都市にとっても、きわめて残念な成り行きであると思う。街に背を向けて内部の統制を強化する最高学府から、ほんとうの意味で新しい文化は生まれてくるのだろうか。

(こやま・さとし 文学研究科教授。専門はポーランド史)