西山伸 大学文書館教授「『あの戦争』に関わる三点の史料」(2014.05.01)

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「あの戦争」の終結から来年で七〇年になる。マスメディアなどでは、例年に増して様々な特集が組まれることだろう。ここでは、それに先立って「あの戦争」と大学に関する三点の史料を紹介する。

「現在ノ所幹部ハ不足ハ致シテ居リマセヌ、余ッテ居リマス、余ルト申シテモ大シテ余リマセヌガ、事変直前ノヤウニ素質ガ悪クテ足ラヌト云フコトハ、聖戦四年ノ間ニ其ノ弊害ハ全部除去サレマシタカラ御安心下サイ」(註1)
これは、一九四一年二月三日、第七六回帝国議会衆議院に政府委員として出席していた田中隆吉陸軍少将の答弁である。日本の兵役制度においては、中等学校以上の在学者は原則として卒業まで徴集が猶予されていた。だが、日中戦争が始まると、軍は第一線の現場指揮官(ここでは「幹部」と称している)の不足から、大学の在学年限短縮を行うなど、学生を少しでも早く徴集しようとしていた、と言われる。その最終的形態が現役の学生も徴集する「学徒出陣」であった。しかし、日中戦争がすでに泥沼化していた右の時期でも、軍は学生を多く徴集することに積極的ではなかったことが史料から推測される。詳細は省くが、学生を早く軍に入れろと盛んに主張していたのは議員やメディアの方であった。

「遂に英・米と戦ふに至る。〔中略〕今迄支那事変といふ腰抜けいくさに気を腐らせてゐた我々も、さっと天窓が開かれて清新な光が一杯に入り満ちたやうに思ふ。〔中略〕布哇大空襲は中でも最も痛快だ」(註2)
これは、京大文学部出身で戦後間もなく京大分校(のち教養部)の教官となった林憲一郎の一九四一年一二月八日、つまり対米英開戦時の日記である。この日、多くの知識人が真珠湾攻撃に快哉を叫んだのは周知の事実だが、大学関係者も例外ではなかった。仏文を専攻していた林は、日記中で、ドイツに対する反感を隠さず、当時の首相を「東条の如きオッチョコチョイ」と馬鹿にし、開戦一週間前には「暗黒時代も本格的になってきた」と深い憂いを覗かせていた。その林にしてこの喜びぶりである。大学内、あるいは世間一般の空気が想像できる。

「軍の研究所とはいうんですけれども、大学の先生たちがほとんどでしたね。研究者の九割までがそうでしたから、研究が非常にしやすかったし、まだ角帽をかぶって詰襟の服を着ているやつが、いまの金にして一、〇〇〇万円ぐらいの予算を握れたわけですから、ずいぶんやりやすかったわけですね。もっとも、本気で殺人光線ができるとは思わなかったですけれども」(註3)
これは、戦時中阪大の学生で、戦後東大の原子核研究所や宇宙航空研究所などで宇宙線物理学の研究に従事した小田稔の回想である。小田は学生時代に静岡県島田にある海軍技術研究所の島田分室で「殺人光線」の研究を行っていたという。戦時下の軍は大学の「学問の自由」に対して圧迫を加えたというイメージがあるが、それは一つの側面に過ぎない。理系・文系を問わず、戦争遂行に役立つ学問には軍は積極的に支援した。ただ、軍の思惑と科学者たちの認識との間には、右の史料でも見られるようにかなりのずれがある場合もあった。時流に乗った(乗るふりをした?)分野においては研究が盛んに続けられていたのであり、研究者はそこで「研究の自由」を享受していた、と言える。これを研究者の「したたかさ」と評してよいかどうかは意見の分かれるところかも知れない。

さて、以上の三点の史料が語ることについて、「こんなことくらい、わざわざ言われなくても知っているよ」と受けとめる人が多ければ多くなるほど、「あの戦争」に関する研究が進むのではないかと最近筆者は考えている。

(註1)『帝国議会衆議院委員会議録』一二九、昭和篇、東京大学出版会、一九九七年、三〇三頁。
(註2)『林憲一郎日記』(個人蔵)。
(註3)小谷正雄・熊谷寛夫ほか「日本の物理学はいかに進められたか」『自然』第一八巻第一号、一九六三年一月、一八頁。

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