河本真理 京都造形芸術大学准教授 「コラージュが映し出す断片化の現実と綜合化の夢」(2007.12.01)

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―河本さんの専門は西洋近現代美術史ですが、第一次世界大戦前後の美術史に見られた特徴とは何なのでしょうか。著書『切断の時代』にある通り、切断が一つのキーワードになるのでしょうか。

『切断の時代』はパリ第一大学に提出した博士論文をもとにしたものですが、コラージュとその表現技法の特徴である「切断」が、20世紀美術史全体を貫くある時代精神を表わしているのではないかということで、こうしたタイトルをつけました。コラージュにおいては断片化だけでなく、その一方で、あらゆる要素を綜合しようとする動きも生じる。断片化と綜合化という、相反する極の間を揺れ動いてきたのが20世紀美術だろうと考えています。ただし、初めに言っておくと、第一次世界大戦という歴史上の切断面と美術史上の切断面は必ずしも一致しないというのが私の見解です。なぜなら、往々にして第一次世界大戦の芸術に対する影響と言われる、既成の芸術の概念の否定、あるいは言語の統一性やシンタックスの解体は、第一次大戦以前にすでに始まっていたからです。

―コラージュという表現技法はどのように登場してきたのでしょうか。

コラージュに見られる「断片化」を最初に予兆として語ったのは、実は1800年頃のシュレーゲルというロマン主義者です。彼は、フランス革命の衝撃を受けて『断章』の中で、「あまたの古代人の作品は断片になった。あまたの近代人の作品は、生まれたときから断片である」と記しました。こうした近代という時代を最初に自覚したのがロマン主義者で、それは後にパウル・クレー、ハンス(ジャン)・アルプ、クルト・シュヴィッタース、マックス・エルンストといった芸術家やヴァルター・ベンヤミンらの批評家に受け継がれていきます。

この断片化の予兆が、20世紀になってキュビスムという実際の芸術に表われてきます。ピカソは、1912年に、籐張りを模した防水布をカンヴァスに貼り付けた《籐椅子のある静物》を制作しました。これが最初のコラージュと考えられています。

―コラージュの登場とは美術史からすると、どのような意義があったのでしょうか。

他の領域に属していた要素を新しい芸術のコンテクストに移すこと、これがコラージュです。コラージュにおいては、こうして生じる逸脱が重要なのです。ルネサンス以来の絵画は、油彩画というシステムを基本にしていました。アルベルティが「絵画は世界に向かって開かれた窓である」と言ったように、遠近法を駆使して、見る人がその世界に入り込めるように作ってある。ミメーシス(模倣)がルネサンス以降の絵画の大前提でした。

コラージュは、その窓のなかに異質なものを挿入することによって、ルネサンス以降の絵画のシステムへのアンチテーゼとなりました。このことは、「窓としての絵画ではなく」絵画の平面性を強調するとともに、逆に要素を空間に押し出し、三次元化を押し進めるアッサンブラージュにつながります。

コラージュを促した模倣の否定という考えは、写真の登場およびその発達と無縁ではありません。対象をそっくりに再現するという画家の仕事を、写真の方がはるかに完璧に、しかも簡単にやってのけるようになったわけですから、画家は他に活路を見出さざるを得なくなります。それが、一方ではコラージュ、他方では抽象美術を生み出すことになるのです。もっとも、写真を積極的に活用するという選択肢もあったわけで、フォトモンタージュがその例です。

―登場したコラージュはどのように展開し、受容されていったのでしょうか。

フランスで始まったコラージュの技法は、芸術家のネットワークを通じて、イタリア・ドイツ・ロシアなどヨーロッパ各国に広まっていきます。例えばロシアのウラジーミル・タトリンは、ピカソのアトリエを実際に訪ね、ピカソのコンストラクションに影響を受けたレリーフなどを制作しています。

―美術史上の切断面と第一次世界大戦という歴史上の切断面は必ずしも一致しないと述べられましたが、例えば、戦場の経験が芸術に及ぼした影響という点ではどうでしょうか。

当時の芸術家たちの中には、第一次世界大戦に自ら志願して従軍した人も多く、戦死してしまった芸術家もいます。未来派の彫刻家ボッチョーニや同じく未来派の建築家サンテリアなどですね。戦争が古いヨーロッパを浄化すると信じて従軍したドイツ表現主義のフランツ・マルクがヴェルダンで戦死した後、パウル・クレーは前線から後方支援に回されるようになります。

戦場の悲惨で過酷な経験を描いた画家としては、ジョージ・グロス、マックス・ベックマンやオットー・ディクスらが有名です。グロスは、傷痍軍人も多数描いており、文字通り戦争によって切断された身体を表象しているわけです。

キュビスムの画家でいえば、ピカソは戦場を経験していません。彼はスペイン国籍なので徴兵されませんでしたが、バルカン戦争(1912年)の開始を告げる新聞記事を切り抜いてコラージュを作っています(図)。一方、ピカソと親交が深かった同じくキュビスムのブラックは出征し帰還するものの、戦後ピカソとの芸術上の対話は絶たれてしまいます。

戦争によって破壊されることになる秩序を回復しようとする願望の表われとして、第一次世界大戦開戦後の1914年頃から、キュビスムや未来派に共通して、「秩序への回帰」と言われる傾向が見られるようになります。彼らのようないわゆるアヴァンギャルドが、フランスのアングルや、イタリア(初期)ルネサンスのジォットやピエロ・デッラ・フランチェスカといった古典に範を求めて、伝統的油彩画を描くようになるのです。

―ピカソがバルカン戦争の記事を切り抜いてコラージュを作ったというのは、例えば「反戦」などのような政治的メッセージがあったのでしょうか。

そう見る研究者もいます。パトリシア・ライテンは、「ピカソがコラージュにおいてこうした新聞記事を使用したのは、芸術において無政府主義を問題にしようとしたからだ」と主張しました。このライテンの挑発的なテーゼにより、キュビスムのコラージュにおいてピカソが政治的意志を表明しようとしたのかについて激しい議論になりました。

ピエール・デクスは、1960年代に、こうしたコラージュについてピカソに尋ねたときのことを次のように語っています。デクスが、新聞記事を挿入したのは政治的意志の表明かどうか尋ねると、ピカソは「もちろんわざとやったのだよ。それは重要な出来事で、10万人も動員したからね。それは私が戦争に反対しているということを示す私なりのやり方だったのだ」と答えました。デクスが、当時このコラージュは公には展示されていなかったと指摘すると、ピカソは「人々が後になってそれを見つけ、理解するだろうと分かっていたからね」と答えました。

この問答から分かることは、ピカソがコラージュの受容における二つの「時」を明確に区別していたということです。すなわち、制作当時の受容がきわめて限られていたのに対し、後世の美術史家には幅広い解釈の可能性が開かれていることを、ピカソは意識していたと言えます。

―第一次世界大戦という時代背景に、さまざまな芸術家の思惑が絡んでいったということでしょうか。

第一次世界大戦は、「秩序への回帰」を促す一方、既成の芸術の概念を否定するダダの運動を加速させました(マルセル・デュシャンのレディ=メイドは、すでに戦前の1913年から制作されています)。

ダダイストのアルプは、紙片を地に撒き散らして、「〈偶然の法則〉によって配置されたコラージュ」を制作しました。ここでは、芸術家によるコントロールへのアンチテーゼとして、偶然(シュルレアリスムの場合は無意識)を意識的に用いるという戦略的な方法が取られたわけです。

第一次世界大戦は、機械・速度・ダイナミズムという未来派の美学を具現化した全体戦争であると同時に、世界の経験を断片化していくものでもありました。「断片化」による喪失を埋め合わせるべく、統一性と全体性を希求するという「綜合芸術作品」の理念が、この時代の芸術に重要となってきます。「綜合芸術作品」の理念自体は、19世紀半ばにヴァーグナーが提唱したものですが、それは未来派、ダダ、バウハウス、構成主義、シュヴィッタースの「メルツ綜合芸術作品」などに形を変えて受け継がれ、第一次世界大戦以降も多くの芸術家を魅了し続けたのです。

《本紙に写真掲載》



こうもと・まり 京都造形芸術大学比較藝術学研究センター准教授。専門は、コラージュを中心とした西洋近現代美術史。著書に『切断の時代ー20世紀におけるコラージュの美学と歴史』ブリュッケ、2007年(サントリー学芸賞、渋沢・クローデル賞ルイ・ヴィトン ジャパン特別賞受賞)がある。

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