〈企画〉いま読み直す世界の「名著」(2011.10.01)

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「若者の読書離れ」が叫ばれるようになって久しい。勉学を本分とする大学生であればそういうわけにもいかないだろうと思いきや、近年の売れ筋は新書やいわゆるエンターテイメント小説、ライトノベルといった「お手頃」書物であるらしい。むろんそういった書物にも相応の価値や意義というものがあるし、頭ごなしに否定することこそナンセンスに相違ない。しかし、何かもの足りない。それは恐らく、学生特有の限られたアタマを振り絞って、むずかしい顔をしながら書物にあたってみるという経験である。

以下に挙げるのは、様々な分野において「マスト」とされている名著、そして限られたアタマを駆使しつつ先哲たちの文章に挑んだ編集員の苦闘の結晶である。(編集部)

S.ボーヴォワール/井上たか子、中嶋公子ら監訳『第二の性』(新潮社)


もし高校野球の女子マネージャーがボーヴォワールの『第二の性』を読んだら


〈第一章 みなみは『第二の性』と出会った〉

吉田みなみは疲れていた。昨日のミーティングで「野球部を甲子園に連れていく」という目標を叶えるべく、ドラッカーの『マネジメント』を応用した野球部の改革プランを提示したのだった。でも部員皆から「厳しいよ」と言われ却下されてしまったのだ。

だが吉田みなみが落ち込んでいる最大の原因は、下校途中に部員たちの会話を聞いたことだった。「正直、甲子園は行きたいけどさあ。女には口出されたくねーよな」「女子マネは俺らにドリンク作ってくれればそれで十分なんだよ」とみなみを馬鹿にする部員たち。さらには後輩マネージャーも「吉田先輩は“女子力”が足りないんですよねぇ」と部員に媚を売っていたのである。

どうして女だからという理由で対等な相手とみなされないのだろう……。吉田みなみは悩みながらは廊下を歩いていた。すると、みなみはゴミ捨て場に大量の本が捨ててあったのを見つけた。

吉田みなみが通っている都立高校では、去年まで先進的なジェンダー教育が実施されていた。だが視察に来た都議会議員の「日本の伝統・美風を壊す教育は如何なものか」発言がきっかけで取り止めに。そして、図書室のジェンダー文庫も全て処分されることになっていたのだった。

「第二の性……?」一番分厚かったボーヴォワール『第二の性』のページをめくった。みなみはその本が小説で、現実逃避にはちょうど良いかなと思ったのだ。だがみなみはこの『第二の性』を通して世界と向き合うことになる。

「女は男を基準にして規定され、区別されるが、女は男の基準にはならない。女は本質的なものに対する非本質的なものなのだ。男は〈主体〉であり、〈絶対者〉である。つまり、女は〈他者〉なのだ。(p.11)」

吉田みなみはショックだった。(あぁ…、まさに今のわたしだ。高校野球の世界では所詮女は〈他者〉、あくまでも〈主体〉である男の求めに応じることでしか居場所が無い。)それまで感じていたモヤモヤをはじめてみなみは言語化出来たのだった。

「人類は自らを種として維持しようとしているのではない。人類の投企(projet)は停滞ではない。人類がめざしているのは自らを超越すること(p.96)」であるのに、男だけが特権的にこの本来性を独占して来たこと。そのなかで男に都合の良い女の姿が、非本来的なものとして構築されてきたこと、〈閉じ込められて〉きたことを、吉田みなみは知った。(そうか、後輩マネージャーもこういう構造のなかで自分を疎外しているんだ) 

アリストテレス、聖トマス、アウグスチヌス、更にはブルードン……歴史上の偉人とされる男はたいてい女を人間扱いしていなかった。(男は当てにできない!)

それで、吉田みなみはドキドキしながらその先を読み進めた。すると、そこにはこうあった。「人は女に生まれるのではない。女になるのだ。(p.11)」 吉田みなみは遠い昔を思い出した。リトルリーグで選手として活躍し、いつかは甲子園に行きたいなあと無邪気に夢みていた小学生時代。それが女だからという理由で野球部員であることに後ろ指を指されるようになった中学生時代。女という理由で「マネージャー」という従属的な地位に押し込められ、男と対等に意見することも出来ない高校生の今…。このまま私も「女」になって、彼らに望まれるままの「女子マネージャー」として奉仕するしかないの……?いやだ!そんなのおかしいよ!

吉田みなみは知ってしまった。男たちを「甲子園に連れて」いくマネージャーでなく、本当は自分自身が〈主体〉として甲子園のグラウンドに立ちたいのだと。彼女の世界への参加(engagement)が始まろうとしていた。〈つづく〉(魚)

※本作は「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」とは一切関係ありません。

W. シェイクスピア/坪内逍遥訳『ハムレット』(新樹社)


「世に在る、世に在らぬ、それが疑問ぢゃ」


「翻訳は、オリジナルの影にすぎないのか?」という問いは、なかなか厄介な代物だ。この手の問題を小一時間でも論じているうちに、「そういう面もあるし、そうでない面もある」というような妥協的結論に陥るのは必定である。

「オリジナル優位論者」たち曰く、オリジナルが存在しなければ翻訳は存在しえない。至極当然で分かり切ったことではあるが、この意見を出されると「翻訳自立論者」たちは二の句をつげなくなってしまうかもしれない。しかしそこには、「親がいなければ子は生まれない」とする論理と同じような傲慢さもある。翻訳がオリジナルの魔手を離れ、独立した芸術として自身を成り立たせてきた実例を、私たちは「沙翁」ウィリアム・シェイクスピア作品の翻訳の中に見出すことができる。

シェイクスピアほど、数多くの研究者・翻訳家が挑み、議論の対象にされてきた創作者はいないであろう。英文学に精通していなくても、それくらいは何となく分かる。今回取り上げる『ハムレット』の場合、出版されたものだけでも優に百を超える訳があるといわれる。そんな『ハムレット』が我が国において原作に忠実な翻訳が初めてなされたのは明治38年のことだった。そして昭和3年に坪内逍遥が完訳を達成し、後の翻訳家たちに少なからぬ影響を与えた。以後、福田恆存、小田島雄志らといった泰斗たちが全集を世に出しており、読者の中にはこの両者の訳でシェイクスピアに親しんだという方が多いのではないかと思われる。

話の概要をこの場で敷衍するのはもはやナンセンスかもしれないが、念のため。父王を叔父に殺害され、王位と母の愛までをも奪われた王子ハムレットが、復讐に燃えて狂気を演ずる中で起こる、一連の悲劇である(要約しすぎだという向きもあるかもしれないが)。明治42年に刊行されたこの坪内訳は、現代でこそ親しみのない漢語も含まれ古風な印象を受けるものの、臨場感、リズムにすぐれ、時に過剰とさえ思えるほどの言葉を尽くしている。太宰治は後年、自身の『新ハムレット』(1941)において坪内訳の一節を引き、登場人物に「へんな言葉だ。いやになるね」と語らせているほどである。この啖呵の良さは実際に手にとって味わっていただきたいが、例として一部を引く。「はて、俺は何たる大阿呆ぢゃ! えゝ、立派ぢゃわい、奇特ぢゃわい、現在の父を殺され、天地共に復讐を責促るに、口先ばかりの賣女のやうに氣休めの言句を竝べ、只はしたなく咀ひ罵る、腐卑女のやうに。」(原文ママ) 太宰の気持も分からないではない。

ちなみにあの有名な一節 ― “To be, or not to be: that is the  question.” ― は「世に在る、世に在らぬ、それが疑問ぢゃ」。福田訳(「生か、死か、それが疑問だ」)や小田島訳(「このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ」)に慣れている身としてはいささか空回りを感じてしまうのだが、後に与えた影響を思えばこれも「沙翁」受容史の重要な一里塚である。

翻訳家には翻訳家の言葉がある。翻訳を読むことは、いわば二人の人間の思考を辿ることなのだ。(薮)

B.アンダーソン/白石隆・白石さや訳『想像の共同体』(書籍工房早山)


「国民とは、イメージとして心に描かれた想像の政治共同体である」


最近、ナショナリズムの新古典とも評されるようになったこの作品の中で、著者は「想像の共同体」と呼ばれる、活版印刷技術の向上による言語の画一化などによって一定の同一意識を持った(=想像する)人々の集団――それはつまるところ「国民」になりゆくものだが――の存在基盤について、それが決して自然的な要因によるものではなく、様々な権力の恣意的な決定によって作られた意識であることを暴き出す。

例えば、私を含めこの新聞の読者の多くは日本国の政府が定めた領土に居を構えているわけだが、「日本語を話す者が日本国民である」とか「われわれは有史以来、ずっと日本国民であった」とかいう言説のおかしさには気づいていただけるだろうと思う。「日本語」使用の徹底は、そもそも何が「日本語」なのかという話を抜きにしても、戦時中大日本帝国が植民地に対して行った「皇民化政策」の系譜を継ぐものであるし、「国民」などという概念は、西欧で作られたものが更に明治政府に持ち込まれ、「土着」したものでしかないのであり、そう言った言説は決して論理的であるとはいえない。

しかし、ナショナリズムの中では、そのような無茶苦茶な言説がまかり通ってしまうのである。著者はそれをナショナリストたちが「空虚で均質な時間」を通っている、つまりは自分や他者を自分にとって都合のいい一本道の歴史の上に置いているからだ、と分析する。ナショナリストたちは、一本道の「ツマラナイ」時間や空間の中で、自分と「同じ」人を見つけては安心し、道を外れた「違う」人を見つけては排斥・差別しようとする。曖昧なアイデンティティを許さず、他者を排斥してでも常に確固とした「自己」を求めようとするのだ。そういったナショナリズムの性質を、著者は「宗教と親和性がある」と述べているが、まっとうな宗教からしてみればたまったものではないと思う。

さて、この著書のタイトルである「想像の共同体」は、「Imagined  Community」の和訳であるわけだが、面白いことにナショナリズムは「Creation」と「Imagination」、つまりは「創造」と「想像」が自己矛盾をはらんだまま両立する、何とも不思議な思想なのである。創造と想像とのはざまで、我々はナショナルなものを信仰している。我々はそのことを自覚し、そのようなまやかしから「脱宗教」していかなければならないだろう。そこには多大なる痛みが伴うだろうが、現在ナショナリズムが周囲に与えている痛みよりかはよっぽどましなものである。著書にはここまでのことは書かれていないが、我々読者はこの著書から、ポスト・ナショナリズムの世界を「想像」していかなければならない。(穣)

プラトン/田中美知太郎訳『ソクラテスの弁明』(中央公論新社)


もう行かなければならない。わたしはこれから死ぬために、諸君はこれから生きるために。


ソクラテスが「自分より賢い者はない」というデルフォイの神託を覆すため、様々な分野の知者たちに会い、彼らが自分が知っていると思っていることについて、実際は知らないことを暴いていく。このエピソードは非常に有名である。その結果として彼はいわゆる「無知の知」に至るのだが、ソクラテスに言わせれば、実際には知らないのに知っていると勘違いしているよりも、自分は何も知らないということを知っている方がまだ賢いのである。

『弁明』は、その活動ゆえにソクラテスが訴えられた際の裁判の記録という形式を取っており、ソクラテスの横でその弁明を聞いていた弟子のプラトンが、後年記憶を手繰りながら書いた可能性が高いという。プラトンによって書き残された多くの対話編の中の1つである。

舞台はアテナイの法廷。ソクラテスは「若者を腐敗させ、国家の認める神々を認めずに、他の新しい鬼神(ダイモーン)の類を祭っている」としてメレトスという男に告訴される。原告側の求刑は死刑である。ソクラテスとしては無罪を勝ち取れるよう弁明しなければならないが、彼はそうしない。メレトスを直接論破するだけでなく、ソクラテスやその取り巻きに恥をかかされた人々が、裁判官であるアテナイ市民たちに、長年にわたって自分への中傷を吹き込んできたと言うのだ。さらに、誰彼かまわず問答しその無知を暴くという生き方を、これからも止めるつもりは毛頭ないとまで言い切る。結果として彼はアテナイ市民の怒りを買い、有罪となる。

ところが、量刑決定の段になってもソクラテスの調子は変わらない。自分は無罪であり、それどころかポリスに貢献しているのだから、むしろ感謝されるべきだという。当然、市民たちには理解されることもなく、判決は死刑。

この作品自体としては一種の悲劇となるが、ここで描かれるソクラテスは生き生きと、しかも時にユーモラスによく喋る。ほとんど彼の独壇場だ。弁明の部分を抜き出したのだから当然かもしれないが、これのどこが対話編なのか、といぶかしく思ってしまう。

しかし、ソクラテスが法廷に集まったアテナイ市民たちに語りかけるたびに、それを眼で追う読者も「あなたはどう思いますか」と問いかけられる。おそらく、これが対話編という形式の、肝心要の部分ではないだろうか。多分に本編を翻訳した故・田中美知太郎氏の文章に依る部分もあるだろうが、問いかけという形によって、私たちは登場人物たちの言葉に、同意するかどうかを自然と考えるようになっている。1人の主張という形で提出される論文では、なかなかそうはいかない。少なくともそこで展開されるロジックは、素人には付け入る隙などないように思われる。読者に思考を促すという点で、この作品ははっきりと「対話」であると言える。

そもそも哲学、というよりも考えるということも、ある意味で対話なのかもしれない。浮かんできた疑問を解こうとする過程は、他人の質問への答えを用意するのと似ている気がする。(石)

《本紙に写真掲載》

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