佐々木健一 日本大学教授「芸術は終わったのか?」(2011.09.16)

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現代アートの作品を見たときの、あれやこれの疑問と混乱。どこか納得しないまま展覧会を後にした経験が一度はあるだろう。現代アートとどう接すればよいのか、社会の中における芸術の現在位置はどこか。著作『美学への招待』(中公新書)で平易な文章で美学を紹介する、佐々木健一・日本大学文理学部教授まで話を伺った。(鴨)


ささき・けんいち
1971年、東京大学大学院人文科学研究科美学藝術学博士課程を修了。76年から埼玉大学助教授。その後東京大学文学部助教授をへて、89年に同大学教授。2004年に定年退職し、現在は日本大学文理学哲学科教授。東京大学名誉教授。著書に『美学辞典』(95年、東京大学出版会)、『フランスを中心とする18世紀美学史の研究―ウァトーからモーツァルトへ』(99年、岩波書店)、『美学への招待』(04年、中央公論新社)ほか多数。

芸術に対する素朴な疑問


―現代アートが分かりません。


それは現代アートにおいて、感性的に訴えかけるというファクターが決定的なものではなくなったからです。美術であれば見ればわかる、音楽なら聞けば分かるという言い方が昔は通用しましたが今では通用しません。例えば現代美術家マルセル・デュシャン(1887~1968)の「泉」はただの便器なのになぜ芸術なのか、作品を見ただけでは分からないでしょう。しかしそれが分かれば好き嫌い以前に納得する、これはこういうものなのだと納得できます。これは広義の美術史、理論史の見取り図のようなものが頭にあって、それに照らして納得することです。

芸術家が実践するためには理論が必要です。例えば伝統的な富士山の絵を描いている人も絵画とはこういうものだという理論があり富士山を描いていて、同じく便器を出品する芸術家も理論を持っているわけです。その理論は理論書、論文の形で書かれていないかもしれないが、いずれも或る理論に則って作られています。その理論を全員が共有している場合には誰でも「見ればわかる」んですよ。しかしデュシャンのような人はその理論自体を変革しようとするわけだから、理論がどういう状態にあってどう変化しうるのか、変わろうとしているのかを認識していないと、なぜそのような作品が提示されたか理解できません。現代アートは理論を知らないと全く理解できないと思います。

―現代アートの展覧会を見ると、「何でもアートになる」という印象を受けます。


何でもアートだというのは、その通りでもあり、その通りでもありません。既製品でもレディ・メイドとしてアートになるし、非常に無価値な物でも手で作りアートと称すれば桁違いの価値を持ちます。例えばアンディ・ウォーホルの「ブリロ・ボックス」は商業用コンテナの外観を木製合板にそっくり写したもので、元の箱との外見上の違いを全く持ちません。とはいえこのペンを「これはアートです」と言って出品しても、そのように主張することは自由だけれども誰も見向きもしないでしょう。それがなぜアートなのかが問題です。

―誰かに認められることが重要なのですか。


それは絶対重要です。「私的言語」という、たった1人が用いる自分しか理解できない、他の人とはコミュニケーションが取れない言語があります。芸術について私的芸術というのが成立するかと言えば、「やりたければどうぞ」ということになり、その個人の問題を超えることはありません。便器にせよウォーホルの「ブリロ・ボックス」にせよ、それは既にある種の多数決原理が働く共同体的な現象なのです。これらの場合には積極的に認める人がおり、理論的な確信を伴っています。例えば「ブリロ・ボックス」を作ることは、今まであった芸術とは違う考え方、つまり違う理論に則った芸術を作るということになります。鑑賞者側もやはり理論を立ててこれは芸術なのかどうかを論じないと評論になりません。理論なく描かれたものというのは文字通りの意味において認められないし、重要な影響力を持たないでしょう。

―しかし、たとえば動物が理論なく描いた絵も絵として認められているような気がします。


評論とか判断というのは、誰がそう言っているのかが問題なわけです。例えば野球界の権威が動物の絵に対し発言しても素人が言うのと同じです。それぞれの領域において、有意義なことを語ると社会に認識された人の発言が重きを為します。単純な多数決や1人1票というわけではありません。

哲学者アーサー・ダントーは、何が芸術であるかはアートワールドが決めると言いました。アートワールドというのは芸術の世界が運営される基礎、そうした暗黙の理論に基づいて運営されている世界です。そこの住人達とは芸術に関わるありとあらゆる人々で、その外縁は非常にぼやけていますが美術館の学芸員、美術評論家、芸術家、画商といった人達を含むのは間違いないでしょう。彼らは自分たちが則り了解している「芸術とはなにか」という概念を持っており、何か適当なものを持ってきて「アートです」と言ってもそうした人々は一笑に付すだけでしょう。ダントーは同時に、アートワールドは歴史的に変化するということを非常に重視しています。例えば「ブリロ・ボックス」は100年前に作られなかっただろうし、作られても受け入れられなかったに違いありません。「アートはアートワールドが決める」という定義は全くのトートロジーです。けれども形式論理学のテーゼを検証しているわけではないので、そうとしか言えないと彼は考えたのでしょう。

―ただ単に物を集めるなど、同様の手法が何度も繰り返し使われているのを見受けます。


同じ人が同じ手法を繰り返すケースと、他人が真似るケースがあります。同一の芸術家が繰り返すのは、現代においては一度売れると同じ手法を続けねばならないという市場原理もあるでしょう。ピカソは例外的に変貌を繰り返したひとです。あるときキュビズムの様式を発明しその後にまたリアリズムに戻るなど、生涯を通して何回か様式を変えていますが、並みの芸術家には出来ません。ベルナール・ビュフェというフランス人画家の絵を見るとどれも似通っていますが、彼はそれで売れました。誰が見てもビュフェとわかる絵だから、好きな日本人はその絵を買うわけです。しかしビュフェが違う様式で描けば見向きもされないという可能性が非常に強いと思います。吉本ばななでも赤川次郎でも、とてもシリアスなスタイルで書き出せばまたゼロからやり直しでしょう。だからある1つの手法、特に自分の名前と結びついているような手法を編み出したなら、もうそこから外れられず同じ路線を続けるわけです。

昔の芸術家も同様のことはあるでしょうが、現代の芸術家において同一手法の反復が特に目立つのは、他人と異なる手法をことさら取ろうとして自分の手法を考え出したからです。アプロプリエーション(既成作品を流用する技法)のように他人の作品や手法を繰り返す場合は、そこに理屈を付与させないといけません。他人の撮影した写真を再び自分のカメラで撮影する手法は、今まで誰も考えなかったので1つの様式になりました。外見は全く同じですが同様に「ブリロ・ボックス」をさらにコピーした作品があります。

―作風を変えないのは売れなくなるからでしょうか、それとも後ろめたいからでしょうか。


後ろめたいからではなくて、せっかく付いているファンを逃がしてしまうからでしょう。ピカソのようにそれを乗り越え、別の様式でなおかつ再び高い評価を受けるというのはすごいことです。例えばウォーホルもいつまでも「ブリロ・ボックス」を作るわけにもいかず、彼の回顧展を最後まで見ていくと違うものを作っていますが、といっても似ていると言えば似ています。従ってすべてにおいて評価を得ることはとても難しいかもしれません。一旦売れた後、経済的成功を気にしない場合にはいくらでも冒険できるでしょうが、想像するに成功した後の冒険は最初の冒険よりも難しくなるでしょう。そして残念ながら手法を変えて成功した例は多くありません。

―現代アートの作品は、よくタイトルが「無題」か「untitled」のような気がします。


タイトルが生じたのは元々主題を明示するためでしたが、現代アートにおいては主題自体が消失しました。現代画家ワシリー・カンディンスキーの「コンポジション」というタイトルは殆ど無意味です。その無意味という意味は、例えば宗教画の古典的な画題「スザンナをのぞき見する老人たち」との対比においてです。これはヌードで水浴びしているスザンナを老人が覗き見しているという有名な画題で、タイトルは少なくともそこに何が書いてあるかを意味しているのに対し、「コンポジション」というのは画題を意味していない、むしろ画題がないということが「コンポジション」というタイトルの意味です。

「コンポジション」にはスザンナとは違いますよという意味合をまだ含んでいましたが、「untitled」はさらに突き詰め「コンポジション」とすら付けません。何が描かれているかが画家の意識の中で意味を持たなくなっていることをそれは示しています。例えばヌードの女性を描こうという意識を持っている時には主題意識がありますが、主題意識を失うと当然タイトルに対して無関心になります。抽象画家ジャクソン・ポロックは絵の具を垂らすドリッピングという手法を取りましたが、その画面おいては特に何かを書いているという意識はありません。

「untitled」は、芸術家本人が自分の作品に「untitled」とタイトルを付ける場合と、元々タイトルが無い作品に美術館や展覧会の主催者が「untitled」と題名を付ける場合の両方があり、紛らわしいです。芸術家が「untitled」と付けている場合には多少は表現意思があって、それは否定的な表現意思と言えます。

芸術を論ずるとき


―そもそも芸術作品についての議論は可能でしょうか。個人の好みの問題となってしまいませんか。


これは18世紀の人々を悩ませていた古典的な議論で、18世紀美学の主要テーマの一つです。好みと言うレベルで語る場合、価値観が相対化してくる結果それぞれの自己主張がばらばらとなり闘争となるという、トマス・ホッブズの「万人の万人に対する闘争」という世界観につながります。その典型的な現象として趣味が挙げられます。カントが引用したラテン語の有名なことわざ、英語では「tasteについては議論できない」について、僕は元々そのtasteは単に「味覚」という意味だったのではないかと思います。味の好き嫌いは議論して言い負かしたところで、相手の食べるものが変わるわけではありません。

16世紀頃からtasteに相当する単語が「趣味」、つまり芸術作品や衣服についての好みの意味に使われ始めました。好みにも良い好み・悪い好みがあり、良い趣味という言い方がスタンダードで、良い趣味とは誰もがなるほどもっともだと認める好みという意味で使われていました。それを18世紀の哲学者たちは芸術の美を判定する能力として意味合いを確定させていき、例えばカントはその良い趣味の「良い」を取って趣味を絶対化し、美を判定する能力という定義を「趣味」に与えました。

カントの著作「判断力批判」の最初の部分は、趣味判断の分析に充てられています。趣味判断とは具体的には快不快を基準に判定し、利害関心を持たずに虚心坦懐に見る、概念をそこに持ち込まないということです。心の中にずっと見続けたい気持ち、つまりそれが何かはわかっていながら見続けるというようなある種のバランスの中に対象を捉える、それをカントは趣味判断、直感的なaestheticの判断と呼んでいます。カントは「好みについて議論できない」のではなくて絶対的に正しい趣味があると考え、だからこそそれが理論化されました。

ただ我々の生活の中では常に次のような緊張関係があり、これはいつまでもなくならないのではないかと思います。つまり一方においては哲学的に理論武装して良い趣味を正当化するという試みがあり、カントがその仕事を全て終えたと考えている人も少なくありません。しかし同時に「だからどうした、私は絶対にそういう事は認めない」と言う人達がいます。

―例えばこの作品はいやだ、と感じるのはどういう要因に依りますか。


好き嫌いを規定しているものとして、道徳心というものが非常に大きいと思います。ここで言う道徳心とは、世界の在り方としてどのようなものがいいと思うか悪いと思うか、という心持ちです。芸術作品を作るのは人間ですので、ある芸術家が嫌いならばその芸術家の作品を嫌いだなと思う気持ちと必然的に結びつくでしょう。

現象として美的なものと倫理的なものがほとんど不可分の関係にあります。華美な芸術と地味な芸術のどちらをより高く評価するかというとき、ひっそりと善行を行う事を評価するメンタリティの持ち主は必然的に地味な芸術を評価するのではないでしょうか。この場合倫理的な感覚、人間の生き方として何を良しとするかはかなり個人差があり、その異なる見方は芸術や美の現象の在り方の選択に投影されるでしょう。

―良い作品と評価されているものも、そうした価値観の集積でしょうか。


それだけではない様々な要因があり、例えば確立した芸術作品の場合には確立しているということが既に強い意味を持ちます。レオナルド・ダ・ヴィンチの「受胎告知」を見たとき、ほとんどの人は「これは文句をつけられないな」という印象を受けると思います。とにかく変わったことを言えばいいというスタンスでの批判は可能でも、「受胎告知」を真面目に批判することは難しい。中には「なぜこれがそんなに高い評価を受けているのだろう」と感じる作品があったとしても、当該作品に対する評価が定着しているとなかなか難しい。最大公約数的な好みが定着する、と楽観的には言えますが、そうでないことも容易に考えられます。

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