文化

〈企画〉漫画評 井上智徳 『COPPELION』(講談社)

2011.06.19

井上智徳作「COPPELION」は、東京のお台場に建てられた原子炉(=お台場原発)が2016年に大地震によって崩壊、東京などの地域が放射能に汚染され多くの人が被害を受けた、という事件の20年後(2036年)からストーリーが始まる。このマンガは福島原発事故まではアニメ化も予定されていたのだが、事故を受け作品自体の存続も危ぶまれていたものである。今回、私は新聞の枠を1ついただいて、「COPPELION」が我々に提示するメッセージを読み取っていきたいと思う。

このマンガの大きな要素は、大きく分けて2つ、①エネルギーを巡る権力者の思惑、②権力者・放射能に翻弄され続ける人々、であると考えられる。

まず一つ目の「エネルギーを巡る権力者の思惑」について考察する。この作品の中の内閣総理大臣は「反原発」を掲げているのだが、それは心の底から原発に反対しているのではなく、単なる支持率稼ぎを目的としてその立場をとっている。例えば彼は「百聞は一見にしかず作戦」と題して、放射能汚染のため30秒と居ることができないお台場原発へと部下の者たちを向かわせ、チェルノブイリ原発の石棺のごときその様子を全国ネットで放送する。この目論見はうまくいき、総理の支持率は急上昇した。ここに為政者の独善的な考えと、権力の煽動に惑わされる、「衆愚」とも言うべき国民の単純さが浮き彫りになる。まるでどこかの国の現状を物語っているかのようだ。しかし、国民を騙すことはできても、他国のトップはそう一筋縄にはいかない。いざエネルギー問題に関する国際会議に出てみれば、「反原発」を掲げる日本国の威信は全く無視され、各国の首脳たちは天然資源保有国であるオーストラリアにぺこぺこと頭を下げる(このマンガの設定では、アメリカは金融恐慌により凋落している)ばかりである。ここに、既存の利益にしがみつき続ける先進国の醜い姿があらわになる。

次に二つ目の「権力者・放射能に翻弄され続ける人々」であるが、これについては主人公たち(大阪の高校の女子高生)3人が、的確にそのことを体現しているといえる。主人公たち3人、「コッペリオン=コッペリア(人形)+イオン(放射性物質のイオンを吸収して無害化する交換体に由来している)」は東京での原発事故をうけた日本国の科学者たちが、東京での救助活動を行うために遺伝子操作を行って「作った」人である。遺伝子操作を繰り返した結果、彼女たちはいつ突然死するかもわからない。彼女たちは原発事故の「おかげで」自分たちが生まれることができたことに、どこか複雑な思いを抱きながら、それでもなお、東京に残された人々を救うことを自分たちの使命とする。そして、いつ終わるかもわからない人生を、死の街東京での救助活動に費やしていく。ここに彼女たちの健気さを感じるとともに、生まれながらにして運命を決定されてしまった彼女たちへの言いようのない無念の思いが込み上げてくる。その他にも、国に見捨てられた自衛隊員、東京に残ることを決めた人々、せめてもの償いにと、東京で救助活動を続ける原発設置責任者、突然死の恐怖に絶望したコッペリオンの同級生…。様々な立場の人たちが、たった1回の事故で人生を狂わされ、苦しみながら生きていく。エネルギーに目のくらんだ権力者の下で、人々は抵抗することもできず、ただ無力に従わざるを得ない。人々は「非力さ」に打ちのめされる。その時、人の心は「よい」方にも、「悪い」方にも動くのである。原発事故が引き起こした無益な争いがこのマンガには多く描かれているが、そこには人の心の不安定さが、良い意味でも悪い意味でも映し出されているのである。

「何考えとるんやドアホが……!そこまでして電気がほしいんか…!20年前に何があったかもう忘れてしもうたんか!!」この悲痛な叫びは、不法に核廃棄物を東京に捨てていた組織を知った時の主人公のセリフである。沢山の人々の犠牲の上に成り立つ、先進国のエネルギー事情。果たしてそれは本当に望ましいものなのか。我々は、危険と引き換えの豊かさを本当に必要としているのか。権力者たちはエネルギーのポジの部分ばかりに目が行き、ネガの部分を切り捨てているのではないのか。こういった人々への危険を無視したツケが今回の福島の事故であり、このマンガの中に描かれている事故はそれを警告していたのではないのか。「絶対安全」などという文句は到底ありえないのではないか。(穣)