〈企画〉アニメ評 魔法少女まどか☆マギカ(2011.04.16)

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口コミやネット上での大騒ぎによって普段アニメをあまり見ないという人たちの間でもかなりその名を知られ始めた感のある本作『魔法少女まどか☆マギカ』が、今月21日に最終回を迎えた。先の読めない展開の連続や、キャラクターたちを待ち受ける容赦ない過酷な運命、そしてそれらが視聴者にもたらす圧倒的な緊張感でもって今冬のアニメシーンを席巻した本作はまさに今、あらゆるメディアを超えてもっとも「熱い」作品である。
鉄は熱いうちに打て。最終回の熱気が筆者にも、そして本作を視聴した読者にもまだ残っているうちに本作の批評を行いたい。以下、大きく2章に分けて論じていく。(47)

Ⅰ 「まどか☆マギカ」をアイデンティファイする「伝わらない」世界


ストーリーというものを持つすべてのメディアに共通して言えることだが、「めでたしめでたし」のハッピーエンドで終わる話には必ず「想いが伝わる」瞬間がある。ラブストーリーであれば男が女、ないしは女が男に寄せる想いが伝わることをもって一件落着となるし、スポ根モノでも冒険活劇でも心の通じ合った仲間たちが困難に打ち勝つ姿が一番大きな感動を生む。ことにアニメでの「想いが伝わる」描写の出現頻度は高く、幼なじみの女の子は極めて高確率で主人公と結ばれるし、バトルものであろうとおおかたの場合、主人公の信念は周りにほいほいと共感されてゆく。アニメはもともと子ども向けに作られたものなので基本的には主人公の想いが勝利する作品が求められてきたという歴史的経緯があり、大人がアニメを見るようになった現在でもアニメ表現における「想いの勝利」への圧力は他ジャンルと比べてやや強い感じを受ける。「想いが伝わる」という形式を守らない作品に対してはそれだけで「鬱アニメ」などというレッテルが貼られることもあるほどだ。

時にはご都合主義を感じさせるほどの勢いで主人公の思いが道を切り開き、ハッピーエンドに向かってまっすぐと突進していく多くのアニメたちには「王道の快楽」がもたらすカタルシスと、その淡白さが生む物足りなさが混在している。アニメに特有の淡白さ(=想いの勝利イデオロギー)に耐えられるか否かはアニメオタクとそうでない人間を分ける分岐点の一つなのかもしれない。だからこそ主人公や他のキャラクターの想いが悲劇的なすれ違いを繰り返す『まどか☆マギカ』はアニメがこれまでもそもそと積み上げてきた淡白の山においてがぜん光を放つのである。

『まどか☆マギカ』での各キャラクターの想いは、これでもかというほどにことごとく伝わらない。
例えば愛する幼なじみの音楽少年、上條の指を治すため体内から自らの魂を抜きとってまで魔法少女になったさやかの一途な想いに、当の上條は全く気が付くことがない。彼はさやかの想いに応えるどころかさやかの友人である仁美と付き合いだしてしまい、さやかは絶望して魔女へと堕落する。彼女が魔女になるのを防ぐため懸命にさやかを支えようとしていたまどかや杏子の想いも、結局さやかには届くことがなかった。さらには「最後に愛と勇気が勝つストーリー」を信じて魔女化したさやかに立ち向かった杏子も勝利を得ることなく、さやかと共に死ぬ。

また少女たちを魔法少女にすることで魂を収集しようとするキュウべえの企みや、魔女を倒すために魔法少女になった者はいずれ自らも魔女になることなど、魔法少女システムに隠された恐ろしい真実を唯一知っている暁美ほむらの苦悩は『まどか☆マギカ』を規定する「伝わらない」世界の象徴といえるだろう。

彼女は、彼女のただ一人の友人、まどかがキュゥべえの企みで魔法少女にされてしまった未来を変えるために自らも魂を捧げ、時間を巻き戻す能力を望んで魔法少女になる。まどかが魔法少女になる前の世界へと戻った彼女は声を枯らしてまどかに魔法少女システムの真実を訴えるが、たくみにまどかの魔法少女化を誘導する黒幕キュゥべえの方が一枚上手で、まどかはほむらの死に物狂いの忠告もむなしく魔法少女になってしまう。ほむらは諦めずに何度も時間の巻き戻しを行い、まどかをキュゥべえの陰謀から救おうと試みては失敗するという悪夢のような「想いの敗北」をいくつもの時間軸で繰り返すのである。

ここまで述べたように、本作には胸が締め付けられるといった月並みな表現では到底追いつかないほどの痛みで視聴者を打ち据える「想いが伝わらない瞬間」が毎話のように訪れる。その「伝わらなさ」にもがき苦しむ彼女らを、我々視聴者はただ黙って見ていることしかできない。所詮我々はただの覗き屋だ。画面の前に座っている間だけは彼女たちのことを考えているが、ひとたび画面から離れてしまえば彼女らのことなどすっかり忘れてしまうのである。我々は彼女らを救うこともできないし、彼女らに寄り添うこともできない。

いきなり視聴者の話を始めるなど唐突に過ぎるだろうか。しかし「伝わらない」というこの一点においては、キャラクターに本当の意味では寄り添えない視聴者の立場と、まどかを救えないほむらの立場とに大きな差などない。

まどかへの想いを伝えきれずに悲しむほむらが、この「伝わらない」世界のメインプレーヤーであるならば、彼女の苦しみをただ外部から覗き見るしか手立てが無いという不能感に常にさいなまれる我々視聴者もまた『まどか☆マギカ』における「伝わらない」世界のメタプレーヤーの一員であるとはいえないか。

「伝わらない」世界におけるディスコミュニケーションの苦悩。この共通体験でもって我々は『まどか☆マギカ』のキャラクターたちと繋がっている。多くのアニメが押し付けてくる淡白な成功体験ではなく、『まどか☆マギカ』が我々に浴びせかけてくるのは強烈な無力感だ。この差異こそ、『まどか☆マギカ』と周囲のアニメとの「違い」を決定づける一番大きな要因である。

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受験期に正門前に出現したキュゥべえの看板。どこの団体が設置したかは不明。彼と契約して京大生になった人はいるのだろうか。現在は撤去されている。

Ⅱ 「当事者性を引き受ける」という倫理


本作の放映中、主にネット上では「『魔法少女まどか☆マギカ』というタイトルにも関わらず、まどかは全く魔法少女になる気配が無い」、「まどかは最後まで魔女少女にならないのだろうか」といった議論がしばしばなされていた。たしかにいわゆる「魔法少女もの」にも関わらず主人公がいつまでたっても魔法少女にならないなどというアニメは前代未聞であるし、「まどか☆マギカ」の作品内だけで考えても、5人のメインキャラクター、すなわち、ほむら、さやか、マミ、杏子、まどかの中でも唯一最終話まで魔法少女にならなかった主人公のまどかは明らかに異質な存在だったといって間違いない。

そう、一人だけ魔法少女にならなかったまどかは最終話を迎えるまでの長い間、魔法少女をめぐるこのむごたらしい物語の傍観者でしかなかった。その結果、彼女は前章で述べた「伝わらない」苦悩以前に、「そもそも当事者ですらない自分」という問題意識をほぼ全編にわたって抱え続けることになったのである。

ほむら、マミ、さやか、杏子。それぞれに絶望的な戦いを繰り広げる魔法少女(=当事者)たる彼女たちに向かって「一般人」という安全な位置に腰掛けた「非当事者」のまどかが発する励ましや慰めの言葉は、思えばいつもどこか空虚で白々しかった。魔法少女とまどかの間に厳然として立ちふさがる「当事者対非当事者」の高い壁。その存在が特に露わになったのが第8話の前半、まどかとさやかの会話シーンである。

自暴自棄な捨て身の戦法で魔女を倒すさやかに対してまどかは言う。「あんな戦い方ないよ。痛くないなんて嘘だよ。見てるだけで痛かったもん」、「あんなやり方で戦ってたら勝てたとしてもさやかちゃんのためにならないよ」、「私はどうすればさやかちゃんが幸せになれるかって……」。しかし、ここでさやかはまどかに激しく言い返すのだ。「『私のために』って何よ?」、「だったらあんたが戦ってよ」、「私のために何かしようっていうんなら、まず私と同じ立場になってみなさいよ」、と。

まどかのセリフ「見てるだけで痛かったもん」はまどかの非当事者性をもっともよく表している。「本当に痛い」思いをしているさやかからすれば「見てるだけで痛かった」などとのたまっているまどかは、単に「痛いつもりになっている」ようにしか見えないだろう。「あんたが戦ってよ」、「私と同じ立場になってみなさいよ」というさやかの怒声は、「本当の痛み」と「痛いつもり」を混同し、さも自分が「本当に痛い」思いをしたかのような顔で振る舞うまどかの非当事者性とそれに伴う偽善への告発なのである。

自分の痛みはしょせん「痛いつもり」の域を出ない偽物でしかない。魔法少女たちと「同じ立場」でない「一般人」として非当事者性の負い目に苦しむまどかが最終話で下した答えは、「魔法少女になる」、すなわち「当事者になる」ことであった。

魔法少女になったまどかは過去と未来に存在する全ての魔女を消しさることを願い、その対価として過去、未来のすべての時間で永遠に魔女と戦うことになる。「君という存在はただの『概念』に成り果ててしまった」、「もう誰も君を認識できないし、君もまた誰にも干渉できない」。キュゥべえはまどかにそう告げる。

ここで、前章の「伝わらない」世界におけるディスコミュニケーションの苦悩、という話を今一度思い返してもらいたい。「概念」となったまどかの、誰からも認識されず、また誰にも干渉できないという状況は、つまるところ完全なる「伝わらなさ」を意味する。そう、まどかは、人を助けたいと願う魔法少女らにとってもっとも絶望的な「想いの敗北」である彼女たちの魔女化を食い止める代わりに、存在を認識されずまた干渉できないという究極の「伝わらなさ」(=ディスコミュニケーションの苦悩)をたった一人で引き受けたのである。

そして過去と未来にあり得たすべての世界を見たまどかは自分の存在が消える寸前に、ほむらがいくつもの並行世界で自分を守ろうとしてくれていたことを知り、ほむらを抱きしめながら「ずっと気付けなくてごめん」と伝える。長い間、歯を食いしばって「伝わらなさ」に耐え、いくつもの並行世界を戦い続けたほむらは、その言葉を聞いて涙を流す。ほむらの想いが、ついにまどかに伝わったのだ。

ほむらは自分を守るため、ずっと「伝わらなさ」の支配する世界と戦い続けてくれた。だから今度は自分が「当事者」となり、「伝わらなさ」と対峙する番だ。まどかの決意を端的にまとめるならばそうなるだろう。「きっとほんの少しなら本当の奇跡があるかもしれない」。そう言いながらまどかはほむらに別れを告げる。真心と愛に満ちた「当事者性のバトンタッチ」が行われる二人の別れのシーン。その美しさと切なさに鈍感でいるのは誰しも難しいはずだ。実に感動的なクライマックスである。

「伝わらない」世界におけるコミュニケーション不全の苦しみ。その当事者性を自ら引き受けるというまどかの倫理が示されることをもって、本作はその幕を閉じた。残された人々はまどかのことを覚えていないが、例外としてまどかの家族はかすかにまどかの名を覚えており、またほむらはまどかとの記憶を忘れずにいる。まどかのことを忘れたくないというほむらの強い想いが「本当の奇跡」を起こしたのである。

「伝わらない」世界のただなかで、少女たちの声が聞こえる。彼女らは「伝わらない」世界のメタプレーヤーたる我々視聴者にも、希望にあふれた言葉で力強く呼びかけてくれる。

諦めなければ想いは伝わる。奇跡も魔法もあるんだよ、と。

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