【再掲】勉強の「まじめさ」を問う 森毅/日高敏隆/高橋正立(2010.10.01)

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勉強することって何だろう?授業に出るってどういうことだろう?京大の3教官が語り合う。

悪循環するカリキュラム


―最近京大でも、経済学部に見られるように、カリキュラムを厳しくして、学生をもっとまじめに勉強させようという動きがあるのですが、本当に授業や単位を厳しくすることで学生が真面目に勉強するのでしょうか。

日高 以前、僕が授業を教科書通りにやらないので「これだけの事は授業でキチッとやってもらわないと困る」と他の先生からよく注意を受けました。しかしそういう考え方はどうかなと思う。ひとつは、僕は動物学を教えますが、動物学なんかの場合、何が基礎だかわからないからきちんと順にやらなくても特に将来困らないからです。もし将来獣医や畜産をやろうという連中がいても、そういう人はちゃんと知っておかないと自分が困るだけだから、私が教えるまでもなく勝手にやるだろうと期待してます。「学生はそんなこっちゃ勉強しません。学生なんて信用できないですから」こう怒る先生もいましたが「そんなに信用できないんなら先生やめたらどうですか」とこっちも怒り返して、だいぶヒンシュクを買いました(笑)。

それともう1つですが、もし講義をちゃんと聞いてピシッと覚えたとしても、それが、何年くらい役に立つと言うのでしょうね。

森  そんなもん、ダメですね。

日高 やはり、2、3年もすればダメになるでしょう。だったら授業をやってピシッと覚えさすよりは、ウソでもいいから自分なりの考え方ができるようなやり方をとった方がいいと思う。動物行動学では意見がガラガラ変わるから、あんまり昔の事を覚えられていたら困るわけですよ(笑)。ピシッと答案が書けるよりはむしろ、書けなくても本質的な部分だけを理解しておいて、だいたいの線を覚えておけばいい。2〜3年して新しい考え方が出た時、どういう風に変わったのか聞くだけの興味があれば充分だと思う。

高橋 私は、例の経済学部の改革の議論をしていた委員会にもオブザーバーとして参加しているんですが、「学生が勉強しなくなった」というよりは「学生が主体的に問題意識を持って勉強しなくなった」んだな。つまり勉強の中味が問題です。ほっといたら学生は勉強しない。だから単位を厳しくするんです。昔なら、「自分はこれが勉強したくて京大に来た」という人が多かったのですが……。勉強の中身より、単位にこだわりすぎる。今日のこの座談会ですら、テーマはそれにとらわれている。

森  昔の事を言えば、僕の時代、数学科は今よりもずっと楽で、旧制3年間で必修4科目、全部で9科目しかなかった。だいたい週に授業が3回で、なぜか土曜と日曜にあった年もある。僕らの頃は遊ぶところが少なくて、みんな用もないのに大学に立寄っていた。僕は用が他にあったから大学にはいませんでしたけど(笑)。で、そこでは今でいう「自主ゼミ」が盛んだった。何人かで集まって誰々の数学書を読もうとかいうもので、それが授業の数と同じくらいあり、熱心なヤツほどいっぱい出た。

高橋 ところが今の学生は単位のためにしか勉強しないんですね。かと言って単位を厳しくして勉強させようとすると、単位でしか動かない学生をますます単位に縛り付けてしまい、主体的にやる態度は失われていく、というジレンマに陥ってしまうんですね。

森  そう、ジレンマ。僕がある大学の先生と議論していた時のことですが、外国語の授業で出席とったりテキストから問題出したりするけど、そこの学生は訳本を見てるだけやったりして、実体はただ出席をとるから座っているという感じで、内実がかなり堕落している。それを見て「その場で問題変えたり、出席とるのやめたりしたらどう」て言うたら、「京大ならそんな事できるかも知れんけどウチは無理や」と言われた事があった。その議論の結論は忘れたがその時思ったのは、制度的な面を厳しくすればする程、内実は悪化して悪循環を繰り返す、という事ね。

中身を求める授業とは?


日高 僕の場合は、講義を聞いて、感想文を書かせる。そうしたら単位を出す、というやり方で授業をやっている。

―感想文といいますと?

日高 面白かった、つまんなかった、とかそういうものです。出した人は皆通す。出すのをサボったとか期限に間に合わなかったとかいうのは、単位をもらう意志がなかったと見なして落とす。落とすというより、向こうから勝手に落ちた、という方が正しいけど(笑)。

―森先生は自分から落とす場合もありますね。

森  人数が増えたら仕方ないもの。昔は40〜50人だったからみんな通した。皆の顔を知ってて、レポート出さんのは大体学生運動をやってる連中だったから、あいつらだけ落とすわけにもいかなかった。それから人数が増えて、レポートを全部見きれなくなるから防衛上落とすようになった。

―その際、「合格」「不合格」の基準、はどこにあるんですか。

森  やっぱり、見ててオモロないのあるよ。僕は自分の書いた本とかを写してきたのを見たら、「俺が書いたらもっとうまくまとめるものをわざわざ下手に書きやがって」と腹が立って即落とす(笑)。

高橋 でも逆に、「自分がまとめるよりうまく書いてるなあ」と思ったときは、惜しまず100点を出しますよ。

僕の授業はキビしいと言われるけど、こちらとしてはハードルを低く構えてるはずなのに、学生に跳ぶ能力がないんだな。それから「一般教養だから楽だろう」とタカをくくって何の準備もなしに来るようなのもダメ。だいたい授業に出れば通るような難しさの程度です。何も専門的な知識を要求しているのではなく、最低限自分なりの見方が出来ているか、出来ていないかを見るわけです。

ところが学生が勉強しなくなってきた。最初は試験は論文形式で「資本主義と社会主義について論ぜよ」といったのを出していたのですが、書ける学生がいなくなってしまった。そこで仕方ないから、ある程度記憶すれば書けるようなやり方も取り入れたのです。「人口、環境、資源の言葉を用いて自由に書け」とか、用語説明などですが、これでも書けない学生が多い。こちらとしても学生を通すために実は至れり尽せりやっているつもりですよ。

―3回休めばゼミから除名すると聞きましたが。

高橋 ゼミというのは共同で思考する形式だから、休まれたら困ります。自分の発表が終わったらいなくなると、後でその問題が出てきた時に困ったことになります。

森  でもウチのように500人来たらどうする?

高橋 その時はセレクトします。今も30人くらいいるけど、もう少し減ったらやりやすいなあ。

森  日高さんも教養部に来たら同じ目に遭いますよ。

日高 僕は東京農工大では教養部の授業を持っていましたが、その時の人数はすごかった。自分自身学生時代オヤジが病気で、バイトばかりしててほとんど授業も出れずに卒業させてもらったから、学生を落とすということは僕にとっては殆ど犯罪行為です。単位をやるということはひとつの権力があって、単位を濫発すればその値打ちも下がり、大学を解体するまでもなく権力は内部から解体されるのです。

高橋 要は問題意識を持って自発的に勉強する学生が増えてくれればいいのであって、そうなれば単位がどうのこうのという話は問題でなくなると思う。

入試制度 ―このままではいかん


―しかし学生の立場から見ると、なにもあくせく勉強しなくても卒業はできるし、卒業後は行きたい所に就職できるしで、あまり「主体的な勉強」というのも意味がないような気もするんですが。

森  それはウソよ。今は企業でも物凄く独創性が要求されているでしょう。企業の人に言わせると「秀才だが、マニュアル通りにしかやらないタイプの学生が一番困る」そうです。

日高 僕も最近、京大の学生を見て不安になることがあるんだけど、どんな場合にでも適応してやっていくことができないんじゃないだろうか。「ここは自分に勤まりそうにない」といって尻込みしてしまう。こっちが「仕事なんか自分でやるようにするんだ」とけしかけても「いやあ、シンドイです」という話になってしまう。どうもこれは先行きが不安ですね。

森  ここ数年で変わった例をあげると、教養のドイツ語で出席はとらない、テキストからは一切問題は出さない、そのかわりテストは辞書持ち込み可という先生がいた。ところがそういう授業は人気がどんどん下落しているんですね。つまり出席を重視したりテキストをどれだけやったかで評価するような「型」に乗っかることで安心する学生が増えたのです。もう1つ数学の例をあげると、教科書通りに授業をやると、昔は授業に来てくれなかった。学生さんに来てもらおうと思ったら、必ず教科書から外れなあかんかった。ところが、今では教科書と違ったやり方をすると「何でわざわざ教科書があるのにやり方を違えなあかんのや」と怒られたりする。

高橋 やはりそんな学生を入らせないように、入試制度を変えるべきです。

森  共通テストや中学、高校の入試は決まった答えがあってそれを求めればいいのだけど、京大の二次試験は方向性が違って、論述的にウジャウジャしている方が有利なのね。例えば数学でも、京大では答えが合っているかどうかより途中のグシャグシャを見る。だから高校入試的な考え方をする学生には不利で、型にはまった考え方をするのは、京大の入試にすらマイナスになっている。

日高 ところが実際には、入試のときだけ頑張ってみても、それ以前の時期にグチャグチャにされていたら、大学に入っても何をやっていいのか分からなくなってしまう。

高橋 だから、難しい入試をやって落とすのは殆ど意味がないと思います。森さんにも前に言ったことがあるけど、入試は、一般的な試験だけを行って、そのあとは抽選にした方がいいのではないでしょうか。そうしたら、あくせく勉強しても仕方なくなるから、少しはましな勉強するようになるのでは。今日のような変動が激しい国際情勢の中で、型にはまった考え方しかしない学生が日本をリードするようになった時のことを考えると……あまり日本がどうなるかという言い方は好きではないのですが、しかしこれくらい過激な方法をとらんと、どうにもならないと思う。

森  それでも全部抽選にすると自力で入って来る人が可哀そうやから、上位3分の1だけは成績で入れたい(笑)。

日高 実際入試の点数を見ると、上の方は差が開いているけど、当落線上では同点がずらっと並んだりして、殆ど差がない。

森  だから通った、落ちたというのはある程度運であって、通った人が落ちた人をバカにするのはナンセンスやね。

日高 本当にナンセンスです。また、学生だけでなく、最近では先生の考え方までマニュアル化しているんですよ。大学の先生の組合は「文部省はもっと研究費を出すべきだ」これしか言わない。これも完全なマニュアル化です。確かに研究費をとるのは大変だけど、何か方法を他に考えたらどうですか、と言いたくなる。僕が怖いと思うのは、学生も先生も全体がパターン化してしまうことです。

森  学生運動ももう少しやり方を考えてもええんとちゃうか(笑)。

主体的学問のススメ


―ところで昔なら、どういう場で主体的に活動できたのでしょうか。

日高 僕は動物学者ですが、昔は動物学をやっているというのは希少価値があって、動物の話となればいろんな所から引っぱり出された。動物についてこの点が分からないから話をしろ、と言われてもこっちだって知らないから、その時になって勉強する。一応大学院生だったから、知っているような顔をして何か言わんといかんわけです。それが結局、一番勉強になりました。

若い人はもっと無理をしてもいいと思う。「これは出来ないからやりません」ではなくて、「出来ないからやる」んですよ。出来るんだったらやる必要はない。努力すれば出来なかった事でも少しは出来るようになる。

森  僕は大阪育ちだから損得勘定が働くところがありまして、何せ性格がちゃらんぽらんなものだから時々ドジるわけ。だから「出来るだけ他人から期待されない所にいた方が得だ」という考え方があるんです。期待されていてドジると、他人の期待を裏切ることになるけど、期待されてない場所だとドジっても平気でしょ。

僕は書評を書く時も、自然科学系の本だと同業者のことを気にしてしまうから、つい社会科学系とか、人文科学系の本になってしまう。自分の不得手な分野なのでダメでもともと、と思って書いていくうちに、結構レパートリーが増えて得だったりする。

最近の学生は、スケジュールがなくて時間に空白があくのを避けようとする。退屈に耐え、退屈を楽しんでしまうという美学がないのね。時間割は明らかにつめすぎる。あんまりつめずに、空いた時間でどっか面白そうな授業でも見にいけばいいのに、と思う。

60年代、理学部の学生が教官に対して、こんな授業やれ、とか次々要求したことがあった。先生はそれを認めて授業を増やしたが、学生がその授業を全部とって、スケジュールがギッシリ、という事になった。むしろ学生の方から進んで単位強化されたがってるような気がする。

日高 僕らが学生の頃は、授業をつくってもらおうという事自体そもそもなかった。大学の先生がそんな事認めてくれるワケないんだから、こっちでやるしかない、と学生が勝手にやっていた。ところが今は学生が言うと、先生がやさしくて、「そうか、そうか」と何でも作ってくれて、教えてくれるわけです。ところが僕らの時代は教えてくれ、と思ったことはなかった。

森  多分、教えることと教えられることと自分たちでやるのと、バランスが取れている方がいいと思う。今、「教わる部分」がどんどん過剰になっている。

高橋 最近はテレビ番組でもかなり密度の高いものが出来ている。

日高 あんなに教えたらどうなるかな、と思ってしまうくらいですね。動物の番組でも昔なら、動物が何かの行動をして「面白いですね」ですんだのに、今では「次にどういう事をやると思いますか」とクイズになって、当たった当たらないので盛り上がったりする。ああいうのを見てて、何かやらいすぎじゃないの、と思ってしまう。

森  確かにそれによって動物に対する知識が増えてしまったんですな。

高橋 それと実際の動物を知っているということは別だと思いますけど。

日高 教えるとか教育することとかに対して、みんながあまり熱心になりすぎているんじゃないのだろうか。

―そんな世間に対して、「自発的な活動の場」としての大学が対置できるのではないでしょうか。

高橋 高校までは、「学問というのはこういうもので出来上がっているものだ」という形でそれを押し付ける形になっている。ところが大学では研究と教育が一体になっているから、「学問とは不完全で未完成なものだ」ということが、学問が創られつつある姿が見えてくる。そこで大切なのは学生も先生も共に考えるという事。そういう意味では、学生はもっとやればいくらでも自由にできる、というところを考えてほしい。

日高 十数年前、僕が東京農工大にいた時の話ですが、1日の半ば頃に授業あと3回分残ってたけど早くやめて、3回分休講にするからレポートをその時間に書いて、出来たら持ってきてディスカッションをやることにした。その時「出来た人だけ来い」と言ったにもかかわらず、次の週全員来ていた。「みんなもうレポートができたのか」と聞いたら学生の1人が「そうじゃないんです。急に休講と言われてもどうしようもなくて何か話しをして下さいよ」と言ったんです。話をしてもらわないと不安になる、追い出されてしまうとどうしていいのか分からなくなる、という風に高校までにされてしまったみたいですね。

高橋 ですから大学の教官を見ると、高校までの教育と大学での教育は断絶しているという意識が強いんですけど、学生の方は連続している様に受け止めてしまっているんですね。

森  連続しているつもりで来たが教師が同じように対応してくれないので神経症が増える。

高橋 そこで経済学部が1回生から面倒を見てやろうとしているわけです。これは教師の側から見れば確実にオーバーワークです。だけどそこまでせんことには、あまりにも学生が可哀そうだと言ってるわけです(笑)。

森  そこでさっきの悪循環の話になる。

高橋 どこでその悪循環をたち切ろうということは考えなければいけませんね。

森  反対する側も、ただ「管理強化」と言うのではなく、自主ゼミとかをどんどん増やして、「俺達はこんなに勉強で忙しいから、単位を増やしてもらったら困る」というように、ウソでもいいから実績を作って先生にぶくけるという方が、方法としては面白いんじゃないかな。

高橋 そういう人が増えて来ると、単位にこだわる事も少なくなって来るんじゃないかな。

日高 しかし、自主ゼミと言っても、実際議論というのは酒の席でもできるわけであって、あまり「自主ゼミ」という制度にこだわる必要もないと思う。自分たちで自主的に勉強しようという時でも、「自主ゼミ」という制度を作ろうとするのも、一種のパターン化された思考ではないだろうか。

高橋 「管理強化」という言葉も実はパターン化されているんですね。

森  「管理」の反対で「自由」という言葉を使うけど、自由というのも結構大変よ。自由には責任が伴うとうのは僕はウソだと思うけど、危険とややこしさは伴っている。いつか学生と話してた時下宿の話題が出て、「下宿に住んだら自由になれるかと思ったのに、人付き合いが増えて自分のしたいこともできなくなった」と学生が言うので、「アホか、ママの作った勉強部屋の中でカギしめてポルノ読むのは自由と言わんのや」と言ったことがある(笑)。いろいろウロウロするから自由なんで、ウロウロするからややこしい事も増える。自由になるちゅうのは、結構修業せんとあかんのよ。

(京都大学を知る本 京大サクセスブック1991掲載)


ひだか・としたか 1930年生まれ。91年当時、理学部教授。93年に定年退官。京都大学名誉教授。専門は動物行動学。09年に肺がんにより死去。

たかはし・まさたち 1932年生まれ。1991年当時、教養部教授。専門は経済学。

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